映画「希望のかなた」観てきた。
シリア難民の問題を扱った、アキ・カウリスマキの映画です。
※以下、ほんの少しですがネタバレに近い記述もあるので、これから鑑賞される方はご注意を。ほぼ影響ないレベルとは思いますが。
難民問題、というと構えてしまう人もいるかも知れないけど、カウリスマキの映画ってことを差し引いても全体としてあまり緊張感がなくて、欧州の人たちにとっては難民問題がすでに日常問題化している現状が垣間見られる感じでした。上演前に流れた予告編にも、難民を登場人物にする映画がいくつか入ってたし。
今はもう、ヨーロッパはそういうフェーズなんだと思います。誰にとっても目に入るところに難民や移民がいて、その人たちとどう暮らしていくか、っていうことを、みんなが自分の問題として考えてる段階。日本のように、難民が国内に存在すらしないみたいに振舞っている段階ではない。
映画の中では難民たちの語る過酷な体験も、すでに聞き飽きている風情の警察官や難民審査官、ガイジンとみれば誰彼かまわず襲いかかる右翼グループの姿が淡々と続き、日本にも排外主義的な愚連隊が増えてきてるので他人事ではないのですが、それでもカウリスマキらしいすっとぼけた空気があるので、見ていてしんどくなるほどではありません。
とはいえ、難民申請はあってもほぼほぼ却下(認定率は毎年1パーセント行くかどうかみたいなレベル)、それ先進国としてどうよ、と各国から批判されている日本だけでなく、社会福祉先進国で、政治的にもなんとなくオトナな国みたいなイメージで、多くのリベラル勢から憧憬の念をもって見られているフィンランドにも、かような排外主義は存在するのだ、という現実をちまちまと突きつけられます。
フィンランドって実は欧州の中でも難民認定が厳しいほうで、レイシスト集団が社会問題になったり、排外主義を唱える政党が議席とったりっていうのが実際問題としてあるんですよね。
ニュース記事見てると、あれっうちの国の話かな??って思うような部分が多々あります。経済の低迷問題の原因が外国人にあるかのような仄めかしで憎悪を煽る手法も、なんとなく既視感があるし。
それでも映画の中では、自分たちだって決して贅沢な暮らしをしているわけでもないのに、目の前にいる困った人に自然に手を差し伸べる、無愛想だけど心優しいフィンランドの市井の人たちの姿に心救われます。おとぎ話のように優しくて、少し滑稽で。
そんな風にして油断してファンタジックな世界を楽しんでいると、ラスト近くの排外主義者の一言に、いきなり氷の入った水を頭から浴びせられる感じ。
排外主義者の外国人に対する憎悪の理由はあまりに愚かでもはや冗談みたいで、要するに理由かんかないんだな、ということを改めて思い知らされます。だけどその愚かしさがあまりにも生々しく「現代そのもの」で、ドンって撃ち抜かれる。
監督はこの一撃にすべての想いををこめたんだろうな、と思う。穏やかにニコニコしてるけど、目だけは笑ってない人の静かな怒りみたいな映画。
ですがそのシーンの先は、誰もが想像するようなバッドエンドではないのです。絶望と希望が綯交ぜになったようなラストが、ものすごくヨーロッパ映画だった。こういうの、アメリカで試写したらたぶんブーイングの嵐で、ブレードランナーの初期公開バージョンのようなことになってしまいそう。でもそのもやっと感を、そのまま受け止めたい作品です。
ストーリーの展開的に脈絡があるんだかないんだかわからない熟年クライシスっぽい夫婦の物語が、何故物語の横糸として取り入れられているのか、ということも、ずっと考えてたんですけど。
誰かが誰かを大切に思う気持ちが、別の誰かが誰かを大切にしたいと思う気持ちを揺り動かす、そんな優しいエピソードなのかも知れないし、定住地のない難民の生活と、なんだかんだいっても平和を享受しているからこそ家出や寄り道もできる定住者の生活の冷酷な対比かも知れない。ひとつの答えは描かれてなくて、同じものを見て何を想うかによって、その人自身が試されるようでもある。
痛快で、終わったらみんながスッキリした顔で劇場を出てくるような映画ももちろん好きだけど、みんながなんか語りたいんだけどうまく語れる自信がイマイチないし、他の人が自分の感じたことを理解してくれるかどうかってことにもあまり自信がもてなくて、仕方ないからつい「犬、かわいかったね」みたいなどうでもいいことを言っちゃうような、そういう種類の映画って、それでもやっぱり見た人と語ってみたくなりません?そういう映画です。
最後に、映画関係ないけど、私が子供だった頃の話。1970年代後半から80年代の日本は、内戦を逃れて海を渡り、ボートで逃げてくるインドシナ難民をそこそこの人数受け入れて、定住のための支援活動をしてました。中国残留孤児の親探し事業もやっていて、彼らが中国の家族や親戚も連れて日本に移住することも、おおかた認めていました。
これ自民党政権が、普通にやってたことなんですよね。それから半世紀もたたないうちに、ナチュラルな排外主義が蔓延する世の中になっちゃうんだもの。難民は助けるもの、困った時はお互いさま、って習って育った身からしたら、びっくりしますよ。
バブルが弾ける前、若年失業率15パーセント超えのフランスに留学した時には、移民局での外人いじめも経験しました。行くたびに違う書類をもってこいって言われて、何回申請しても滞在許可証を出さないんですよ。
滞在許可証がなきゃ銀行口座はひらけないのに、銀行口座がなきゃ滞在許可証は出せないと言い張ったり。いわゆる水際作戦です。あのポワロヒゲの役人、今でも顔を覚えてる。
経済的に落ち目だったEU以前の欧州の空気を反映して、授業中に「ソニーの製品はみんな欧米の猿真似」みたいなエッセイを読まされて、ディスカッションさせられたこともありました。クラスにアジア人は私ひとりです。これはレイシズムだ、と泣いて抗議したら、ヨーロッパからの留学生の子たちが謝りたいとカフェに誘ってくれて、でも最後は私そっちのけで、じゃあ欧州の経済をどう立て直すのかーなんていう難しい議論を戦わせていたのも、今は懐かしい思い出です。
何が言いたいかっていうと、いまの日本でゼノフォビア、排外主義に走っている人たちは、自分たちが海外に行って、難民やガイジンとして排除されることへの想像力がなさすぎるってこと。ちょっとまた大きな地震でもあれば、日本人だってすぐにも流浪の民になり得るのに。
だからこそ、映画に登場する地味な市井の人たちの姿を、よく覚えておこうと思うんです。静かに、でも確実に世界を変える力というのは、目立つこともなくそのへんで生きてる私たち市井の人間が、黙々と、けれど毅然と、自分の目の前の困ってる人に手を差し伸べ続けることなんだよなぁって、そう思うので。
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