ぼんやりした日々

ここ数年、私はあの音とダイレクトに繋がっている日々の感覚を失くしてしまっていました。
大きな支柱も失いました。志村さんは物理的に、岸田氏は精神的に。

くるりとは、夢から覚めてしまった後は、ライブがあればだいたい行く(やっぱりくるりのライブはどうしても良いから)、けれども普段は特に追わない、というゆるい結び付きになりました。決定的に離れていた時期に感じていた怒りのようなものはいつしかおさまりましたが、それはつまりは親しみや愛着が離れたということでもあり、それを自覚してもいたので哀しくありました。

フジは、これからどうなるのかと本気で心配をしていた期間を経ての復帰後、溢れる嬉しさで必死になって応援をしていたものの、やはり自分が求めていた音楽は志村さんの作り出すものだったというのを痛感し、勿論今でも好きだし応援はしているのだけれども、それ以上に入り込むことができない状態です。

あんなに大事だったものが何だか遠くへ行ってしまった、と、その喪失感をしみじみと感じながら、それでもライブに行っては楽しかった、でもやっぱり昔とは違うな、と、寂しさを覚えるということを繰り返していました。
何というか、「傍観者」にしかなれないのです。音やステージ上で起こっていることに意識を傾ける自分を観察している冷めた自分を取り払うことができない。単に音や場に生でぶつかって酔うことができない。

頼みのCoccoも音楽活動は半分休止状態です。
他のバンドやアーティストの曲を聴いたりライブに行ったりもしていますが、やはりぼんやりしています。

陶酔させてほしい。全てを忘れさせる位、ぐらぐらと心を魂を根底から揺さぶり動かしてくれるものや存在が欲しい。
あんなに好きだったから、失くしたことは本当につらかったけど、今それが無いのもつらい。

切望していました。あの日々の感覚を。

でも、そんなにホイホイ「好き」になることができない私です。普通の良いかな位ならまだしも、心底感嘆するようなものにはますます出会うのが難しい。ツボの範囲も狭すぎるし、そもそも出会いに貪欲ではない。

半ば諦めながら、今こうして失くしてしまったのはつらいことなのだけれども、あの頃、あんなに熱中できるものに出会えたのは幸せだったと言えるのかもしれない、などと考えては切なくなる。

私が見つめているのはあくまで「過去」だ。「現在」にはないし「未来」も見えない。ゆるやかに身体中に染み渡る哀しみ。ライブに行かなくても寂しい。ライブに行っても寂しい。

そんな行き詰まり状態の中、NOW AND THEN企画は動き出してました。

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