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林光《流れ》(1973)まわりみち解説(1)1973年までの林光

2023年6月17日に演奏する林光(1931-2012)の《流れ》。この不思議な作品を読み解くための連載第一回目は、この作品が作曲された1973年に注目しようと思ったけれど、1973年より前の話をたくさん書いちゃったので、今回は1973年以前の林光を見ていきます。

https://piano.c.u-tokyo.ac.jp/pdf_file/29thconcert.pdf


「不惑」を迎えた〈黄金世代〉

 《流れ》が作曲された1973年。1931年生まれの林光は42歳、円熟期を迎えていた。この時期、林光を含めた昭和一桁世代の作曲家たちが「若手」から「中堅」へと移行していった。この世代には林のほかに、間宮芳生(1929-)、矢代秋雄(1929-1976)、黛敏郎(1929-1997)、松村禎三(1929-2007)、湯浅譲二(1929-)、下山一二三(1930-)、助川敏弥(1930-2015)、武満徹(1930-1996)、廣瀬量平(1930-2008)、三木稔(1930-2011)、諸井誠(1930-2013)、篠原眞(1931-)、松平頼暁(1931-2023)、外山雄三(1931-)、湯山昭(1932-)、一柳慧(1933-2022)、原博(1933-2002)、三善晃(1933-2013)といったふうに、ぱっと挙げてみるだけでも錚々たる顔ぶれである。日本現代音楽における〈黄金世代〉といってもよいだろう。

 ちなみに同時代の海外作曲家を見てみると、シュトックハウゼン(1928-2007)、ラウタヴァーラ(1928-2016)、クラム(1929-2022)、グバイドゥーリナ(1931-)、ブソッティ(1931-2021)、カーゲル(1931-2008)、シチェドリン(1932-)、ゲール(1932-)グレツキ(1933-2010)、ペンデレツキ(1933-2020)、グロボカール(1934-)、ウォルフ(1934-)、シュニトケ(1934-1998)、マクスウェル=デイヴィス(1934-2016)、バートウィッスル(1934-2022)といったかんじで、名前を並べるだけでも楽しい。

上の段落にラウタヴァーラを追記しました。この頃ラウタヴァーラにハマっておりまして……(2023年8月1日)
ゲール、マクスウェル=デイヴィス、バートウィッスルとマンチェスター楽派の3人が抜けていたので追加(2023年12月9日)

「山羊の会」の結成

 ここでいったん時代を戻して林光の1973年以前の作曲家としての歩みを振り返ってみよう。林光は1931年、東京に生まれた。父は医師の林義雄で音声学の権威であった。自由学園(幼児生活団、初等部)、慶應義塾(普通部、高等学校)を経て東京芸術大学に入学したが、学外発表に対する大学の対応に不満を抱き中退した。

 1953年、林は間宮芳生、外山雄三とともに「山羊の会」を結成した。この時期、新進であった昭和一桁世代は、上の世代の作曲家とともにいくつかのグループを組織して活動した。「山羊の会」のほかに「三人の会」「深新會」「実験工房」などがそれである。それぞれが固有の特徴や理念をもっており(先に挙げた三つの団体はいずれも特定の主張を標榜しないと強調したが、組織の必然として何らかの傾向性を否定することはできない)、端的にまとめると、商業音楽と純音楽を両立しながらの自立(三人の会)、ヨーロッパ中心主義(深新會)、他分野の芸術とのコラボレーション(実験工房)といったふうになろう。

 これらのグループに対して「山羊の会」の特徴をどのように位置づけようか。まず、バルトークを共通のモデルとし、「音楽のあらゆる分野にわたつて日本の国民音楽の発展に努力してゆきたい」というマニフェストを掲げた。民族的な文化に根差すのはもちろんであるが、世界の音楽のなかに位置づけられる国際性をもつという意味で、バルトークを目標としていたようである。

 しかし、日本の作曲家としての民族性と世界に通用する国際性を、というのは方法こそ違えどほとんどの作曲家や作曲家グループにとって切実な問題であったわけで、「山羊の会」の真の特色はその社会性、政治性に見出すべきだろう。林は「山羊の会」設立にあたって〈国民文学〉の理念に共感して〈国民音楽〉を標榜するに至った経緯をこのように説明している。

ぼくらはその〈国民文学運動〉に共感した、というよりもそれ以前にそのような社会のうごきにやはり反撥を感じていましたから文学、あるいは芸術といわずもつとひろくそれらに対する〈抵抗〉の姿勢そのものに共感したのです。

林光「山羊の会」『音楽芸術』第16巻第1号、1958年、39頁。

 なお、この引用箇所のつづきには、〈国民文学〉の運動が「まちがつた方法」であったと語られているのだが、ともかく「山羊の会」メンバーは音楽が社会あるいは政治から切り離されたものとは考えられなかったのである。そうして彼らは合唱を通じての左派運動「うたごえ運動」に参加するなど(「うたごえ運動」ともやがて亀裂を生じる)政治参加に熱心だった。

武満からの批判——プライベート・フレンド、林光と武満徹

 当然の成り行きとして、大衆に理解される音楽を書かねばならないということになれば、「前衛」と対立することもある。そもそも「山羊の会」の「山羊」はピカソ晩年の作品群に見られる山羊に由来していて、音楽でいえばプロコフィエフ1930年代以後の作品のように、「理解されやすく同時に二〇世紀的な方法を通過しているいわば一寸ひねつたところもあるといつた種類のもの」への憧憬を表していたそうである。もちろん、「山羊の会」メンバーの作品の魅力はそうした「20世紀的でありながら聴きやすい」といったところにもある。しかしそのような悪く言えば「どっちつかずな」身の置き方については批判も少なくなかった。
 
 そうした批判のうちもっとも重要なのは、武満徹によって「山羊の会」の機関誌に掲載された「山羊の会の友人へ」と題された小文である。そこで武満は、「ぼくたちは若いのだから、傷つくことをいとわない」と前置きし、「A.SCHÖNBERGを吃って発音するスノビスト的支配の中であなたたちの誠実な態度に、ぼくは尊敬を感じています」という独特な表現で敬意を表しながら、次のように批判する。少し長くなるけれど、引用しておこう。

あなたたちが民謡を主題とした時にも、西欧的なフォームに依存しているのが不可解です。ぼくがこういうのは常用語に対する恐怖からではありません。主題が有っている性格、つまり内容が形式を規定すると確信するからです。そこには当然既存のフォームと異った新しい必然を有った形式がなければならないと思うのです。これは「理解される……」〔西垣註:「山羊の会」の主張する「大衆に理解される音楽」のこと〕という問題をはなれた芸術家にとっての、真実の問題だと思います。

武満徹「山羊の会の友人へ」『山羊の会』第1号、1954年。所収:『武満徹著作集〔5〕』新潮社、2000年、214~215頁。

 ここで直ちに述べておきたいのは、林と武満の関係である。この1歳違い(武満が年上)の二人が非常に仲良しであったことは、武満の没後、2006年に行われたインタビュー(『武満徹を語る15の証言』所収)での林の発言からよくわかる。武満は生前、浅香夫人に「作曲家の中で一番尊敬しているのは林光さん」と言っていたといい、一方林は「武満さんは私のプライベート・フレンド」だという、そんな仲であった。はじめてしっかり会ったのは1957~58年頃で、林が鎌倉の武満家を突然訪ね、お互いの音楽について語り合ったのだという。それ以来、音楽に対する立場の相違を超えて、いやむしろだからこそなのかもしれないが、二人の友人関係は続いたのだ。

「山羊の会」の活動とメンバーの作品

 この時期、林の初期の傑作《交響曲ト調》(1953)や《水ヲ下サイ》(1958、のちの《原爆小景》第1楽章)、そしてはじめてのオペラ作品《あまんじゃくとうりこひめ》(1958)が作られた。そのほかあまり知られていないが重要なこととして、1954年の劇団四季第1回公演《アルデール又は聖女》の音楽を担当した。間宮、外山も初期の傑作をこの時期に生み出しているが、ここではこの連載に関係してきそうな間宮の《合唱のためのコンポジション第1番》(1958)と(やはり彼にとってはじめての)オペラ《昔噺人買太郎兵衛》(1959)を挙げておく。

 「山羊の会」は1957年に助川敏弥を加え、同年行われたブリュッセル万博の日本館の音楽を担当して高評価を獲得した。「山羊の会」の活動はブリュッセル万博以降、縮小していった。メンバーの外山が指揮者としての活動に重きを置き始めたことが大きな理由と思われる。それでも、1965年にはじまった「現代日本の作品によるN響特別演奏会」では外山の指揮によって、林光《変奏曲》(1955)、林光《オーケストラのための音楽》(1965、初演)、外山雄三《鬨》(1965、初演)、助川敏弥《レゲンデ》(1965、初演)、間宮芳生《オーケストラのためのタブロー❜65》(1965、初演)と全曲「山羊の会」メンバーの作品で彩られた。

 ここで、論旨とは大きく外れるけれど、助川敏弥について少しだけ触れておきたい。というのも、助川は私にとって高校の大先輩にあたるからである(私が札幌南高校の69期で、助川は私の70歳年上だから、旧制札幌一中の出身ということになる)。林光は助川を早くから評価していて(「助川敏彌が、すぐれた構成力を持つた、有望な新人であることを書いておく」『形象』第2号、形象文学会、1954年、65頁)、やはり彼もバルトークを模範としており(1955年の『フィルハーモニー』誌にバルトーク論を発表している)、のちに「山羊の会」に加入するのは自然なことだった。トランソニック結成に際しては、現代日本の作曲家はごく一部の特異な「ききて」しか想像していないなどと批判し、林光に対しても「路線にそった作品をそれゆえに肯定するなら、その昔のジュダノフ批判当時のある種の批評と同じ」として痛烈に批判した(音楽芸術第31巻第4号、1973年)。現代音楽の最前線で活躍していた助川だが、1980年ごろから環境音楽の制作に取り組み始め鹿島建設のサウンドデザインやバイオシックミュージックを銘打った CD シリーズを手掛けるようになる。同時に、前衛音楽に対する痛烈な批判を展開もした。こうして現代音楽の第一人者から環境音楽家へと急旋回した助川だが、還暦を過ぎたころから再び音楽における演奏の意義を再認識し、晩年はピアノ曲に集中して最も多作な時期であったという。
 高井戸にある私の小さなアパートの一室のなかには、助川敏弥の楽譜がいくつかある。立川の島村楽器に行った時に衝動買いしてしまったやつだ。そのうち弾いて、YouTubeにでもあげます。

試行錯誤する林光

 「山羊の会」としての活動が少なくなってから1973年までの林光はといえば、不思議なことにこれといった名作が生まれていない時期に突入している。作品リストを眺めると、この時期の作品には二つの特徴がみられる。一つは、やたらと政治色の強い音楽が多いということ。もう一つは、映画音楽や舞台音楽の分野できわめて活発に活動し、多くの名曲を生み出しているということである。つまり、いわゆる「純音楽」ではない分野で活躍していたというわけである。

 林光はこの時期(池田逸子によれば「一九五三年から約二十年余り」)、作曲スタイルが不統一であることに悩んでいたという。繰り返し述べてきたように、「前衛音楽」と「大衆音楽」の間の立ち位置は難しいものであった。そのような悩みから解放されたのは連作歌曲《赤電車》(1974)であったとは林自身が述べるところである。結果的に、《流れ》が作曲された1973年はまさに、試行錯誤していた長い20年間の最後の年であった。さて、その1973年は林にとってどんな年であったのかについては次回の話としたい。

主要参考文献

・片山杜秀、細川周平(編)『日本の作曲家:近現代音楽人名事典』日外アソシエーツ、2008年。
・武満徹「山羊の会の友人へ」『山羊の会』1954年。所収:『武満徹著作集〔5〕』新潮社、2000年。
・武満徹全集編集長(聞き手)『武満徹を語る15の証言』小学館、2007年。
・長木誠司『戦後の音楽 芸術音楽のポリティクスとポエティクス』作品社、2010年。
・日本戦後音楽史研究会編『日本戦後音楽史 上 戦後から前衛の時代へ : 1945-1973』平凡社、2007年。
・林光「山羊の会」『音楽芸術』第16巻第1号、1958年。
・『形象』第2号、形象文学会、1954年。
・『フィルハーモニー』第27巻第11号、1955年。
1931年~1940年生まれの作曲家 | ナクソス ミュージックストア (rakuten.ne.jp)

今回登場した作品の音源、ここに挙げておきますね

林光《交響曲ト調》(1953)・・・林光初期の傑作。ラジオ東京の委嘱による。プロコフィエフやショスタコーヴィチの強い影響が感じられる。音源の指揮は「山羊の会」の盟友、外山雄三。

林光《水ヲ下サイ》(1958)・・・原民喜の詩をもとに作られた。のち1971年に「日ノ暮レチカク」「夜」を加えて無伴奏混声合唱組曲《原爆小景》として発表、2001年には《水ヲ下サイ》作曲時から念願であった《永遠のみどり》を終楽章に加えた完結版が発表された。

林光《あまんじゃくとうりこひめ》・・・のちにオペラの作曲家として有名になる林はじめてのオペラ。

間宮芳生《合唱のためのコンポジション第1番》(1958)・・・このシリーズは17番(2008年)まで作られており、ライフワークと言ってもよいだろう。私は4番が好きです。

間宮芳生《昔噺人買太郎兵衛》(1959)

外山雄三《管弦楽のためのラプソディ》(1960)・・・「ソーラン節」や「あんたがたどこさ」といったおなじみのメロディーがこれでもかと出てくる。わたしは冒頭がレズギンカ舞曲にしか聞こえなくて笑ってしまうのだが…。

助川敏弥《おわりのない朝》(1983)・・・《山羊の会》時代の助川作品がネット上にないので、1983年の名曲を。広島でのフィールドレコーディングや被爆ピアノの音が組み込まれた作品で、助川が環境音楽の分野に熱中する直前期の関心のありかが垣間見られる。なお、「助川敏弥」と検索すれば1990年代に彼の作った環境音楽がたくさん出てきて、しかも再生回数が多い。

(文責:西垣龍一)

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