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【コンサートミニレポ#10】「かたち」というより「からだ」?—Electronic duo series at Monten 2024〜01 不可視のかたち~Percussion, Violoncello and Electronics

Electronic duo series at Monten 2024〜01 不可視のかたち~Percussion, Violoncello and Electronics
出演:難波芙美加(パーカッション)、北嶋愛季(チェロ)、佐原洸(エレクトロニクス)
プログラム企画・構成:Cabinet of Curiosities

エレナ・リコヴァ:You exist. AndIam an illusion (2016)
森紀明 : A Study of Relations II (2023/24)
リザ・リム:Cello playing – as Meteorology (2021)
ジェシー・ブロークマン:Body of Unseen Beings (2016)
シモン・ステン=アナーセン:Next to Beside Besides (2003/6)
ジョルジ・アペルギス:Cing Pieces (1994)


エレナ・リコヴァ:あなたは存在する。そして私は幻影。-プリペアド・スネアドラム、プリペアド・チェロとアンプリフィケーションのための You exist. AndIam an illusion (2016)

作曲者はハーバード大学で博士号を取得したとのこと。本企画の森紀明さんは、ハーバードの作曲家に近年注目しているという。スネアドラムのプリパレーションは、ひっくり返して底面のスネアを上面に出すことでチェロ的な音響機能が生まれるのだとか。

正直に申し上げて、作品としては様式的、つまり「現代音楽」の予測される範疇でしか動かない音楽で、退屈に感じられた。非伝統的な記譜法が特徴的であるということで、実際に休憩時間に楽譜を覗いてみると確かにそうなのだが、それが聴取にとって何を意味しているのだろうか、ということについて考えさせられる。そもそも、いまさら記譜法が特徴的だからと言って何が面白いのか、という心象は否めない。

森紀明:関係性のエチュードⅡ-2人のジェスチャーを伴うパフォーマーと任意のアンプリフィケーションのための A Study of Relations II (2023/24)

企画者自身による、今回唯一インストゥルメンタルでない作品。「衣服に付着したごみを払う」所作と「湯呑を掴んだり、離したり、動かしたりする」所作の二つの反復を中心に組み立てられる。ミニマル的と言ってもよいか。

日常の中で「意味」を持つ振る舞いが、文脈を切り離した状態で提示することで「意味」が変容する、という作者の意図は理解できる。できるのだが、あまり面白くない。なぜなのだろうか。考えられることは三つほどあって、①構成の仕方が音楽的すぎる②所作の選択の問題③同じ行為を反復することの問題、といったことである。プログラムノートに書かれた作者の意図を実現するには、もう少し別の方法を考えた方がよかったのではと思ってしまう。たとえば、日常的な所作をもっと増やし、パフォーマー間の「関係性」のシステムももっと複雑化するとか(テキトウな思いつきです)。

後半に登場したおもちゃ(楽譜にはfrog toyと書いてあった?検索すると「ベトナムのゲロゲロ笛」なるものが出てくるがこれかな?)はとても興味深かった。なぜこれが登場したのかはよく分からなかったが……。

リザ・リム:チェロ・プレイング~気象学としての―2つの弓を伴うチェロソロのための Cello playing – as Meteorology (2021)

二刀流かつ立奏であるほかは普通の(あ、この時点で普通じゃないか)チェロ曲。しかしなかなかおもしろい。一部で奏者による声(うた)の使用がある。

チェロの北嶋さんは本格的な立奏ははじめてだが、二刀流は経験豊富とのこと。たしかに二刀流ということを忘れさせるような安定感のある演奏で、声もチェロとマッチしている。チェロを携えた人間の身体の拡張可能性を見出す。

ジェシー・ブロークマン:不可視のかたち-パーカッションとエレクトロニクスのための Body of Unseen Beings (2016)

曲名の《Body of Unseen Beings》の邦訳が、今回の演奏会のタイトルにもなっている。「不可視のかたち」。

異なる、しかし同質の10素材を桴で打つ。素材は演奏者に任されているということで、作曲者から「石ではやったことがあるが、メタルはまだない、けどメタルはうるさすぎるかな」などと言われて結局木材に落ち着いたという。素材選びなどについてもパーカッションの難波さんから面白い話を聴くことができた(練習場所への道中、建築関係の会社の前で売られている木材を発見した、とか)。

10段の楽譜からなる様々な意味で演奏者に負担の大きい作品と思われるが、リアライゼーションのセンスが抜群で、演奏も凄まじい。見ていていつも思うのだが、なぜ打楽器の人はあんなふうに身体(主に腕あたり)が動くのだろう。木材と電子音響のコラボレーションは両国の小さなホールで経験すると強いインパクトがある。演奏者の身体(body)だけでなく、こちらにも聴衆である「私」の身体(body)があることを思い出させる。普段は忘れられている、つまり「不可視」の、私の身体について。

シモン・ステン=アナーセン:ネクスト・トゥ・ビサイド・ビサイズ-チェロとパーカッションのための Next to Beside Besides (2003/6)

ピアノ落下で有名な(⁉)今をときめくアナーセンの作品だけあって非常に面白い。チェロの身振りをパーカッションが模倣する(これは映像を見てもらえばよく分かる)。この点について先日の山田奈直さんの作品を思いだしたり。

このアンサンブルは楽しいだろうなあ。演奏者も観客も楽しい。芸術の基礎的な要素である模倣(ミメーシス)が本質的に遊び心(playfulness)に通ずるものであることが感得される。ミュージック・シアターは面白くなくちゃ!というところからプレイフル・シアターなる用語を思いつく。シアターにおける遊び心、研究に使えるかな。

ジョルジ・アペルギス:5つの小品-エスペルーとチェロのための Cing Pieces (1994)

エスペルーは、この作品を演奏するために発明された打楽器のようで、再演にあたってはそれを再現すべく打楽器がチョイスされる。楽章によっては二人の奏者の声も使用される。

作品としてはよく分からない。でもなぜだか楽しい。それはやはりミュージック・シアターにおける遊び心の領域なのだと思う。プレイフルネス!

「面白ければ、分からなくたっていい」ということを私は高校時代に読んだロラン・バルトの宗左近による訳者解説から学んだ(あれ?『テクストの快楽』だったかな?だとしたら沢崎浩平だ)。けっきょくのところ、芸術にとって信じるに値するのは面白さだけなのだ、と(ちょっと過激に)思うのである。

なお、松平頼暁は『音楽芸術』1973年11月の「遊び」特集でこんなことを言っている。

‟あそび″とは何だろうか。この言葉に、‟音楽における″という条件がついた時、解釈はさらにむずかしくなる。人は、サイコロをふりながら作曲しているのを見たら、楽しそうに思うかもしれない。しかし、サイコロをふっている当人は少しも面白くないことだってある。‟あそび″のない作品にはろくなものがない、などといってもいいような気もするが、一方ではそんなことはどうでもいいことのようにも思える。他人の作品を‟あそび″の例に引用するとさしさわりのありそうな気がするので、幾つか自作を引用したが、私自身これらの作品を書きながら‟あそび″を自覚したことはほとんどない。

「かたち」というより「からだ」?

今回の演奏会の裏テーマは、森さんによれば「DIY」ということで、演奏者の自発性が必要な作品が集められたということである。楽器の選択、楽器に使用する素材探し、記譜されていないダイナミクス……。たしかに演奏者の負担は大きかっただろう。そして演奏者の見事さが際立っていた。他方、企画として全体を見渡した時に提示されたものが充分であったとは言いにくい。

それにしても、ブロークマンの作品が《Body of Unseen Beings》であるのに、それを「不可視のかたち」と訳して演奏会のタイトルにまでしたのはなぜなのだろうか。私が聞き逃していなければそれについては語られなかった。

「不可視のからだ」ではだめなのか。というか、「かたち」というより「からだ」がこの演奏会にはふさわしいのではないかと単純に思ってしまうところだ。つまり「不可視のからだ(Body of Unseen Beings)」とは、演奏主体の隠れている電子音響なのであり、ミュージック・シアターでなければ浮き上がることのない(通常の「音楽作品」においては後景に追いやられてしまう)演奏者と観客の身体のことではないのだろうか。

まあ、bodyをわざわざ「かたち」と訳すくらいなのだから、相当な理由はあるのだろうけれど……。

(文責:西垣龍一)

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