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助川敏弥《おわりのない朝 1945.8.6.》(1983)について―助川さんの日記から



前置きと、なぜいま助川敏弥か

年が明けました。いろんなことが起こりました。北海道出身の私には、あの2018年9月、あの揺れが、あの停電の夜が思い出されます。航空機事故もありました。それでもどうにか、今日(1月4日)東京に戻ってくることができました。東京は暖かくて乾いています。
noteの書きかけ原稿が三つくらいあります。ほんとうはnoteなんかやっている場合ではなく、年末までに提出しなければならない原稿をまだ書き終えてもいないのに、困ったものです。それなのにこれを書いている理由は、今日の話です。
私がティーチング・アシスタントを務めている授業の先生からとつぜん、《おわりのない朝》の話が出ました。前にも書いたように(↑)私にとって助川敏弥さんは高校の大先輩にあたります。2000年7月生まれの私は(辰年です🐉)1930年7月生まれの助川さんのちょうど70歳下です。助川さんについてはいつか誰かがちゃんと研究した方がいい、というか後輩である私がやった方がいいのかもしれません。
そんなわけでふと、助川さんがかつて彼のホームページ上の日記でこの《おわりのない朝》について語っていたことを思い出しました。でも、助川さんのホームページはおそらく亡くなった直後くらいに閉鎖してしまって、今ではWayback Machineで見ることができるだけです。Wayback Machineで見なきゃいけないのはあまりに不便だし、いつ消えてしまうかもわかりません。だから、今回それをnoteに移しておこうと思ったわけです。とはいえ、もちろんnoteだっていつ消えるか分からないわけだし、これが後世に残すべきだと思った読者は、保存するなり印刷するなりしていただきたいところです。
(下のPDFはこのnoteに転載する箇所と同内容です。ご活用ください。)

noteに転載するということの当然予測される問題

私は著作権という権利に対して批判的な視点を持っているものの、さすがに他人の文章をnoteに転載するにあたっては注意を払っています。
今回、助川敏弥の文章を転載する根拠となるのは、彼のホームページに記載されている「このサイトの中の文章その他、すべて無断借用大歓迎です。どんどん使ってください!!!」という文言です。相続人やその他関係者の方で問題があればお知らせいただければありがたいですし、問題がなくてもご連絡をいただけるとたいへんうれしいです。
ここで、今回の転載文の最後に現れる一節を、あえてはじめに引用しておきたいと思います。より多くの人に長い期間読まれてほしいという思いからホームページ上で日記を公開していることがわかります。このnoteが微力でも貢献できるならよいのですが……。

home-pageというのも便利なような、身勝手なような不可思議なものである。これは公開文なのか、私文なのか、いままで存在しなかったものだから、考え方も成立していない。有名日刊新聞に書けば、晴れがましいが寿命は一日である。夕刊もあるから事実上は半日である。月刊誌はひと月。しかし、home-pageは本人が望めば何時までも掲示しておける。読者数も少ないとはいえない。印刷物がよほどの発行部数のものなら別だが、home-pageを読む人の数馬鹿にならない。当然ながら掲示しておく期間が長い程増える。それに転送というものがある。ネズミ算式に増える。昨今の出版社のやり方は、著作者本人自身がかなりの部数買取る方式が多い。多数の書籍を自宅の一遇に堆積するよりHPで読んでもらう方がはるかに合理的である。

助川敏弥《おわりのない朝 1945.8.6.》(1983)音源

助川敏弥の《おわりのない朝》をまだ聴いたことがないという人は、事前情報なしで聴いてみるのがよいでしょう。

助川敏弥《おわりのない朝 1945.8.6.》楽曲解説

それでは、日記の前に、助川自身による《おわりのない朝》の解説を掲載します。Wayback Machineのリンクはこちら。以下、原文通りです。

<おわりのない朝 1945.8.6.>The eternal morning 1945.8.6.
 被爆ピアノのために (1983)

 この作品は、1983年、NHK広島放送局の委嘱によって作曲された。同年、8月21日、NHKから放送初演され、その後、さらに手を加えられ、同年、ll月6日、文化庁芸術祭参加作品として再放送された。1984年には、アメリカ、カリフォルニア州で放送され、大さな反響を呼び、また、1985年にはユーゴスラヴィアでも放送された。
 1945年8月6日、午前8時15分、史上はじめての核爆弾が広島市に対して投下された。この時 ある個人所有の小型ピアノが彼爆した。無惨に損傷したが 外形内部とも焼失せずに残った。近年になり 修復が試みられ 損傷のままであるが再び演奏可能となった。現在、同器は、広島市の「平和資料館」に展示されているが、外板に無数にガラス片が食い込み凄惨な形状を見せている。この曲は、この楽器を中心に、弦楽合奏を加え、さらに、さまざまな電子音、具体音により磁気テーブ定着作品として完成したものである。もともと世界に一つしか存在しない楽器によるものであるため、再演作品としては成立不可能であり定着作品としてしか成立は不可能であった。

 作曲にあたっての第一の裸題は このような余りにも現実的で苛酷な主題が本来楽天的芸術である音楽になじむかどうか、というためらいであった。このため 当初ドキュメンタリ一音楽として、現実音のみによる手法を考えた。しかし、この時代の録音技術の水準から第一次音声資料が乏しく、また音質もよくないものが多く、全曲をこの方法によることを断念し、第一部だけをこの方法によることにした。それに続く部分では、弦楽器群を主軸にし、電子音、具体音、さらに、さまざまな編集技術をもちいた。
 第二の課題は、被爆ピアノ固有の音を効果音としてとらえるか 楽音としてとらえるか、という根本的なものであったが、その特殊な響きに作品の核があると考え、これを広義の効果音としてとらえることとした。当時はまだデジタル機器登場以前であるが、アナログ機器の機能が独自の表現を可能にしていることも事実である。

 第一部は、さまざまな具体音により、運命の日の朝の市民生活を描く。遠くの子供の声、市電の音、繁華街のざわめき:当時多くの軍人軍属が広島市に駐屯していたことから、軍人の号令の声、港湾での波を分けて進む小型船の音。やがて、空襲警報のサイレン。それに続くのは、当時、アメリカ軍参謀本部が現地軍に対して発した原子爆弾投下の命令書の最初の部分である。以下はその部分の日本語訳である。

「第20空軍、第509混成部隊は、およそ1945年8月3日以降、天候が目視爆撃を許し次第、できるだけ早く、広島、小倉、新潟、長崎、の諸目標の一つに最初の特殊爆弾を投下せよ。爆弾の効果を観測記録するため、国防省から派遺される軍人およぴ民間人からなる科学技術者を搭載した観測機が爆弾搭載機に随伴する。観測機は爆発の衝撃点から数マイル離れた地点に待機せよ」

 この声の録音は在日米軍岩国基地の若い兵士の協力出演によるものである。これにB29爆撃機の爆音が続く。これは記録された本物のB29の爆音である。秒針音かこれに加わり、緊張が頂点に達したところで、変調された人間の叫びが響き、弦楽器群が展開し彼爆ピアノが導入される。
 以下、被爆ピアノ、弦楽 電子音、がさまざまにからまり、組み合わされて進行する。工学的技術も当時可能なだけ用い、多重録音による六声のカノンふう展開も現われる。やがて弦楽による導人の部が再現し、ここから悲劇的な短い動機が展開し次第に高揚する。頂点で突如中断し、鐘の音が長く鳴り響く。この鐘の音は、終戦翌年、広島における第一回平和祈念式のものである。NHK広島局の資料室で発見したもので、政党が介人し政冶化する以前のもので、乎和祈願の原点を象徴するものとしてとりいれた。ここから被爆ピアノは通常のスタインウエイ・ピアノに替り、人間と人道の復活を象徴する。

 この曲は、身近に起きた現実の事件を主題にしたものであり 当然 根底には平和への祈願がこめられているが政冶的動機に発したものではない。
 録音はNHK広島局のスタジオで行なわれ、被爆ピアノのはこのために門外不出の例外としてスタジオに搬入された。再度の調整修理のため以前の特異な響きはいささか失われたが、内部の弦も当時のままであることを考えると、演奏に耐えうること自体奇跡的である。

この曲はウィーンのVMM社からCDが発売されている。
VMM-3006 20'02"
ピアノ=村上弦一郎 弦楽=広島交響楽団 指揮=黒岩英臣
技術=横山民夫 制作=原武・NHK広島放送局/NHK電子音楽スタジオ

助川敏弥の日記「新方丈記」(2006年9月21日~2006年10月2日)

それでは、今回の本題である、助川敏弥の日記「新方丈記」から、9回にわたる《おわりのない朝》についての連載を掲載する。「新方丈記」のWayback Machineのリンクはこちら。以下、原文ママです。

2006.9.21 木 晴 町田
広島へ
  「おわりのない朝」 - 1


 1983年2月のある日、私はNHKの前田直純さんから電話を受けた。広島局が今年の芸術祭の作品を企画している。原爆で被爆したピアノがあり、どうやら音が出せる状態である。この楽器を使って作曲をしてほしいとのこと。
広島局の担当は原武さんである。広島の原さんと電話で詳しく話しあう。出来るだけ早い時期に広島を訪れ、この楽器を見せてもらい、鳴らしてみる、ということで、三月の上旬広島行きとした。
 それからは、私の凝り性から、近所の区立図書館へ通い、広島の原爆についての本を片っ端から読んだ。広島に限らず、核兵器全般のついての図書まで読んだ。頭の中はそのことでいっぱいになった。
 三月のその日、羽田から午後の全日空便で広島へ向かう。頭はすでに知識でふくれあがっているから、関心の対象である実体に出会うことでおおきな興奮の中にあった。この日は好天で地上がよく見えた。この便は長野県の諏訪の上空を通過するコースをとる。諏訪湖が眼下に見えた。それから、次第に南に進路を変え、瀬戸内海の上を飛ぶ。天候がよい三月の夕方近く、瀬戸の海は陽光を反射してまぶしい限りである。高度は多分一万メートル近くだろう。私は、1945年8月6日、あの日の早朝、エノラ・ゲイ号が見た光景がこれとほとんど違わなかったであろうと思うのであった。広島空港に着いた時はすでに日が落ちていた。原さんは当直で出られぬと事前に知らせがあったので、タクシーで市内へ、NHKに直接着く。原さんと短時間食事し、その日はホテルに泊まる。ホテルはNHKの筋向かいの東急INNである。
 翌日、朝から原さんの案内で、爆心地周辺を歩く。平和資料館から平和公園の中に入り、相生橋まで行く。このT字型の橋が爆撃の目標になった。中之島側からドームを眺め、被爆当時、地獄図絵となった元安川を見つめる。そして、当日の爆心地点となった島病院まで歩く。爆弾はこの病院の上空約500メートルで爆発した。目標の相生橋とこの病院の距離は約500メートル、一万メートル上空から投下して僅かな誤差である。資料館に戻り、被爆ピアノを見る。外盤にガラスの破片が無数に突き刺さり凄惨な形状を見せている。さらに、弦がぼろぼろで、上の鍵盤の音が下の鍵盤の音より低かったり、その反対だったり、目茶目茶である。この音を、持参した小型の録音機に収録する。当然のことながら、私は、この時の被爆ピアノの状態を前提にして仕事を進めることにした。ここから小さな誤算が生まれた。八月の録音の時、現代日本楽器業界のすぐれた技術により、ピアノの機能はおおはばに修復されたのである。取材見聞した当時の状態では、とても楽器として機能することは期待できない。被爆ピアノという事実もある。これを楽音よりも効果音の類のものとして扱う方針を私は立てた。
 それから、館長室で館長の高橋昭博さんに会う。高橋さんは、被爆して指に黒い爪が生えることで知られた人である。この時私はそのことを知らなかった。物静かな心の温かさが伝わってくる人だった。こんどの録音の趣旨を説明して、被爆ピアノの館外持出しの陳情する。こころよく承諾してくださって、館内見学のため一般者が入れない所も立入りが出来るようにしてくださった。私たちは、NHKの腕章を腕に巻いて、館内すみずみまで見ることが出来た。帰京後、高橋さんの著書を読んだ。敗戦後、高橋さんは知人の国会議員の紹介で平和資料館の職員に就職したが、宿直の時、深夜、展示室を見てまわることが恐ろしく、精神状態に自信が持てなくなり、紹介してくれた人に謝り、辞職したことが書いてあった。
 それから局に戻り、資料室の保存資料の探索である。段ボール箱を次々開けて、出てくる音源資料を一つずつ試聴する。何ぶんにも戦後40年近くを経過している。なかなか注目に価いするものがない。それでも幾点かを取り分け、その幾つかを、とりあえず自分のマイクロ・カセットにコピーした。古い記録であるから、音声資料が少なく、また、あっても音質がよくない。戦後第一回の平和集会の鐘の音は貴重であったので作品にとりいれた。原爆投下直後のトルーマン大統領の声明があった。これはどういうわけか、同時通訳が着いている。NHKが編集したものか。投下機機長のポール・チベッツ大佐の取材記録もあった。NHKは大組織の通例で、これ以上の資料はむしろ東京局にあるのではないかということであった。
 私は、この日の夕刻の新幹線で帰京する予定であった。所用をすませた私は、タクシーを呼んでくれる局の手配を辞退して歩いて出かけた。広島の市内を歩いてみたかった。紙屋町は広島市の中心繁華街である。大きなデパートが並んでいる。私は市街を歩きながら、イアフォーンで、いま録音したばかりの資料を聞いていた。トルーマン大統領の声明、「これは宇宙の根源の力を応用したものである・・・・もし日本が降伏しないなら、われわれはさらに原爆を投下し続ける。その結果、日本と日本人は地上からいなくなってしまうであろう」。この日本語訳を聞きながら、いまは東京と変らぬ繁華街の紙屋町を歩くのは複雑奇態なものであった。被爆直後の紙屋町の写真も何度も見ている。途中でタクシーをひろい駅に向かった。

2006.9.23.土 秋分の日 曇 町田
広島へ
  「おわりのない朝」-2
        難問をかかえて


 私は、この被爆ピアノを主題にした仕事において、当初から根本的な難問をかかえていた。
 それは、私固有の音楽観であろうが、音楽とは、本来、楽天的なもので、過酷、残酷、深刻、悲惨という苦痛と否定に属するものの表現には適さないと考えるからである。そういう種類の題材は文学の受持ちであろう。説明ということができるから。それ故にこそ、文学はかような出来事について詳しく隠さずに記録する義務があろう。美術もまたしかり。ピカソの「ゲルニカ」のように、また丸木夫妻の「原爆の図」のように。しかし、音楽は本来、説明ということが出来ない。そして楽しい時に奏でるものである。悲しい表現もあるが、それは感情の表現でしかありえない。原爆の犠牲者への悲歌はできるだろうが、そこにこの兵器への抗議告発のような内容を込めようとしても、説明ができないのだから音楽にはできない。にもかかわらず、政治的内容と訴えの音楽、「××をかえせ」式の歌をしばしば聞かされて私はうんざりしていた。政治的な訴えへの意欲があふれたのだろうが、勢い余ってそれを音楽に持ち込み仕立て上げる無神経さと、その結果のぶざまさはとてもいやだった。
 私は、そのためにこの曲を「ドキュメンタリー・ミュージック」の型で仕上げようと考えた。「ドキュメンタリー・ミュージック」とは、ベトナム戦争の頃、アメリカで盛んに作られた分野で、録音された具体音だけで構成された音楽である。在来の音楽からは音楽といってよいかどうか疑問だが、録音技術の発達が可能にした手法である。確かにこれを「ミュージック」と呼ぶことは大胆で、あるいは無理かもしれないが。
 そのため、資料室の音声資料を詳しく調べたのだが、時代のせいがあり、充分な資料は期待できないことがわかった。私見によれば、当時の技術のせいもあるが、そのほかに、対象を取材記録する、という報道の基本理念が現在のようには成立していなかったのではなかろうか。その思いは深い。報道というものの理念の問題である。そのほかに、というより、まず第一にというべきか。被爆ピアノは世界に一つしかない。だから、この楽器以外では再演できない。無限の場所での再演の可能性はじめからない。録音に定着するしか可能性はない。これが、この作品が録音記録型になったゆえんである。
 資料が充分でないことから、私は、第一部の導入的な部分だけ、具体音による「ドキュメンタリー・ミュージック」方式にすることにして、そのあとは通常の楽器群によることにした。一種の折衷かもしれぬがやむをえない。録音は八月。それまでに通常楽器による第二部を完成し、第一部は広島局で制作することにした。三月に仕事を始めて、八月に録音とは、長い曲の場合充分な期間とはいえない。かなりの強行軍である。スコアが出来上がり、オーケストラは広島交響楽団、ピアノ・ソロは村上弦一郎君に決まる。村上君は岩国在住なので地理的にも都合がいい。指揮は黒岩英臣君。八月、録音の日取りがきまり、黒岩君と会う。環状八号線沿いのレストラン「BUITONI」で会い、スコアを渡した。定量音符によらず、横に線をひいただけの図形的楽譜に黒岩君は平然としていた。おおいに頼もしい。
 こんどの広島滞在は七日間か八日間である。広響の録音は半日ですむ。そのあと、第一部の具体音による部分とオーケストラ部分の編集加工がある。楽器音の部分に具体音を重ねたり、テープをコピーして多重化する部分もあるので、オーケストラの録音を先にすませた。技術に、横山民夫さんという練達の人がいてくれたのでNHKでも最良の結果が期待できたことは幸運であった。録音前日には門外不出の被爆ピアノが資料館からスタジオに持ち込まれた。もっとも、平和資料館とNHKはほとんど隣であるので、移動は簡単だった。 そして、延々と、調律、というより修復の作業が始まった。どのくらいの時間をかけたか忘れたが、相当な時間をかけた入念な作業であった。この結果、この楽器の音は立派な音に戻ってしまった。(続く)

2006.9.24.日 晴 町田
広島へ
 「おわりのない朝」-3
          史実と表現


 具体音による第一部分の構成。被爆当日の市民生活を描写することから始める。広島局の資料室で色々な効果音を選び出して構成を考える。広島局には8トラックのオープン、マルチ・デッキがあった。当時はコンピュータがないから、マルチトラッカーでの多重録音である。まだアナログ時代である。ローランド制のシンセサイザーも使われた。いまからすれば旧式のアナログ式の楽器である。
 この部分の構成の意図は、運命の日の朝の市民生活を描くことであった。朝八時の市内。遠くの子供の声。市電の音。繁華街のざわめき。当時多くの軍人軍属が広島市に駐屯していたことから軍人の号令の声。港湾での波を分けて進む小型船の音。これはすでに効果音として局にあるものを使う。ついでだが、この時、市民戸籍がない軍人軍属が市内に多数転入していたことは事実である。このことから正確な犠牲者数が割り出せない結果が生じた。市電の音、小型船の音、これらは、ステレオ効果を使い、一方から聞こえ中央を通過して反対側に遠ざかるものにした。雑踏の音は現代の地下街の録音である。ひろがりを聞かせるためのリバーブを広域型にして、エコー効果を加えた。やがて、空襲警報のサイレン。これは遠近感をもたせて複数カ所から発するようにした。その方が凄味が出る。
 このサイレンについて説明が必要である。
 実際には当日は空襲警報は出なかった。サイレンは鳴らなかったのである。ラジオの報道が「敵小数機、西条上空を」とまで言った所で原子爆弾が爆発した。警報がなかったために被害が大きくなったことも事実である。従ってサイレンは事実に反する。しかし、私はあえて承知の上でこれを入れた。フィクションとファクト-事実との違いは何か。私の念頭にあったのはシェーンベルクの「ワルソウの生き残り」であった。この中で、ドイツ兵が叫ぶ部分がある。「もたもたしているとガス部屋に送り込むぞ!」と。しかし、ナチスの収容所でも、ガス部屋のことは囚人に秘密にされていた。パニックになるからである。この曲の台本はシェーンベルク自身が書いた。シェーンベルク自身はこのことを知っていたのかどうか、それはは分らない。しかし、この部分は即時的には事実には反するのである。私は演出上、最少のファクトの変更は許されると判断した。目的は、この日の朝の運命的な時刻をどう表現するかである。緊張の高まりが必要であった。「午前八時です」というラジオの時報アナウンスを入れることも試みた。戦後38年目だったから、まだ当時を知る年輩の職員が居て、アナウンスを実演してくれた。「ゴゼン、ハチジ、デス!」と、かなりの大声である。当時はマイクの性能がよくなかったので、こういう言い方だったそうで、かなりの絶叫調である。しかし、この方式も余りよくないと思われた。さてどうするか、苦心苦慮のあげくサイレン音の使用となった。出来うれば、事実を変えることなく仕上げたかったが、如何ともしがたい。目的は事実の列記ではなく、表現意図の達成であると判断したからである。
 この部分は、通常の音楽では不可能な、描写と再現の世界である。絵画、映像に近い世界であり、ドキュメンタリー・ミュージックと呼ばれる分野が存在成立する根拠が理解できる。聴覚を対象にした分野であるから、musicというのことも出来ないことはない。
 そして、サイレン音に続いて、当時、米軍参謀本部が現地軍に発した特殊爆弾投下命令書が英語の音声で導入される。これは岩国基地に駐留する米軍兵士の協力出演であった。彼らは三人ほど遊び気分でやってきたようだ。二十歳にもならないくらいの、まだ少年の面影がある兵隊たちである。さすがに、この文書には愕然としたらしい。先輩世代の行為であるから彼等には身に覚えがないことである。三人の一人がブースに入るが、残りは廊下を散策している。彼等も文書の内容を知って、少し年上らしい一人が「Coud not be the story changed?!」と苦い顔で紙を巻いたもので自分の首をたたいていた。読み終るのを引き継いで爆撃機B29の爆音が導入される。この音は実際のこの機種の音が記録されており、それをそのまま使った。
 この命令書の全文ではなく一部を取り入れたのだが、次回はその全文の日本語訳を紹介する。この文書をめぐっては、私見として言いたいことが多くある。作品の進行過程の話からは幾らか脱線するが、この機会に書いておく。ここ以外に書く場所がないから。
(続く)

2006.9.25. 月 晴 町田
広島へ
 「おわりのない朝」-4
         爆弾投下命令書


 サイレンの音に重ねて英語の肉声で導入されるのは、当時、アメリカ軍参謀本部が現地軍に対して発した、原子爆弾投下の命令書である。曲の中に引用したのは最初の部分、項目1の部分であるが、以下は全文の日本語訳である。
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発:国防省参謀本部
宛:合衆国陸軍戦略空軍司令カール・スパーツ大将
                                       1945年7月25日
1:第20空軍第509混成部隊は、およそ1945年8月3日以降、天候が目視爆撃を許し次第  、できるだけ早く、広島、小倉、新潟、長崎、の諸目標のひとつに最初の特殊爆弾を投下  せよ。爆弾の爆発効果を観測記録するため、国防省から派遣される軍人および民間人か  らなる科学技術者を搭載した観測機が爆弾搭載機に随伴する。観測機は爆発の衝撃点  から数マイル離れた地点に待機せよ。
2:後続する爆弾は、計画推進本部による準備が完了次第ただちに上記の目標に投下せよ。上記以外の目標については、あらためて指示を発する。
3:日本国に対するこの兵器の使用について、一部あるいは全部の情報の配布は国防長官および合衆国大統領により留保される。この件に関するいかなる文書または情報の公表も、当該部局の許可なしには指揮官からこれを行なってはならない。すべての報道文を特別検閲のため国防省に送ること。
4:これに続く指示は、国防長官および合衆国参謀本部の指示と許認のもとに貴官に発せられる。本命令書の複写を、一部をマッカーサー大将に、一部をニミッツ大将に、貴官から、個人的に、情報として手交されたい。
                                     参謀本部代理官
                                      C.S.C.大将
                                         THOG.T.ハンディ
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★用語について説明する。
 当時、アメリカではまだ空軍が独立していなかった。そのために「陸軍戦略空軍」と呼んでいる。
 「国防省」と訳したが、原語は、「War Department」である。すなわち、直訳すれば「戦争省」である。長官は「Secretary of War」「戦争長官」となる。この用語は現在は使われない。現在は「国防省」「国防総省」は「the Department of Defense」である。現在では余りになじみのない言葉であるゆえ、現在の呼び方で訳した。
 「およそ1945年8月3日以降」の部分、「およそ」の原文は「about」。米軍では「about」は前後三日か四日か、どちらか忘れたが定義が定まっているそうである。
最後の4の部分に、「マッカーサー大将とニミッツ大将」という表現があるが、階級の呼称は原文では「General」と「Admiral」である。両方とも陸海軍の将官を呼ぶ「将軍」「提督」、が邦訳でいう通称的呼称であるが、これは専門文書であるから通称的呼称ではなく、両方とも、それぞれ、陸軍大将、海軍大将の意味と考えられる。問題は、この二人へのコピーの手交が「個人的に、情報として、手交されたい」となっいることである。
 原文は
「you personally deliver one copy of this directive to ・・・」である。
 これも広島局の資料だが、爆弾搭載機の機長、ポール・チベッツが対談で語っている中で、チベッツは、「General Mackarthur never knew・・・」と語っている。命令書のこの部分との関連はどうなるのだろうか。「貴官から、個人的に、彼等への情報として手交されたい」という言い方は、公式の伝達ではなく、「それとなく耳に入れる」という意味があるのか。「personally」は、親しく、直接、との意味もある。「内々に」という意味か。専門家の意見を聞きたい。チベッツは現地軍の一軍人にすぎないから、この最上級者に宛てた命令書は知らないと私は思う。

2006.9.26. 火 雨 町田
広島へ
 「おわりのない朝」-5
  運動の欠陥


 この仕事を進める間、私は時折り深刻な懐疑に襲われた。この忌まわしい出来事を再構成することへの疑問である。米軍の投下命令書からは、人と組織の非情さ冷酷さ、そして人が憎しみあうことへの救いのない絶望感が寄せてくる。加害者は被害者の苦しみは永久に解るまい。私はしかし、加害した国と人を責めようとは思わない。立場が替れば自分と自分たちも同じことをしなかったと誰が言えようか。
 再構成する目的はただひたすら風化させないためである。忌まわしいことを忘れることは更にに忌まわしい。人はこの日の朝を永久に忘れてはならない。そして何が起こったかを少しでも詳しく、そしてより正確に知らなければならない。「××を返せ」「××許すまじ」ではない。あったことを知ること、それが全ての起点である。「おわりのない朝」である。
 しかし、私が、この命令書について言いたいことは、この文書の中身のことではない。そうではなくて日本の平和反核運動のあり方である。
 この命令書は平和資料館の展示室の壁に展示されている。誰の目にも入る。私はそれを写真にとってきたか、あるいは、別に文書を入手したか忘れたが、ともかく、誰でも目に入る所に展示されている。しかるに、この文書をどのようにして入手したか、と私に尋ねる人がいる。それも平和反核の運動をしている人である。
 この命令書には原爆の目標候補地の都市が明記されている。広島、小倉、新潟、長崎の四つである。ところが、根拠なく、どこそこが目標候補地に入っていた風のことをいまだに言いふらす人がいる。札幌であったとか前橋であったとか。これも平和反核運動参加者である。私は、こういう所に、日本の平和運動、反核運動の根底的な脆弱性を見る。事実の究明を何より第一とし、その結果の上に主張を構成するという、主張を客観的基礎から構成する心構えが欠けていることである。以下の話もすべてこれに帰着する。
 原爆投下機の機長が良心のとがめから精神に異常をきたし、病院に収容されたという話。これも反核平和運動の人が吹聴するのを聞いた。これも間違いである。それに類する話の源泉は、投下機の機長ではなく、気象観測機の機長である。目標の気象を調べる気象観測機は、投下当日、投下機より約一時間早く発進した。機長は、クロード・イーザリーという人である。この観測機が小倉、長崎、広島の気象を観測し、広島が最適と信号を発したのである。これで広島の運命は決まったわけだが、この飛行機は投下機ではない。イーザリーという人はかねてから奇行が多く、しかも行状にいかがわしい所がある人だったと記録されている。この日も、気象観測の結果を報告したが、その帰路、投下機と空中ですれ違った。その時、「面白そうだから付いて行こうか」と、Uターンして投下機の後を付いて行こうとした。同僚の反対でやめたが、とかくさような行状の人である。
 投下機の搭乗員で良心のとがめで苦しんだ人は別にいる。副機長のロバート・ルイス、そして、直接爆弾を投下した爆撃手のファイアビーである。ファイアビー大佐は戦後核兵器反対の平和運動に共鳴し、トルーマン大統領に平和団体の進言を直訴する役を引き受けたが、現役軍人が上官である大統領に政治的進言をすることは妥当ないとの周囲の忠告から、本人ではなく妹さんがその役を果たしたと記録されている。
 ルイスの場合は、もっと良心的である。自分が投下機の搭乗員であったことを小学生の息子にも隠していた。しかし、ある日、息子が学友からそのことを告げられ、父親は告白することになる。テレビ出演で思わず落涙して国防省から注意されたが、みずかからの良心に属する行為であると謝罪しなかった。そして、被爆した女性たち、いわゆる「原爆乙女」たちがニューヨークに来た時、みずから出向き身分を明かして謝罪した。深い信仰を持つ人てなければできることではない。こういう話を日本の反核平和運動家たちは全く知らない。知りたくないなら勝手だが、根も葉もない機長異常説を持ち出すより、こちらの話の方が確かだし、原爆投下の反人道性を強調したいなら、事実の確かな話の方を語る方がいいではないか。
 個々の運動家たちが、一々根拠を調べることは無理かもしれない。しかし、運動を推進する幹部、指導的地位の人たちがいるはずである。彼等は科学的に事実の究明をする義務があるではないか。究明の結果を運動する人たちに伝えることが彼等の義務ではないか。心情だけでなく事実の究明によって、主張に骨格を与えていくことが説を主張する道筋ではないのか。次回から制作経過の報告に戻る。(続く)

2006.9.28. 木 晴 町田
広島へ
 「おわりのない朝」-6
   編集の仕事から仕上げまで


 広島の滞在は七日か八日の間だった。オーケストラの音楽は第一日に終ったから、それ以後の日は編集制作の仕事である。爆撃機の音に、録音した投下命令書の音声「ヒロシマ、コクラ・ニイガタ、ナガサキ」をコラージュする。それが次第に「ヒロシマ」だけに収斂されていく。これに、秒針の音、心臓の鼓動音が重なる。曲の始めからシンセサイザーの通奏音による低音が通底して響いている。これらの音の複合が次第にクレセンドして頂点に達した時、一瞬の沈黙がある。緊張の沈黙である。しかし、ここで予期せぬ障害が発生した。原因は器材である。
NHKの再生器材は、ある一定の時間無音状態が続くと感知器が起動して停止する。これはどうにもならない。無音はほんの短い時間だが、感知器の起動範囲に入った。さてどうするか。この無音の後にオーケストラと被爆ピアノが突如入るはずである。これ無しでいきなり入るわけにいかない。代案に散々苦慮する。結局、合唱団の女性に来てもらって高音の音を母音で出してもらった。それを幾重にも変調させて、人の声とは解らぬものに変えた。その声-音を沈黙の場所に置いた。声を出してくれた人には申し訳ない。英語の音声による「ヒロシマ、コクラ・ニイガタ、ナガサキ」は効果的である。これはあとで外国での反響で判明した。
 このあと、オーケストラとピアノによる部分の一部をコピーして、それをマルチ・トラッカーで始動時をずらして六声のカノンにする部分もあった。最後に、戦後第一回の平和祈念式の鐘の音を入れる。これはどうしても入れたかった。ここでピアノは通常のスタインウエイに換る。こういう方式だから、オーケストラとピアノも音の素材の一つとして考えられたといってもいい。
 私は仕事の合間に時に散歩に出た。原爆ドームの辺りに行くことが多かった。たいていそこには誰かが居た。ある時は西洋人の青年が座して黙考していた。ここは人を考えさせる所だ。最後の僅かな所は東京局で仕上げることになった。東京局の方が設備が揃っているからである。
 最後の日、打上げがあった。繁華街の酒場でにぎやかな時を過ごした。やがて午前二時過ぎ、余り遅くなるし私は翌朝帰京するので一人だけ辞去した。道筋をおしえられ、ホテルまで歩く。しかし、私はホテルの前を通り過ぎた。平和公園に向かった。なぜそうしたか分らない。何かに引き寄せられるようだった。公園の中では永遠の火が燃えていた。深夜二時過ぎの公園に人影はなかった。私は座して瞑目した。かたわらで火が燃えている。向こうに原爆ドームが照明に浮かびあがっていた。
私は死者の声を聞いたように思った。
 翌日は早朝、局に行ってあいさつ、それから新幹線に乗るのでNHKとホテル前の交差点でタクシーを拾った。

2006.9.30. 土 晴 町田
広島へ
 「おわりのない朝」-7
   完成してから(その一)


 最後の完成は東京局である。広島から原さんが上京してきた。もっとも原さんは、この時の移動で東京局勤務に転出したから自然な成りゆきだった。全曲を聞き直して補正追加した部分もあった。 
私が広島局の資料室で出会ったものの中に、中年婦人が被爆後の光景を語ったものがあった。淡々とした話し方の中に語られる内容は戦慄すべきものであった。
 私は、この一部をオーケストラの部分のどこかに重ねることを考えていた。そのため、資料番号を広島の原さんに電話で告げて東京に持参してもらうことにした。しかし、番号の間違いのため持参されたものは別のものだった。だが私は、別の考えから、この構想を中止する方に傾いていたので、これでよかった。もし、これを実施したら、この作品は「ドキュメンタリー・ミュージック」ではなく「ドキュメンタリー」そのものになってしまう。言語の確かさは得るが、音だけで耳にうったえる力は、その分失なわれる。しかも、一部を抜きとっての導入は、制作者の恣意が入り説得性は衰弱する。手違いでよかった。
 全曲は、たしか、八月に初放送、その後、11月に芸術祭参加放送として再放送された。実は、放送前に原さんから、第一部のドキュメンタリー部分を省略して器楽が入る第二部から放送というわけにいかないか、という内密な相談を受けた。私は同意しなかった。何があったのかは分らない。原さん本人の意向ではないと推測した。具体音だけによる部分が政治的理由で歓迎されないということか、芸術祭のために保守的な審査員に受け入れられにくい、ということか、分らないし、私には興味も関心もない。
 この年、1983年9月、私は札幌の邦楽団体「群」に同道して、チェコスロバキアへ演奏旅行に出かけた。ブラチスハラバの公演を終えて、次のブルノ市へ移動し、公演の合間にオペラを見に行った。劇場で幕間にアメリカ人観光団の老人レオン・レフソン氏と親しくなった。カリフォルニアの人である。私は「おわりのない朝」の話をした。ぜひテープを送ってほしいと言われた。帰国後、その通りにするとすぐに返事が来た。ショッキングな音楽であり、出来るだけ多くの人に聞かせたい。地元の放送局に推薦していいかとのこと。私は日本での放送後に望むむね返事した。間もなく、放送局の人からレフソン氏に宛てた手紙がレフソン氏から転送されて来た。当時、反核運動が世界的に広まった時期で「The Day after」という映画が評判になった。核戦争の「その翌日」という意味で、核戦争の危険を警告した映画である。放送局の人からの手紙は、この音楽はこの映画よりはるかに衝撃的である。当地では、映画が放映されるので、その翌日にこの曲を放送したいとのことであった。まさに「The Day after」、「その翌日」であると書いてあった。
 1985年、カリフォルニア州のサクラメント市長から私宛に手紙が来た。非常な衝撃を受けたと書いてある。英語国民には英語の音声は迫真的である。忘れてはならないこの出来事を人々に知らせるために、文章だけでは不十分である。音楽、音による聴覚からの入力は言葉よりはるかに訴求力が強い。私が意図した人々へのメッセージは成功した。ただし、アメリカ東部ではだめだった。放送局に推薦してくれた人がいたが、内容が政治的であるという理由でどの局も敬遠した。東部はやはり保守的なのであろう。スミソニアン博物館が原爆資料展示を企画した時も退役軍人会が反対して規模をはるかに縮小するほかなかった。アメリカをひたすら加害者として扱うことに反対されたのである。
 その後、スロベニア共和国の国営放送から放送された。現地の私の友人作曲家の推薦である。その他、西ドイツでも放送されたように思うが正しくは忘れた。ここまで来るとこの曲の音源について語らねばならない。
 私はブラチスラバでアメリカの女流作曲家のナンシイ・ヴァン・デ・ヴェイトさんと知りあった。その後、頻繁に文通をしていたが、その内、ナンシイさんは、ご主人とVMMというレーベルの現代音楽専門のCDの会社を起こし、本社をウィーンに置いた。ナンシイさんとの交流から多くの出来事が生まれることになる。(続く)

2006.10.1. 日 雨 町田
広島へ
 「おわりのない朝」-8
   完成してから(その二)


 アメリカの女性作曲家のナンシイさんは、ご主人のクライド・スミス氏と共同で現代音楽専門のCD会社、VMM(Vienna Modern Masters)レーベルを創設し、本社をウィーンに置いた。記憶が定かではないが、80年代の後半ではなかったかと思う。
 私は、1990年四月に、また「群」と同行してハンガリーへ行き、その帰路、ウィーンへ立ち寄った。ナンシイさん夫妻がホテルまで挨拶に来てくれた。この頃、ナンシイさんのピアノ・ソナタを「現音」日本現代音楽協会の音楽会で演奏するよう私が計らった礼の意味もあったようである。
 その後、私はナンシイさん個人とVMMのために多少の尽力をした。その返礼の意味があるのだろうが、「おわりのない朝」をCD化してVMMから発売したいとの申し出があった。その前からこの曲をテープで提供して聴いて頂いていた。この曲はどうも外国でもアメリカの人に強く訴えるようである。VMMは作曲家から自薦の場合、経費の一部を作曲家本人持ちの方式をとっている。自費出版とまではいかないが、一部本人負担である。しかし「おわりのない朝」の場合は全額会社負担で出してくれるということであった。
 さてそうなると音源が問題になる。私はそれまでにこの曲を自費でLPレコードにしていた。どれだけ刷ったかは忘れたが、その後間もなく世の中はCDの時代に入ってしまった。LPは自制した枚数しか刷らなかったので残りは僅かだったが、それでも幾らかは無用となって廃棄した。これは後日の話。
 さて、音源としてこのLPを使おうとしたが、どうしても針音が入る。NHKに元のテープをもらいに行ったが、私が貰い受けた以外に原テープはないという。私はLPの音源にしたテープはあったが、音が劣化していることを怖れたのである。電子音楽スタジオに立ちより事情を話すと、親切な人が、「奥の手」がある、といって、とんだ奇策を試みてくれた。LPレコードを再生器の回転盤の上に置いて、レコードの上に少量の水をかけた。そして回転するのである。これで針の摩擦音ははるかに減少した。しかし皆無とはならない。これもだめとなって、私が持参した原テープを試聴してみた。これは充分CD音源に耐えるということになった。とんだお騒がせであった。早速、原テープをウィーンに送ると、音質と技術を賞賛された。「well crafted」とFAXに書いてあった。日本の職人芸は水準が高い。かつて、テープ編集の国際コンテストがスイスであり、スイスと日本が決勝に残り、ハサミの使い方で日本が優勝した話を聞いた。
 解説文は私が英文で書いたものを送った。先方がそれを手際よくまとめてくれた。写真は、原爆ドームと被爆ピアノ、これは私が撮影したもの。
 それからしばらくして、CDが大量に届いた。以後、この曲の音源はすべてこのCDによっている。外国に提供してものも以後はCDである。このCDはいまも私に直接注文された方には有料で販売している。ただ、外国版だから解説が英文で字数も限られている。私は、購入してくれた人には詳しい日本文の解説、A4紙一枚のものを添付するようにしている。
 1993年、私はVMMの仕事でポーランドへ行った。仕事のあと、指揮者のカワラさんがショパンの家へ車で案内してくれた。ワルシャワ市内を走りながら、カー・ステレオでこの曲を再生し始めた。ナンシイさん夫妻も同乗していたし、カワラさんはVMMの仕事を専属的に引き受けていたので、私とナンシイ夫妻両方へのサービスのつもりだったろう。ワルシャワもまた第二次大戦の悲惨な歴史を込めた街である。その中を走りながらこの曲を聞くのはなんとも深刻であった。(次回でこの項終り)

2006.10.2. 月 雨のち曇 町田
広島へ
 「おわりのない朝」-9
         APPENDIX


この曲の楽譜について
 この曲には楽譜はあるのか。第二部の通常の音楽の部分は当然としても、第一部、あるいは、以後の具体音の編集による部分はどうなっているのか、疑問に思う人もあるかもしれない。
楽譜は存在する。第二部だけでなく、全曲のスコアが存在する。第一部の具体音のドキュメンタリーの部分は図形で書かれている。それがなければ仕事は出来ない。楽譜はコンピュータ印字されていない。手書きである。そもそも再演が不可能で、再演がありえない曲だから、印字しても演奏に使うものではないからである。お求めの方には有料で貸出しする。自分でコピーして返却して頂く。紙の大きさはNHKが縮小してくれたのでA4版、片面印刷で42頁。コピー用に綴じずに一枚ずつになっている。値段3000円とする。
  skg@gb4.so-net.ne.jpまで。
 これで「おわりのない朝」にかかわる記述は終る。終るが、これを書きながら、作品について、それにまつわる事実を書き残すことは案外貴重なものかもしれないと思い始めた。普通、作者は作品について弁解せず、説明せず、作品そのものに語らせ、世人の評価にまかせることが道徳的であると考えられる。しかし、これもまた情報である。寡黙を尊ぶ個人的モラルとは別に、書いておくべきことは書いておいた方が世のためであると思うようになった。
 また、home-pageというのも便利なような、身勝手なような不可思議なものである。これは公開文なのか、私文なのか、いままで存在しなかったものだから、考え方も成立していない。有名日刊新聞に書けば、晴れがましいが寿命は一日である。夕刊もあるから事実上は半日である。月刊誌はひと月。しかし、home-pageは本人が望めば何時までも掲示しておける。読者数も少ないとはいえない。印刷物がよほどの発行部数のものなら別だが、home-pageを読む人の数馬鹿にならない。当然ながら掲示しておく期間が長い程増える。それに転送というものがある。ネズミ算式に増える。昨今の出版社のやり方は、著作者本人自身がかなりの部数買取る方式が多い。多数の書籍を自宅の一遇に堆積するよりHPで読んでもらう方がはるかに合理的である。
 私はHPに自作の楽譜の広告を出してから、ずいぶんと注文が来る。まるごと自分の収入になるから出版社の印税よりはるかに得である。演奏された場合の著作権使用料もまるごと自分のものになる。楽器屋書店の店頭にないことは確かに不利だが、近年の出版社は売切れでも再版しないことが多い。もちろんこの場合店頭には出ない。どこから考えてもネット直売の方がいい。
 次回からは、やはり広島の原爆にかかわる歌曲「永遠のみどり」について書く。
                            (広島へ-「おわりのない朝」終り)

助川敏弥、を考えるために


 若い頃には日本音楽コンクール1位や芸術祭奨励賞を受賞したものの、中年期以降はバイオシック・ミュージックという独自のスタンスで活動した助川敏弥にとって、1983年の《おわりのない朝》は過渡期の大作である。テープ音楽と管弦楽の融合は、ヴァレーズやシュトックハウゼンらの先例をもつ前衛音楽のスタイルをふまえているとみなせるが、同時に環境音楽への関心も見え隠れしているように思われる。そうした意味で、助川敏弥という作曲家を考えるにあたっても、この作品は注目に値する。
 もちろん、助川敏弥の全体像に迫るには、より多くの作品について考える必要がある。そして何より、ホームページ上、雑誌上に膨大な文章を残してくれている。せっかくなので、そうしたところを含めて今後検討していければと思う。

(文責:西垣龍一)


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