Affirmation

世田谷育ち、都立大附属から中大理工へ。

客観的に見れば決して弱者ではないはず。ただし本人にとってはどうだったのだろうか。

三茶でナンパ師をしていたという話からも強烈に漂うのは”認められたい”という渇望。


たとえ誰かたった一人だったとしても、そのままでいいから、大丈夫だよと、丸ごと受け入れてもらえるような体験が、一度でもあったとしたら違ったのではないか。

そんな風に思った。


都内でも地域差はあると思うけど、この辺りだと、今なら中高一貫都立校に通っているような、経済的文化的に他地域であれば中学受験をしているような層も、中学まで公立に通っていることはよくあった。学校が極端に荒れていることもないし、公立中学の教育から高校受験を経て初めてそれぞれの学力•階層に近い集団へ入るというのが一般的とも言えたと思う。

公立中の最上位層は偏差値70を超える国立附属や私立、その他優秀層は地域の都立最上位校や70弱位の私立へ入っていく(それなりの文化資本を持つ家が多いので、中学受験をしなくても高校やその先の大学進学に成功できるわけだ)。

都立大附属は公立大附属というので珍しいのもあるし、そもそも私には自分の進学先の決定権がなかったので存在をあまり認識していなかった。おそらく学年でもクラスでも上でも下でもない位の層が選ぶところなのではないかと思う。

下ではない、でも上でもない。自分のアイデンティティーをどこに置くのかにもよるけれども、こんなはずじゃない、本来はこんなはずじゃなかった、そんなことの積み重ねが、小田急事件を起こしてしまった彼に、かえって屈折した選民意識と本当は違った何かになれたはずという強烈な錯覚を生んでしまったのではないかとも感じられた。


私が行くことになった高校は進学校だったので、国立か早慶で「普通」という価値観が蔓延していた。私自身はそれに馴染めず気持ち悪いなと入学時から抗っていたものの、同級生の父親が高卒だという話を聞き、そんなことが存在するのかと心底驚いてしまったことがある。両親大卒、その上の世代も大学へ通っていたというのが「普通」だと思い込まされていたからだ。

高3の受験シーズンが終わり、再会した時に進学先がMARCHだと、出身高内で話したとしたら、気まずい沈黙の後に「まあでもきっといいことあるよ」的な意味不明な労いがあるだろう。


私が10代までを過ごしたのはそのように閉鎖的で凝り固まった価値観の中だった。

学校だけでなく、その外がさらに酷かった。

私の望み、好みが省みられること、受け入れられることは一切無かった。意志を持てば潰された。結果を出せばより先を求められた。できること、好きなことは危険なことだった。結局それらは自分の元を離れいいように使われて自分の首を絞めることになる。だから音楽は捨ててしまった。勉強もする気が無くなった。一方、できないことは愚かなことだと思わされていたし、黙って言うことをきかない、気に喰わないと総出で攻撃される。袋小路だった。


それ以外の諸々もあって、私は抜け出した。結果、それまで「普通」だと思い込まされていたことが絶対的なものではないと知ることができた。「お前が悪い、おかしい」と言われ続けていたけれど、そうでもないと、少しずつ見えるようになった。

今でも理性的にはそう思えても、芯から納得できてはいないのだと思う。ふとした瞬間に呪いのように蘇ってきてしまう。それでも振り解き振り解き、何とかやっている。


Cocco主演の「KOTOKO」で、血まみれのちっとも大丈夫なんかじゃない状態で「大丈夫、大丈夫」と言い続けるシーンがあってすごく印象的だったんだけれども、「大丈夫」じゃない時にはそういう風に「大丈夫」って暗示をかけてやっていくしかないんだって、自分については思っている。

サバイバーを自認し発信するようになったCoccoは特に最近、積極的に「大丈夫」と、意識的に皆に投げかけるようになった。「スターシャンク」、「クチナシ」、「Cocco姐さんシリーズ」と、彼女の姿メッセージをを見て聴いていると、そこにあるのは深いAffirmationだと感じる。自分を受け入れ、周りも受け入れる。今も昔も。あなたも大切、私も大切。のびのびと、時々自虐もおりませながら語り魅せる彼女はとても美しい。

私がCoccoに直接会うことはできないけど、彼女の今とそのメッセージにとても救われている。「大丈夫」という言葉は、私に直接投げかけられたものではないけれども、私にも届くもの。ありがたく受け止めてお守りにする。

全然大丈夫じゃない時にも、Coccoが大丈夫って言ってるしって思い出せれば違うかもしれない。

私はAffirmされなかったし、自分でも未だにAffirmationができていないけれども、遠くではきっとCoccoがAffirmしてくれる(はず)。


今でも根本的に諦めている。余計に傷つくから、期待を捨てた。他人、と自分自身の人生に。血縁に虐げられたので、全く悪意の無い人のことも信じることが難しい。一定以上の好意を持たれることを未だに嫌悪してしまうし、近づいてくる人がいればこの人は自分から何を奪おうとしているのかとかつては特に訝しがっていた。それでも、それなりの距離感で繋がってくれる友人知人や恩師等がいること、彼らと過ごした脅かされない日々の記憶、と、そこで得た教養は支えになっている。

私はサバイバーではないし、Coccoのように深い愛を皆に届けることはできないけれど、願わくは。Affirmationを渇望する少しでも多くの人に、「あなたはあなたでいい」と伝える存在、脅かされることのない時間が現れますように。

大切にされた記憶は同じように大切にする•できる人を増やすから。大切にされて、自分も、周りも、大切にできる人が増えますよう。

優しい社会が優しい人を生み増やしますよう。

なかなか届くことはないけれど、そう祈っている。

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