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【コンサートミニレポ#9】神の下で脱神秘へむかう——東京少年少女合唱隊第73回定期演奏会~そして光へ~

東京少年少女合唱隊 第73回定期演奏会 ~そして光へ~
日時 2024年4月 3日(水)19:30開演(19:00開場)
会場 東京カテドラル聖マリア大聖堂
常任指揮者/芸術監督 長谷川久恵
合唱 東京少年少女合唱隊/コンサートコア・ジュニア・カンマーコア・コールス
オルガン 木村理佐

ブルックナー:《義人の口には》
フォーレ:「イン・パラディスム」《レクイエム》より
一柳慧:《児童合唱のための「満月の夜の会話」》
松平頼暁:《児童合唱のための無窮動》
オリーヴ:《スターバト・マーテル》
フォーレ:《めでたし、真実なる御体》
フォーレ:「恵みのみ母、マリア」《2 つのオッフェルトリウム》より
ブルックナー:《正しき者の口は知恵を語り》
ペルト:《スンマ》
ペルト:《主よ、今こそ御身のしもべを》


異端・東京カテドラル、異端・フォーレ

もし神が絶対的な存在であるのなら、ここ東京カテドラルの建築は冒涜とみなされうるだろうか。外観からはそれが教会であるとは思われない丹下健三によるモダニズム建築である。また東京カテドラルなる教会じたいも超教的性質(エキュメニズム)をもって異彩を放ってきた。

毎年恒例(らしい)の記念年作曲家はブルックナー(生誕200年)とフォーレ(没後100年)。そういえばフォーレの《レクイエム》も異端そのものである。今回演奏された「In paradisum」も本来レクイエムには含まれない。徹底された安楽的他界観にもとづいて構成され、「世界一美しい音楽」の呼び声も高い《レクイエム》はしかし、美しすぎてもはや神的というよりも人間的なものだ。死についての否定的感情を失い(メメントモリはどこへやら?)完全な幸福感で丸め込んでしまうフォーレの人間的傲慢さが、私は好きだ。フォーレは全部で3曲歌われたが、どれもフォーレ特有のあざとい和声に彩られ、東京カテドラルの凄まじい残響とともに心まで沁みこんでくる。

さて、本題は一柳慧《満月の夜の会話》と松平頼暁《無窮動》。演奏機会が少なく、というか東京少年少女合唱隊以外にこれらの作品をやっているのをほぼ知らない。両曲とも東京少年少女合唱隊による1986年の委嘱作品である。私はこの2曲のために赴いたわけだが、それはまあなんとも素晴らしいものだった。

一柳慧《満月の夜の会話》——日本語の脱神秘化

一柳慧にとって、《ヴォイス・フィールド》(1973)、《へそのうた》(1984)につぐ3作目の児童のための合唱曲。草野心平の詩による。「満月の夜の会話」「ごびらっふの独白」「おたまじゃくし4、5匹」の3曲からなる。三つはそれぞれかなり性質の異なる詩であり、この作品における草野心平の貢献は甚大である。もちろんその三つを一つの作品に仕上げた一柳慧の技量については言うまでもないことであるが。

満月の夜の会話。「キキキキ キイル キイル キイル」という蛙の擬音からはじまる。入場の方法などに工夫がある(「シアトリカルとよべるほどのものではないにせよ、動きを伴った要素や、団員の空間配置を考慮した演出を試みることができた」一柳慧、プログラムより)ほかは比較的ふつうの合唱曲である。ただ、(音源も楽譜も手元にないので、そして忘れてしまったので具体的な箇所を指摘できないのだが、)日本語の発話が特徴的な部分がしばしば見られる。一般的な発話とは異なる仕方での発話をあえて取り入れようとしていることが分かる。本稿の文脈で、「日本語の脱神秘化」と大袈裟に言ってしまってもよい。

ごびらっふの独白。蛙語で書かれた(⁉)詩。何のことやらだが、「るてえる びる もれとりり がいく。」ではじまる。日本語の音韻構造がなぜか継承されている蛙語だが(このテキトーさがよい)、これがかえって日本語を相対化する結果となっている。プログラムノートには日本語訳も書いてくれているが、そんなものはほとんどどうでもよい。「満月の夜の会話」で日本語が不自然に発話されることによって脱神秘化されたあとで、日本語のようで日本語ですらない「独白」が組み込まれていることが重要なのだ。

おたまじゃくし4、5匹。ここでは詩でたびたび見られる字下げ(インデンテーション)が効果的に音楽に生かされている。「おたまじゃくし」の詩は通常の2連、そのあと字下げで3連、そしてまた通常の2連という構造をとっている。合唱においては、この通常連と字下げ連が同時に歌われるのである。こうした時間構造の複数化は、もちろん「日本語の脱神秘化」「日本語の相対化」に次ぐ最終兵器として用意されている。これを音楽における「シアター」あるいは「シアトリカリティ」と呼ぶことができる。「シアトリカル」とは何も「動きを伴った要素」や「空間配置」だけではないのだ。発話の複数化(つまり時間的複数化)も「シアター」として機能し得る。これを「詩におけるシアトリカリティ」の問題として、より深く探求することが実り多いことかもしれない。

松平頼暁《無窮動》——合唱の脱神秘化

《無窮動》(抜粋)の音源こちらから(世田谷銀河合唱団による)

全七曲からなる作品。第一曲は母音唱法、第二曲は子音唱法、第三曲は拍手のみ(!)、第四曲は母音唱法のグリッサンド、第五曲は拍手と足踏みと昆虫類の学名を呟く声、第六曲は文章のレシタティブな語り、第七曲は母音唱法。字面を並べるだけでもいかつい!こんな児童合唱曲は日本、いや世界中を探してもおそらく存在しない。松平頼暁はこの作品について以下のように書いている。

この作品の基本的アイデアは、歌・語りないし発声・手拍子足拍子という三つの要素を指定し、細部は児童達の創意に委ねる、ということにある。その結果、一人一人が別々のことを演奏することになるので、一般の合唱曲のようにチーム・プレーを目指すかわりに、多数のソリストの競演の場になる。そして、最終的にはもう一つの高次のチーム・プレーが出来上がれば‥‥もういうことはない。

松平頼暁、プログラムノート(《35周年記念演奏会》(1987年)プログラムより転載)

これほど核心に迫る作曲意図がどこにあろうか。松平は合唱の、ひいては合唱教育の、とりわけ日本の合唱教育の問題を見抜いていただろう。個性を消し、集団の中に個を調和というか混濁させること。それがよしとされる社会。そのための教育、としての合唱。そこに対する強烈な抵抗を含んだ作品である。「合唱の脱神秘化」、もうそう言ってしまってよいだろう。

ここで社会批判を繰り広げても仕方がないが、我が道を行くことは「こどもっぽく」て「低次元」であり、周囲に合わせることは「大人らしく」て「高次元」であるとみなされるきらいが社会にはあるようだ。しかし、実際にはそんなことはない。たとえばこの合唱のなかでも尖りに尖った拍手だけの第三曲をやってみれば、隣で別の拍手が聞こえる中で自分の拍手を貫くことの困難さを思い知るだろう。周囲に流されることは「易きに流される」ことなのであり、自分の道を貫くことこそ難しくしかし価値あることなのだ。そのうえで、全員がそのようにしたうえでなお、全体で見たときにチーム・プレーが実現していたとしたら‥‥もういうことはない!

この児童合唱はそのような意味で、合唱教育としてあり得る限り最高級の作品であると私は思う。それなのに知名度が低すぎる。児童合唱という性質上、「現代音楽ファン」という極小界隈でもあまり知られていないのではないか。小学校の教科書に掲載されてもよいくらいである。これがもっと多くの子供たちに歌われるのなら、わが国の音楽の未来も、教育の未来も、もう少し光へ向かうと思うのだが。しかし、教育者や合唱指導者がその価値をそれほど理解しているようにも思われないから、まずは彼らから始めよ、と言ったところか。

(文責:西垣龍一)

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