見出し画像

マイケル・パーソンズ《WALK》解説(「第31回東京大学教養学部選抜学生コンサート」プログラムノートより)

2024年6月14日に開催された第31回東京大学教養学部選抜学生コンサートで、マイケル・パーソンズ《WALK》を上演した。
当日配布のプログラムノートに掲載された文章を転載する。各方面に毒を吐くやや攻撃性の高い文章だが、半分はプロレス的に、半分は本気で書いている。プログラムノートなんて真に受ける方が悪いのだ、ということでもある。
私は《WALK》の共同企画者としてだけではなく、コンサートの運営の方もいろいろとやる羽目になった。そのような仕事自体は嫌いではないし別に良いのだが、そこに面倒なことが重ねて降りかかってきて大変な目に遭った。強靭なメンタルが持ち味の私がここまで精神的にやられたのはほとんどはじめてのことだった。コンサートの前日夜から当日朝にかけては具合が悪く3時間のWALKができるのか危惧されるほどだった(北海道出身の私にとってはこの6月の30℃も体調異変の一因である)。ところが、3時間の《WALK》が終わったころには良い汗をかき清々しい気分にまでなっていた。
コンサート運営をめぐるあれこれや、当日の《WALK》についても話したいことはいろいろあるけど、とりあえず。

解説

タイトルのとおり、歩く。そしてときどき立ち止まる。それだけの作品。歩く速さや立ち止まる時間といった要素だけが、簡単なルールによって定められている。

マイケル・パーソンズ(Michael Parsons、1938-)はイギリスの作曲家であり、コーネリアス・カーデュー、ハワード・スケンプトンとともにスクラッチ・オーケストラの設立に関わったことで知られる。1969年に結成したカーデュー主導によるこのオーケストラは、演奏技術を持ち合わせていない「しろうと」(=音楽教育に毒されていない人々)に開かれており、集団即興を基礎とすることを特徴としていた。

《WALK》の楽譜にはスクラッチ・オーケストラの初のコンサート(1969年11月1日)のわずか9か月前、「1969年2月8日」という日付が記されている。《WALK》は演奏技術の高低を問わず、各参加者の自由がかなり尊重されているという点において、スクラッチ・オーケストラの精神との共通性を見出すことができよう。

今回で31回目を迎える本コンサートが、(ピアノ委員会所属の)教員の審査によって演奏技術を比較するオーディションを経て行われてきたことは、あたかも当然のように振舞われているものの、考えてみれば不思議な事態である。なぜ教員が学問領域とは関係のない事柄において、学生の能力を判定する権利をもつのだろうか。音楽大学であるならいざ知らず、総合大学において大学主導で学生の音楽的才能を称揚する意味がどこにあるのだろうか。

《WALK》の開かれた性質は、そうした状況に対するひとつの対抗案として機能しうる。それは、一面的には楽器の演奏ができない人でも、上手に歌えない人であっても、「歩く」能力さえあればこの《WALK》という音楽に参加することができるということである。しかし、《WALK》における開かれた性質とはクラシカルな音楽作品と比べて誰でも参加しやすいという意味だけではなく、《WALK》への参加意思の全くない人さえその中に取り込んでしまうという意味でもあるのだ。というのも、《WALK》の最中に偶然通りかかった人たちは異常なまでにはやく/ゆっくり歩いては不自然に停止する人々に気づいたときにはすでに否応がなく観客になってしまっているのだし、ただ音楽実習室下の並木道を横切る人々も音楽実習室の観客からは「パフォーマー」であるとみなされてしまうかもしれないからである。ここではあらゆる人が歩行者(ウォーキスト)であり得、あらゆる人が観客であり得るのである。それは、演奏技術を持つパフォーマーとそれを受容する観客を峻別することを前提としているクラシカルなコンサートのシステムを脅かす性質である。

参考文献
Michael Nyman, Experimental Music: Cage and Beyond (Schirmer Books, 1974). [マイケル・ナイマン『実験音楽 ケージとその後』椎名亮輔訳、水声社、1992年。]
Michael Parsons, The Scratch Orchestra and Visual Arts, Leonardo Music Journal, Vol. 11(2001), pp. 5-11.

「周縁」

主催者の側から本コンサートに「フリンジ(周縁)」というテーマをあてがうことを知らされ、演奏者のひとりからそれに対する反対意見が提示された。それについては私はどちらでもよかったので静観していたのだが、ポスター(/フライヤー)制作の段になってポスターに「フリンジ」という文字列を入れることに対しては明確に反対した。結局それは聞き入れられ、ポスターに「フリンジ」の表示はないのに、プログラムノートにはこうしてテーマとして残っているという奇妙な事態が生じている。

私は、このコンサートのテーマが「フリンジ」であること自体は妥当なものと考えている(はじめて今回のプログラムを見たときに抱いた印象もおよそそのようなものであった)し、《WALK》も「フリンジ」というテーマによく馴染んでいる。にもかかわらず、ポスターへの表示を拒んだのには三つほどの理由がある。

一つは、「フリンジ」がオーディション後に据えられたものであり、それゆえ各パフォーマンスの最大公約数にすぎないということである。つまり、各パフォーマンスから「フリンジ」を導出するのは妥当であるにしても、「フリンジ」からこのプログラムを作り出すことはまずできないであろうし、「フリンジ」というテーマでこのプログラムでは弱すぎるだろう、ということ。このように通奏低音として響くような共通項はテーマとして大々的に示すのではなく、「裏テーマ」として取り扱うのがよいだろう、という考えである。

次に、より重要なことだが、どれほどそれが良いテーマであったとしても、主催者側から提示されたものであるには違いないということである。《WALK》のコンセプト自体、主催者/演奏者の権力構造を一つの問題として取り扱っている。大学の資産であるスタインウェイのピアノを、選抜した学生にしか演奏させない(しかも半年に一回!)という態度は学生を舐めているとしか言いようがない。決して安くない学費を払っている私たちは、一年のほとんどを鍵つきの密室で過ごすピアノに何の価値を見出せばよいのだろうか(そのようなものを御本尊として崇め奉るのが宗教的態度だが、大学にはふさわしくないだろう)。さらに、今回のコンサートに限って言えば、予定されていたオーディションが会場のダブルブッキングによって実施できず1週間以上先延ばしになった。ピアノ委員会を責めるのではないが、オーディション参加者が大学権力に制御されざるを得ない構造を自覚するには十分な事件であった。そういうわけで、主催者側から提示されたテーマを従順に受け入れることはもはや不可能であると思うに至った。もちろん、参加者側でよりよいテーマを探ることも一つの方法ではあったが(主催者側からもそのような提案はあった)、何しろ時間がなかったし(これは先の「事件」の影響である)、よりよいテーマを見つけることは容易ではなく(よりよい「最大公約数」とは?)、ポスターではテーマを提示しない方がましだろうと結論づけた。

そして最後に、《WALK》に関わる自己都合的な理由があった。《WALK》が「フリンジ」をテーマにしているというのはその通りである。従来のクラシカルなパフォーマンスとは相容れない周縁的なパフォーマンスであるというのは間違いない。しかしそれは、音楽実習室で行われる、クラシックの、楽器による、10分以内の、8人以下の……といった音楽界の常識や主催者によって定められたルールに則ったパフォーマンスを「中心」として据えた際に浮き彫りになる「周縁」である。つまり、《WALK》の周縁性とは、本コンサートおよび《WALK》以外のパフォーマンスを「中心」とみなすことによってはじめて成立するものである。そういうわけで、このコンサートのテーマが「フリンジ」となり、それぞれの演奏が「フリンジ」として捉えられるような事態はあまり望ましいものではなかったのである。

個人的な望みを言えば、単純に本コンサートのテーマが「フリンジ」である、というような考え方は避けられたい。そうではなく、本コンサートのひとつの主眼は、各演奏者が「フリンジ」というテーマをどのように受け入れる/受け入れないのかについての物語であると考えていただきたい。

(文責:西垣龍一)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?