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秋は何処へ

今日大学に向かう途中
白い息が出たことに驚いた。

私にとって白い息とは冬の訪れを感じさせる現象だ。

季節が移り変わる中一つの目印として私の中に存在している。


「もう冬になるのか〜」

思わず脳内でこう呟いた。

思えば少し前まで夏だった気がする。

9月になっても暑いまま。

我が物顔で長期間居座る夏に
私は年々嫌気がさしていた。

しかしそんな夏も時期に去っていき
徐々に人々が暮らしやすい気温になり始めた。

秋の到来である。

私は四季の中で秋が一番好きだ。

適温で食べ物は美味しく運動もしやすい。

日本人なら秋が嫌いな人は存在するのか
甚だ疑わしいものだ。


そんな大好きな秋だが毎年思う事がある。

短い

夏と冬に比べて短すぎる


私の感覚では年々夏と冬が長くなっていると感じる。


夏に関していえばもはや6月から暑い。

そして9〜10月まで平気で暑さをもたらす。

勘弁してくれ。

精々夏のメリットといえば
アイスが美味しいことと服装が身軽なことだけだ。

そんなに長く居座らなくてもいいじゃないか。


冬も同様だ。

11月あたりから寒くなり始め
3月あたりまできっちり寒い。

4月まで寒いこともある。

これも勘弁して欲しいが、
鍋が美味しくなることと
布団の中が天国になることを加味すれば
少なくとも夏よりは許せる気持ちになれる。


この現状において
春と秋は迫害を受けているも同義だ。

もはや行方不明と言えるだろう。

彼らは夏と冬の強力な力によって
我々の目に映らないほど霞んでしまったのだ。

なんと悲しいことだろう。


そんなことを考えていると
あることを思いついた。

春と秋は夏と冬の間に現れる季節である。

つまり今でも多少暑くなったり寒くなったりしているが
存在しているのではないかというものだ。

夏と冬の期間が長くなっているのではなく、
春と秋が以前より暑く、寒くなったとも言えるだろう。

だから他の季節と同化して見え、
行方不明になっているのではないか。


一見理にかなっているとはいえ
私は明確にNOと言わねばならない。

それはこの意見による春と秋と
私の思っているものが違うからだ。


この意見の春と秋はいわば相対的と言えるだろう。

相対的春と相対的秋。

そもそも季節に相対的とか絶対的が存在するのか。

という疑問もあるだろうが今私が作った造語なので
大目に見ていただきたい。


私の思う季節は論理が関与しない、
直感的に感じるものなのだ。

それぞれの季節にはそれぞれの特徴がある。

気温は顕著だが食べ物や身辺の変化、
植物や風景もわかりやすい。

それらを全身で感知し、
論理を介さず直感的に適切な季節が脳内に浮かぶ。

このnoteの冒頭で私が
白い息を見て冬を感じたように。

これは四季全てに適応されるべきだ。


この考え方からすると
先の意見は否定しなければならない。

春や秋を感じ取れなくなった現状に対し
論理をかざしながら春と秋を作り出す。

その作られた春と秋は本物なのか。

夏と間違えるほど暑くないだろうか?

冬と間違えるほど寒くないだろうか?

私は自分を偽ってまで春と秋を作り出したくない。

そんな慰めを受けるくらいなら
いっそのことこの現実を受け入れるだけだ。



季節は時期に冬へと移り変わる。

今年あとどれだけ秋を感じるかはわからない。

きっと少ないだろう。

そうしたら次に出会えるのは来年ということになる。

それでも来年同じことを思うのだろう。

秋は何処へいったのかと


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