走ることが夢だった1 (カート編)
私は幼い頃、ガンダムの好きな男の子でした。
年と共にクルマに興味を持ち、高校の時にカートを始め、19歳の時に国内A級ライセンスを取得、27歳でメーカーのプロドライバーのテストを受けました。
その数ヶ月後、精神科のベットにいました。
夢と現実、その狭間で苦しんだ私の実話です。
片鱗
私は幼い頃から、手先が器用で絵を描くことや工作が好きでした。
集団に馴染めず保育園も拒否して一年目はほとんど休みました。
家で教育テレビを見る毎日でした。
今思うと幼少期の過ごし方で、私の人生の方向は決まっていたように思います。
私は、大手メーカーに勤める父と専業主婦の母、3つ上の兄の4人家族でした。
父親は海外出張が多く、日本にいても仕事が忙しくあまり話をしたこともありませんでした。
幼い頃は一緒に暮らしていた祖父母に馴染めなかった兄は、祖父母から可愛がられていた私をよくいじめました。
私は自分の殻に篭るようになりました。
毎日が憂鬱な小学校生活を送っていました。
そんな中、世の中はバブル景気に向かっていきました。
鈴鹿サーキットでF1が開催され、中嶋悟選手が日本人初のフル参戦F1ドライバーになった1987年、私の心には勇気と希望が湧いていました。
クルマに興味を持ち始めたのはこの頃からです。
そしてフェラーリテスタロッサというスポーツカーのプラモデルがタミヤ模型から発売されたのを少年ジャンプの広告で知り、一目惚れしました。
プラモデルを買い、ドアのところのスリットが飾りじゃなく、エアーダクトだと知り感動したのを覚えています。
中学生になってからは、世の中はF1ブーム。
私は学校内で1番のF1オタクでした。
オタクという言葉も、悲しい事件と共に一般的になったのもこの頃でした。当時はネガティブな言葉でしたが。
学校内では、1番のクルマ好きでしたが、クルマ関係の知り合いがいるわけでもなく、オタクでしかない自分にコンプレックスを持つようになりました。
始動
高校生になったら、バイトをしてカートをやると決めていました。
運動が得意ではなかった私は、ドライバーよりもレーシングカーデザイナーになりたいと思っていました。
レーシングカーデザイナーの本を読むと、若い頃はドライバーをやっていたという話が書いてあったので、乗らないことには話にならないと思いました。
ただ、オタク生活を続けていた私はかなりのデブで、まずは痩せるために高校入学後、ハンドボール部に入部しました。
一年生の夏休みには体重は、17キロ減って62キロになっていました。
即部活をやめ、アルバイトを始めました。
隣の市にあるカートショップにも行きましたが全く相手にされず、月10万のアルバイト代がもらえるようになったら売ってやると言われました。
清掃業、運送屋、カメラのレンズの工場と渡り歩き、学生でも毎月10万稼げるアルバイトにたどりついたのが新聞配達でした。
カートショップに10万円稼げるようになったと言いに行くと、中古のカートを親名義のローンで買う話になりました。
今思うとこれがお金中心のレース界の実態なわけだが、当時はなんとか受け入れてもらおうと、父親にローンを組んでもらいました。
現実
カートは買ったが、クルマを持ってるわけではないので、練習はチームの人たちと一緒じゃなきゃいけない。
初対面の大人たちと、長時間の移動、食事、練習。
練習といっても教えてくれるわけでもなく怒鳴られるばかり。
3回ほどは、練習に誘ってもらえたが、その後は連絡も来ず。
高校の間は、3回の練習走行とカートライセンスを取っただけで終わってしまいました。
私は現実の壁にぶつかり挫折しました。
アルバイトには行くが、学校はサボる生徒になっていきました。
お金は持っていたので、悪い仲間とゲームセンターやパチンコ屋に行くようになっていきました。
毎日が反吐が出るくらい憂鬱でした。
分岐
私は自動車整備専門学校に入学したかったが、乱れ切った高校生活で心は荒んでいました。
父親と将来について話し合い、1年間時間をもらいフリーターをしながらカートのレースをすることにした。
カートライセンスを取った群馬県のカートコースの人が面倒見が良さそうだったように思え、お世話になる事にしました。
単身群馬県前橋市の新聞屋で住み込みで働きながら、レースをすることにした。
というのはカッコつけすぎで、私は車の運転がものに出来なければ、自分はダメ人間として生きていこうと決めての移住だった。
カートコースのオーナーと話をして、先ずはお金を貯め、その間の土日はオフィシャル(コース員)のアルバイトをすることになった。
慣れない土地での生活。
レースという知らない世界への挑戦。
ストレスを貯める日々だった。
3ヶ月で少し貯金を作り、練習を始めた。
自分がどの程度のレベルなのか知るために、すぐにレースへもエントリーした。
デビューから3戦連続リタイア。
カートのメンテナンスができていないのが原因だった。
一年を無駄に終わらせてしまうんじゃないかと焦り、私はチームの先輩にカートの運転を教えて下さいと頭を下げ、了解をもらった。
そこからは厳しかった。
職人の世界なので、言葉で説明してくれない。言わんとしてることを察しなきゃいけない。
失敗して覚えるもんだと言わんばかりに、答えを教えてくれない。
どんどん出費が増えていく。
新聞配達だけだとどうにもならず、掛け持ちで運送屋のアルバイトを始めた。
新聞屋では、お世話になっていたので心苦しかった。住み込みで働かせていただいて、掛け持ちでのアルバイトも許可してくれた。
若い時だから通ったわがままだと、社長には今でも感謝している。
転機
深夜に運送屋の仕分け作業、朝から夕方まで新聞配達と集金。
睡眠は、朝刊後に少し取るくらい。
毎日クタクタだった。
ある日、運送屋のアルバイトが終わった朝方、トラックに積もった雪をドライバーが水をまいて落としていた。
私は水たまりを、飛び跳ねて避けようとしたら、着地したところが凍っていた。
足元をすくわれ、肩から地面に転倒。
朝刊の配達があったため、転んだくらいではと思い原付の止めてある駐輪所に向かいハンドルに手を置くと、肩がずれるのを感じた。
折れているようだ。
事務所まで戻り上司に説明すると、救急車を呼ばれた。
そのまま病院に運ばれ入院。
私はやっと休めると自分に言い訳ができる安堵感と絶望感に襲われた。
時間に追われるような生活から、一変時間が止まったかのような入院生活。
イライラする。
覇気のない入院患者との生活。
当時の自分には、拷問に感じた。
イライラを紛らわすために、タバコを始めた。
ただ、毎日顔を合わせる中だと通じるものも出てくる。
東京からレースをしに来てるってだけで、珍しがって興味をもってくれる人もいた。
病院という守られた世界では、歳、性別、肩書など関係なしに仲間意識が生まれてくることに気づいた。
世間では皆牽制し合い生活しているだけで、本来は誰でも仲良くなれるものなのだと、気付いた入院だった。
自分のレース活動に興味を持ち、応援の言葉をくれる人もいた。初めての経験だった。
知らぬ土地の人でも仲良くなれることを知った。
3ヶ月という入院生活で私はいろいろな気持ちをリセット出来た。
前向きな明るい自分に戻れていた。
退院後、カートの練習の集中力が全然違った。
先輩の指導は、前にもまして厳しかったが、信頼関係のある厳しさに感じられるように、私は成長していた。
まだだめだとダメ出しされる日々が続いた。
タイムは教えてもらえなかった。
ただ走れているという充実感はあった。
レース前日の練習が終わった時ストップウォッチを見せられた。
明日もこのタイムが出れば、お前がポールだと言われた。
嬉しかった。
ダメ出しされていたのは、レースで通用するかというレベルで見てくれていたんだとわかった時、ついてきて良かったと思えた瞬間だった。
先頭
レース当日も調子が良かった。
タイムトライアルのスタート時、行って来い!の先輩の一声で送り出され気合が入る。
見事にトップタイム。
自己ベストまで0.2秒の好タイムだった。
予選もトップでゴール!
決勝前、先輩と談笑しながらカートの整備をしていた。
先輩が右のリヤタイヤを止めてくれた。
と、思っていた。
決勝レースをトップで走っていたところ、そのタイヤが外れた。
私はリタイアだった。
ピットに戻った私は、先輩に右のリヤタイヤ止めたの先輩でしたよね。と言った。
先輩は、オレを疑ってるのかと逆ギレした。
興奮していたからとはいえ先輩のせいだと思った自分を恥ずかしく思った。
悔しかったが、トップで走れる速さが身についたのは紛れもなく先輩のお陰だった。
誰かがやってくれるだろうという甘さが私にあったから起きたメカニカルトラブルだと冷静になってから気づいた。
私の1年間のレース成績は、7戦中、完走1回、リタイア6回、ポールポジション1回でした。
自分でもできることがあると思えるようになった一年でした。
収穫
4月に専門学校に入学し、ゴールデンウィークのレースで優勝しました。
次のレースはまたリタイア。
カートは引退しました。
自分でも出来たそれに尽きます。
最初は、才能があるかないかとか考えていた。
速くなってわかったことは、練習でやることをやっていけば、結果は後からついてくるということ。
近道ってないんだな。
あるとすれば遠回りしないように地道に努力すること。
それが出来ていれば、周りは放っておかない。協力してくれる人が出てくる。
ただこの頃の私は、この先の戦いがどうなるかも想像も出来ていませんでした。
若いうちにしか出来ないことだからと、フォーミュラカーに乗ることを計画していました。
カートショップの店長からは、お前は向いてない。優しすぎると言われました。
最後に苦労するぞと言われ、お世話になったチームを後にしました。
2 (番外編 たった一度の優勝)へ続く
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