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テラサカトモヒロのネガティブについて

たとえば「腐る」「醜い」等の言葉は「」を連想させるいわゆるネガティブな言葉。

テラサカトモヒロの歌にはこういった「」をイメージさせる言葉があたりまえに出てきます。

今更ですが、自殺を連想させる歌も多いですよね。

ネガティブ

それは彼自身の世界観をわかりやすく表現するものでもあります。

何度もためらい傷を付けては水槽を赤く染めてみたり
無駄なフェンスを越えてアスファルトに飛び出してみたり
春の香りを嗅ぎに蝶が舞い降りた崖の下へ行ってみたり
白いお迎えが来て笑って永遠に目を閉じてみたり

テラサカトモヒロは「絶望」を歌っているのでしょうか。

これだけのネガティブな言葉を使いながら
なぜ彼の歌を聴くと皆が口をそろえて「また頑張ろうと思った」というのだろう。

私自身がそうなのだけれど。
所謂「今時の若者」にはある共通の悩みがある。

孤独

何処に居ても何をしても誰と居ても満たされない。
それはとても漠然としていて、どうしてそんな気持ちになるのかすら気付いていない人も多いだろう。

「誰にも自分は理解されないだろう。」
「誰も本当の自分を知ろうとはしてくれない。」

そんな諦めすらあるのではないだろうか。

自分に向き合うことは必要。
そんなことを言うのは簡単。
だけど、よわっちくて醜い自分を自分自身で認めてしまうことはなんて難しい事なのでしょう。

そんな時彼は云う。

疲れたから何も考えず眠ろう。

そうしてもいいんだよ。
と言われた気持ちになったのは私だけでしょうか。

ただひたすらにまっすぐに。
生きて行けたならそれは素晴らしいことです。
だけど、私達には出来なかった。
それをごまかしていくことで精一杯だった。
嘘と虚勢を曖昧な言葉でごまかすばかり。
そんな自分を愛してくれる人なんてきっといないんだろうって思っていたり。

「突然二番目の指がちぎれたらここからギターの音は消えてゆく この体も愛されなくなるでしょう」

そう思っていたのは私だけではなかったんだなと気付いた言葉。
この人はこの痛みを知っているのかもしれない。
それだけでもなにか救われた気持ちになりました。
共感」それは「孤独」ではない証。

テラサカトモヒロは肯定を否定する。

「醜く輝いて」「異常(サイコ)なる凡人」「針のない時計」などそのタイトルはとても独特なもの。
「無炎の火」つまり「火のない火」などまったくありえない言葉をとても当たり前に使う。
醜く・異常・そして無。これもテラサカトモヒロの歌に多く使われる「負の言葉」の一部。


肯定と否定・光と影・生と死そして希望と絶望。


これは一見して相反するものだけれどそれはめぐりめぐって実は背中合わせだったりしないだろうか。

人は「希望」を持つから「絶望」し、また「絶望」を知っているから「希望」を持つのではないでしょうか。

そしてまた、

生きたい」と思うから「」を意識するのではないだろうか。


「なんて僕らは いずれ死ぬだろう 過ち犯しても 涙あるだろう」


すべてを消し去ってしまいたい。
だけど。
それはとても悲しいこと。
だけど。
そう願ってしまう。


「苦悩の日々が訪れたあなたを見ていたら 心に熱い水が湧き安らぎを与えた」


絶望の中で触れる「裏っ側の温もり」
人は人に触れることでしか癒されることはない。


絶望の先に人はそれぞれの希望を抱く。


負の言葉」の裏っ側に人はそれぞれの違う景色を見る。


それは当たり前にある言葉ではなくその独特な「あり得ない」言葉だから。
今までに見えなかった景色が見えてくる。


テラサカトモヒロの「負の言葉」にはそんな力がある。


弱くて醜い自分を自分自身で愛してやれたら。
それは生きていく強さにもなれるんじゃないでしょうか。


自分自身と向き合うことは出来なくても。
テラサカトモヒロの歌を聴いて。
気付くことは出来るかもしれない。


弱くても醜くても輝ける自分じゃないだろうか。


絶望の裏っ側には希望があるんだと。


そう聞こえているのははたして私だけなのでしょうか。

2003年 非公式ファンサイト 「負け犬が遠吠え」より抜粋

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