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書の短評(追記221222) 宇野重規『民主主義とは何か』講談社現代新書、2020年

書評じゃない

 私は過去に(ペンネームで)書評を書いて掲載されたことがありますが、ちゃんとした書評というのは大変なものです。書かれていることを正確に理解することはもちろん、やはり類書や先行研究などと比べながら、対象の書籍の独自性を(できれば好意的に)示さないといけません。さらに、評者の意見や注文を加える必要もあって、それがないと読書感想文になってしまいます。
 ということで、以下は書評ではありません。単なる数箇所の指摘です。それらを示すことで述べたいことは最後にまとめます。
 とはいえ、形式的なことはきちんとしておきましょう(一般的なことです)。取り上げる本については「本書は」というように表現します。書いた人については「著者は」です。そして、私の意見は、「筆者は」とか「評者は」と表現すべきですが、まぁ、ここは「私は」でいいでしょう。あと、例えば「読者にとって」という場合、実質的には「私たちにとって」という意味です。つまり、私も、この記事を読んでいるあなたも、本書の――少なくとも潜在的には読者だからです。あとは、引用部分は「 」としますが、電子書籍で読んでいるので頁数を記せないのをお許しください(どちらも「第一章」です)。

いきなり躓く

 ちょっとした想定外で概観的なこと(したがってここは感想)を最初に書くことになりました。以下で、民主主義について、著者がプラトンやアリストテレスの意見/態度としているものが、誤解や間違いであることを指摘します。ところが、この記事を書くにあたって初めて巻末の参考文献を確認したのですが、そこに、例えば『国家』や『政治学』、『アテナイ人の国制』といったもの――つまり、プラトンやアリストテレスが書いたものが見当たりません。ということは、古代の民主主義について本書で示されているテクストは、孫引きってこと……なんでしょうか。
 たしかに、そうだとすれば古代における公と私の区別についての(アーレント臭のする)単純化や、陶片追放と民主主義との関係についての言及があまりに偏っていることや、そもそも哲学者の位置付けがおかしい等、しばしば大雑把だなぁという印象を受けたのも、納得できるちゃあ、できます。ようするに、著者はトクヴィルやミルのようには、古代ギリシャについて専門的でないということですね。著者が(目を通してはいるでしょうが)プラトンやアリストテレスのテクストを精読していないのならば――以下の指摘は詮無いものになります。まぁ、いいでしょう。この記事では指摘は単に話のタネですからね。

プラトンの読解関係

 (破線で強調されて)「多数者の決定だからといって正しいとは限らない。そうだとすれば、政治をより良いものにするには、一人ひとりの人間を道徳的にしていくしかない。政治家は自らが道徳的であるだけでなく、人々を道徳的に陶冶する能力をもつべきであろう。プラトンが行き着いたのは、何が道徳的で正しいか、良き生活、良き徳とは何かを知る哲学者こそが統治の任を負うべきであるという結論でした。有名な哲人王の構想です。」と断言されています。私の記事の読者なら、なんらかの違和感を覚えるのではないでしょうか。また、推論がところどころ飛躍しており、雑な印象を受けます。これは、ある種の誤解――結果としてのピンボケという表現の方がいいかもしれない、小さなことです。
 フーコーが注意を向けていたのは『国家』の該当箇所の忠実な反映である『第七書簡』でした(読書ノート12回目参照)。プラトンは、何が正しいかを知っている人と権力を行使する主体の同一性は、現実としてはありえないからスタートしています。つまり、哲人王はありえないからスタートしているということです。だから、端的にそれはプラトンの「結論」じゃないってことです(逆に言えば、プラトンを主語にしなければセーフでした)。
 それから、そもそも論になるんですが、プラトンが〈書かれたものってのは、筆者(プラトン)にとって真剣な関心事じゃないんだよ〉と明言していて――つまり、『国家』や『法律』を哲学の実践としては斥けていること(11回目参照)については、これはおそらくですが、著者は単に知らなかったのでしょう。
 そして、プラトンが民主主義への疑問をもつに至るのは、ソクラテスに関する出来事の衝撃だと著者は書きます。それが一言目「多数者の決定だからといって正しいとは限らない」に繋がっているような文脈なんですが、これもちょっと雑ですね。プラトンが民主制を低く評価する理由はもっと理論的/実践的なもので、簡単に言えば当時の民主制には(イセーゴリアと区別される)パレーシアの場所がなかったからです(もちろん本書のテーマは民主主義ですからパレーシアに注目しないことは一応問題ありません)。問題なのは、「正しいとは限らない」から「哲学者こそが統治の任を負うべきであるという結論」に結びつけてしまうと、プラトンの豊潤なテクストにおけるまさに民主主義が問題にされている様々な部分を軒並み見落とすことになります。
 総じて、本書のテーマに対するプラトンについての言及はピントがズレていると言えるでしょう。

アリストテレスの読解関係

 こちらはプラトンの場合と違って、明確な読解上の間違いです。
 著者は「アリストテレスは、政治的支配について、一人の支配、少数の支配、多数の支配に応じて君主政、貴族政、民主政を区別しましたが、……(より正確には、アリストテレスは、良き多数者支配をポリテイアと呼び……」と書いています。
 もしかすると「より正確には」の部分が誤植で「より不正確には」だったかもしれ……失礼。こういう指摘の仕方は不本意でした。
 読書ノートの19回目に該当しますが、私が割愛した部分が含まれるので、良い機会ですから引用します。「多数派が統治する第三の統治形態について言えば、それに名を与えるのは非常に困難であり、私(アリストテレス)はそれをポリテイアという一般名称で呼ぶことしかできない」(『政治学』第三巻、第七章 1279a-b)。つまり、著者の「良き多数者支配をポリテイアと呼び」という言葉の中で二度間違えています。
 まず、アリストテレスは、名付けることができないから政体ポリテイアと一般名称でしか示せないと言っている。名付けることができないのは、端的にそういうものが存在不可能だからです(その理由は19回目を参照してください)。つぎに、「良き」ものとして示そうとして断念しているということです。確かにここは読解が難しい部分ではあります。(『政治学』の該当部分の)文脈としては、良い君主制を王制と呼び、若干の人々が良い統治をしているのを貴族制と呼び、そして「多数派が統治する第三の統治形態について言えばそれに名を与えるのは非常に困難であり、私はそれをポリテイアという一般名称で呼ぶことしかできない」に続くわけです。つまりこういうことです――アリストテレスが民主制があり得ない(名付けられない)というのは、良い多数派の統治として考えた場合という文脈です。したがって、著者は二度(おそらく90度)間違った結果、アリストテレスのテクストの文意とちょうど正反対のことを書くことになったということです。……ただし、『政治学』のこの一節は、フーコーも「テクストがおそらく完全に確かなものではないために決定的な解決が得られていない有名な一節」と書いているぐらいですから、著者が参照した文献が間違っていたのでしょう、たぶん。
 とはいえ、ここは正直に表現しますが、上記の、いわば些細なことを一旦忘れたとして、良き多数者支配=ポリテイアって、そんな分類ありえないでしょ……王制とか貴族制と並列になるような言葉じゃないです。(なにかの文献を参照したとしても)意味が通らないということは読解が間違っていると判断すべきでした。

さいごに

 さて、書評じゃないので、本書全体については触れません。コメントすべきは記事にした理由だけです。
 このような指摘をした理由は、出版物の間違いを正したいとか、それによるある種の貢献などではありません。そもそもエビデンスが完璧な書物などありゃしません。そうではなくて、例えば、本書に(限らず)書かれていたことを正しい事実と思って他でしゃべると恥ずかしい思いをすることになるよってだけです。
 ほんと、それだけなんですが、まぁ、以下、つらつらと適当に書きますか……
 例えば、誤解や間違いそのものは、一概に悪いわけではないんですよ。アーレントは(大半は意図的に、でもきっと若干は意図せず)マルクスについて誤解や間違った解釈で本を著すのですが、それが彼女の思想を際立たせるものでもあります。ただ、取り上げた誤解や間違いの箇所は、そういういわば建設的な効果を本書、あるいは著者に与えていないと思います。そういうことについては、本来は著者ではなく、編集者が支援すべきなんですが、今はそういう編集者も少なくなっているのかもしれません。
 ちょっと話が逸れますけど、「読書離れ」などといいますが、あれは嘘です。今は本が多すぎます。だから、編集者もいちいち面倒見れないんでしょう。
 そうだ、大事なことが一つありました。このことは言い添えておく必要があります。取り上げた誤解や間違いは、本書にとって些事です。本書の評価には影響しません(影響するようなところを取り上げるなら、私は書評する必要があります)。
 ぶっちゃけ、間違ってもいいんです。しょーもない間違いなら、誰かが指摘すればいいし、解釈に関わる部分ならそれで論争的なことをしてもいい。むしろ恐ろしいのは、そういうことが「無い」ことです。本を出しても、感想文以上の反応がない。時間がないから誰かが「要約」したものしか読まない(聞かない)。そもそもだれも深い関心をもって本に接しない。こうなると、本は、著者の名刺以上の意味を持たなくなります。
 今は本が多すぎると書きましたが、どうなんでしょうね。どのぐらいの本が(単に売れているのではなく)読まれているのでしょうか。そして、そういう意味では、私はもちろん、この本をまだ読んでいません。読むのはこれからです。

追記更新


 本書をある程度しっかり読んで、内容がほとんど理解できず、打ちひしがれた私は、同じ著者の『政治哲学的論考』(2016年)を追加で読んでみました。まぁ、パラ読みなんですが、著者の論旨をおおよそ把握できましたし、本書(では必ずしも明確ではなかった)結論的なものにも納得できました。以下、少しだけ『政治哲学的論考』の感想です。
 トクヴィルについては、さすが専門家ということで、様々な視点からの分析や批判を経た上で、基本的にはトクヴィルを土台にしつつ「政治」や「政治的なるもの」の役割が明示されていて、分かりやすかったです。
 バリバールについて言及があった部分は……ナンシーやランシエールについてもある程度、読解が行われていて、良い意味で驚きでしたが、どうでしょうね。あくまで私の感想ですが、そこで得られた、例えば「境界線の民主化」などの政治的アイデアは、著者の論旨の補完物に留まっていると思います。もちろん、それは悪いことではありません。
 フーコーについては……すごかったですね。文字通り名前が書いてあるだけ。四文字で終了。こういうのは、気迫が感じられて好印象です。
 悪い……というか、気になったのは、政治哲学的に網羅感があるばっかりに、明らかにまともに検討されていない理論だったり、歴史的事実があることですね。これは、結局、本書を読んだときと変わらなかったです。もちろん、民主主義を問うやり方とか切り口は沢山あるので、そもそも網羅しなくていいんです。だから、以下は、あくまで著者の関心に「一読者として」内在した場合に――あるいは内在したからこそ、気になった点です(こっからは本書の感想です)。
 例えば、トクヴィルの結社アソシエーション論について、何度も論じられています。一方で、近年(といってもだいぶ前)のマルクス研究の成果であるマルクスのアソシエーション論(これは柄谷さんも注目したものです)に対して、(管見ながら)目が向けられていないと思います。トクヴィルとマルクスが同時代人だったということには言及があり、さらに著者自身の言葉で「マルクスもトクヴィルも」とも言っているのに、これはすごく不自然な印象を持ちました。
 もう一つ、これはAmazonのレビューで指摘していらっしゃる方がいました。民主主義を語る上で、いわゆる十月革命を完全に無視していることです。それは共産主義という名の全体主義ににつながっただろってことなんでしょうか? その理屈だったらフランス革命も無視していいはずです。さっきの不自然が理論的な不自然だとしたら、こちらは歴史的不自然といったところでしょう。もっとも、著者は「民主主義」について沢山本を書かれておられるので、どっかで扱われているのかもしれません。

 総じて、本書の欠点は(おそらく紙面不足に由来する)、話の本筋に対していらない情報が多く、しかもそのせいで、肝心の話の本筋に論証不足や飛躍が生じている点です。いらない情報といっても、無意味な情報ではないですよ。例えば、アーレントの名前に初めて触れる人(新書がターゲットに想定している読者)にとって、『人間の条件』という本の極めて簡単な説明は、必要だろうという親切心によるものでしょう。ところが、本書において、それは明確に無用です。こういうのが、人の名前が出てくるたんびにあるってことです。ようするに、新書であることと内容がマッチしていないということなんですが、そのミスマッチの責任は編集者(社)にあるということを、強調しておきたいと思います。

[再追記]
 年末から、社会主義についてテキトーに独学しているのですが、本書、あるいは著者の(上記した内容についての)扱いに対して、ある種の直感がありました。私が思うに、くだんの扱いは、意図的なものかもしれないです。著者の(他の本でも確認できる)いわゆる結論/意見は、社会主義のオーソドックスな理想と重なる部分が多い。つまり、社会主義に触れないことによってそちらに近づいていく……。実際の意図はどうあれ、テクストの効果としてそのような方向性を感じたということです。

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