鍼灸師が「治る」について考えていたら、スピリチュアルに目覚めそうになった話。
先日、「在宅鍼灸しゃべり場」という、オンラインコミュニティで「傾聴、共感」というテーマでお話し会をした。
そこで「治る」とか「治す」という言葉について、深く考えさせられた。
鍼灸師なら一度は「治りますよ!」とか「治します!」と言ったことがあるかもしれない。あるいは、患者さんから「治りますか?」と聞かれた経験はないだろうか?
しかし、考えてみてほしい。そもそも「治る」とはどういうことか、明確に説明できるだろうか?私にはその自信がまったくない。
そこで今回は、先日の「在宅鍼灸しゃべり場」では語りきれなかった「治る」とはどういうことか?について考えてみたい。
誰にとっての「治る」なのか?
「治る」には2つのアウトカム(結果・成果)があると考えている。
1つは「患者」が定義するアウトカム
例えば、自覚症状が緩和したor消失した、生活が楽になった、QOLが高まった、不安や抑うつが軽減した・・・など「患者本人が定義する」もの。
2つは「治療者」が定義するアウトカム
例えば、検査数値や画像所見が改善した、ADLが向上した、ROMが広がった、筋力が増加した・・・など「医学的に定義される」ものだろう。
しばしばこの2つには、かい離が見られる。「関節可動域が改善しているが、痛みは改善していない。」などである。医師が「治っている」といっても、患者は「治ってない」と感じる原因はここにある。
つまり、患者と医療者のあいだで「治る」というアウトカムを一致させる必要があるのではないだろうか?
先日の「在宅鍼灸しゃべり場」ではこんな意見がでた。
・患者さんと「治る」に関する共通認識を持つよう話し合う
・小さな目標を具体的に決めて患者さんと共に意思決定をする
・「治る」とはどういった状態なのかを具体的にする
「治る」を考えるとき、すべては「患者との対話にある」と改めて実感した。
我々は何を「治す」のか?
すこし前に、難治の病気を抱えたかたと、ツイッターでやりとりした。
「治る」という言葉の解釈が、とても印象的だった。
分かってるんです。治らないって。でも絶望の中の一筋の光みたいな言葉ですね。その言葉だけで生きていける。西洋医学の先生から治りません。と言われてますからね。それは現実、私の体はそうなんでしょう。でもきっと東洋医学の先生は私の魂を、救うお手伝いをしてくださるのではないかと。
わたしはしばらく、「魂を救うお手伝い」について考えていた。
だれしも「健康でありたい」と願うのは人間の心理で、生きがいだと思う。
しかし、「治らない病気」をかかえているひとにとって「健康」とはなんだろうか?
一般的には「身体も、心も、社会的にもいい状態が健康である」と定義されているが、そこには「魂」という概念は存在していない。
そこで「魂を救う」を「癒やし」という言葉で理解できないだろうか?
鍼灸師の中根一先生は、「癒」の語源について興味深い考察している。
疒(床に伏せた状態)+兪(抜き去る)+心(こころ)
=癒(床に伏せるようなこころの状態を抜き去る)
「癒やし」のプロセスには、かならず「こころ」が存在しているというのだ。
私たちは患者を前にすると「原因はなにか?」とか「どう評価するか?」を考えてしまいがちだと思う。しかし、「元気になってほしい。」「苦痛が緩和してほしい」という「治癒を一心に願うこころ」こそ、「癒やし」の原点なのだろう。
すこし、まとめよう。
「治る」には、医学が定義する客観的側面と、患者が定義する主観的側面がある。そこには乖離がうまれるため、やはり対話が必要である。
「治らない病気を抱えるひと」にとっての「治る」とは、「希望の言葉」であり「魂を救う」言葉である。
「相手を一心に思うこころ」は「癒やし」や、それ以上の、「スピリチュアル的な、なにか」をもたらすかもしれない。
「スピリチュアル的な、なにか」についてまだ、言いたいことがある(笑)
これ以上は長くなるので別パートとします。笑
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