下駄を履いている方の性別
……タイトルから男女どちらを想像しただろうか?
個人的には、タイトルの「下駄を履いている方の性別」は女性であり、男性は「下駄を履かなくなってきた方の性別」であるという認識だ。
自分のような意見に対しては、「女性活躍推進は女性に下駄を履かせるということではなく男性が履いていた下駄を脱いでもらうだけ」という趣旨の反論がされているものと承知している。
しかしながら、自分が言いたいのは「男性に下駄を履かせないようにするだけにとどまらず、女性に下駄を履かせるようになっている」ということだ。
(以下、社会進出……とりわけ雇用・労働の関係を中心に述べる)
◆「下駄」とは
「下駄」とは社会的な措置や意思決定における歪みのようなものを言うのであって、単なる先天的な違いや個人の選択の結果によるものなどについては「下駄」とは言わないだろう。
傾向として男性の方が女性よりも体力がある。男性には月経がないから女性よりも体調が比較的安定している。男性は妊娠・出産しないから女性と違いそれらによる直接的な離脱がない。
これらは男性が下駄を履いているということではない。言うならば、これらに関して男性は「身長が高い」のである。
男性に下駄を履かせる例としては、「男性の方が優秀だから」などと(思い込んで)男性を優先して重用する、妊娠・出産しないからというだけで重要な仕事・ポストを男性に任せる、試験で男性に有利になるような男女別定員の設定・点数操作を行うといったことが挙げられる。
(近年話題となった例として、医学部入試差別の件や東京都立高校の男女別定員などがある)
なお、「家事育児を主に女性が担うことが多いため男性は仕事に注力しやすい」というのは、各家庭や個人が自由に選択しているだけ。そのような風潮があっても選択権は女性側にもあり、風潮自体は下駄ではない。「そのような風潮だから男性を優遇する」というのが下駄である。
いわゆる男女の賃金格差も、「『女性というだけで』賃金が下がる、『男性というだけで』賃金が上がる」といったものではない。
採用・登用や仕事の割り振りなどで「男性だから」の優遇があった場合はその段階において下駄を履いていることにはなるが、それは賃金面での下駄ではないし、「かつ、女性が割り振られたがっていた場合」という限定も付く。
同じ組織、同じ業務内容、同じ責任、同じ成果であるならいざ知らず、各個人の意思や選択の結果として差が生じること自体には何の問題もない。
「同一労働同一賃金」に反対する人はおそらくほぼいないだろう。「同一賃金」が欲しければ「同一労働」をしろ、これに尽きる。
そもそも、女性の賃金が不当に抑え込まれているのなら、女性は男性よりも低い賃金で同等以上の働きをしてくれるということになる。
そんなコスパのいい人材を利にさとい企業が放っておくのは考えづらく、数値目標を立てるまでもなく女性は引く手数多となっているはずだ。もしそうなっていないのだとしたら……つまりはそういうことだ。
◆「下駄を脱ぐ」ということ
「男性だから、女性だから」ということによる社会的な措置や意思決定における歪みのようなものをなくすこと。これが「下駄を脱いでもらう」ということだろう。
「男性が履いていた下駄を脱いでもらうだけ」というのなら、「男性だから」の優遇(又は「女性だから」の冷遇)をやめるだけになるはず。「女性だから」の優遇(又は「男性だから」の冷遇)は正当化されない。
ある性別の社会進出を国家ぐるみで支援すること、ある性別の比率を上げるために様々な措置を取ること。これが「下駄を履かせる」でなくて何なのか。
例えば女性活躍推進法関連。これほど分かりやすく大きな下駄もそうそうない。
下駄を履かなくても男性の方が身長が高いから、今度は女性に下駄を履かせて同じ(かそれ以上の)高さまで引き上げようとしている……現在「男女平等」の名の下に行われているのが「それ」だという認識は共有しておきたいところ。
「不平等を解消するための措置だから下駄ではない」というのも不適切で、不平等の解消のために下駄を履かせていると言うべきだろう(それが「不平等の解消」なのかは議論の余地あり)。
それに、「男性が履いていた下駄を脱いでもらう」のであれば、下駄を履いていた比較的上の世代の男性が実際の能力などで評価し直されて降格したり同世代の能力が高い女性と入れ替わったりするのかと思いきや、実際に行われているのはこれからキャリアを積む若者世代を中心としての帳尻合わせである。
そのため、ある意味で男性は下駄を脱いでいないとさえ言える。新たに履かなくなってきただけだ。
(冒頭で男性を「履いていた」でも「脱いだ」でもなく「履かなくなってきた」方の性別としたのはこのため)
◆男女平等
現在行われているような、これまでの男尊女卑をこれからの女尊男卑で埋め合わせて「男女平等」としているような状態は、若者世代にとってはただの女尊男卑でしかない。
さらにその埋め合わせとしての将来的な男尊女卑か、埋め合わされず永続的な女尊男卑か。どこかで男女平等に切り替えない限り常に歪んだ状態であり続ける。
自分は今の「男女平等」には反対だ。なぜなら、男女平等を望むから。
どのような状態が男女平等かについては様々な意見があることと思う。完全なる自然状態でというのが男女平等かもしれないし、結果として全く差が生じないのが男女平等かもしれない。
自分としては、男女平等のためには「男性だから」の優遇もなければ「女性だから」の優遇もない状態、男女共に下駄を履かないのが望ましいと考えている。
傾向としての男女の「身長差」については
① 予断を排する
② 性差から個人差に落とし込む
によって平等が担保されるのではないかと。
例えば、女性の生理の重さとそれによる成果への影響は把握しかねるので評価時の判断には加えない、将来的な妊娠・出産による離脱も知りようがないので同様。一般的に女性は体力面で男性より劣っているとしても、「その女性」もそうかは体力テストでもしない限り分からないしそれによる成果への影響も不明なため、やはり評価時の判断には加えない。
ただし、生理が重かったり体力がもたなかったりで成果を出せないのならそれ相応の評価になる。妊娠・出産で一時的に離脱した場合、マイナス評価やキャリア断絶にはならずとも他の人よりも高い評価には当然ならない。(※)
管理職への登用などについては、偏見に基づく「男性だから」も女性比率要員としての「女性だから」もなくす。性別に関係なく能力や実績、本人の意向などを踏まえ決めていく(さすがに全て意向通りとはいかないだろうが)。
このように、下駄を履かせずに個人の意思や選択、能力や成果次第で差が付いていくイメージ。これが「平等」ということだろう。
(「身長差」によりカタログスペック通りの出力とならない潜在的なリスクは女性の方が高く、それを捨象しているという意味で①②は下駄だという考えもあるかもしれないが)
(※)妊娠・出産関連だけは妥協して下駄を履かせる余地があるかもしれない。子をもうけたいとなった時に女性だけ強制的に稼働停止が伴うことについては「個人差」に落とし込めない。
なお、育児関連は各家庭でどのような体制で担うか選択するだけなので、特定の性別への下駄という文脈ではないものと認識している。
◆平等と公平
「個人の意思や選択、能力や成果次第で差が付いていく」ということに関して、「体力差・月経・妊娠・出産などがあり、前提条件的に女性の方が不利で不公平ではないか」という意見があるかもしれない。
しかし、だからといってそこで女性に下駄を履かせるのがよいかというと疑問がある。
親の顔よりよく見かけるこの手のイラストと違い、社会進出などにおいてはより高い位置にはより多くの果実があり(果実だけではないが)、あるラインをみんなで超えていればそれでヨシというものでもない。また、最低賃金や生活保護などにより、何ならその「あるライン」は既に超えている状態とも言える。
さらに、台の高さはどれくらいが適切かなんて分からないし、それこそ「個人差」もある。女性に一律に適用しようものなら誰かは必ず他よりも高い位置に着くことになり、男女間の「平等」はもちろん「公平」も達成できない。
唯一「公平」を達成し得るのは男女も成果も何も考慮せず必ず同じ待遇にする場合だが、このような「成果の面で下駄を履かせる」仕組みはこれはこれで問題があると個人的には考えている。
まず、単純に自分の良心として、性差があることにより生じたものだとしても成果の面で下駄を履かせるのはさすがに不当ではというのがある。
そして何より、実際の成果の割に名目上の評価や給与(コスト)が高いとなると、それこそ女性よりも男性を優先することに正当性が生まれてしまう。その正当性を「男女平等」の名の下に制度で押さえつけるというのはいくらなんでも社会構造として歪みすぎだろう。
(前提条件的に女性の方が不利という想定問から出発しているため、女性の方が成果面で劣るという仮定を置いている)
ところが、成果面での下駄に限らず、少なくとも採用や管理職登用におけるアファーマティブアクション(積極的格差是正措置)がそのような社会構造の歪みを生むのは避けられないと思われる。
「女性だから」の採用・登用をするということは、必然的に性別不問のそれよりも能力的に劣る者も採用・登用することとなり、完全な成果報酬でもない限り、基本的に実際の成果の割にコストが高く付いてしまう。やはり女性よりも男性を優先することに正当性が生まれてしまうのだ。
しかしそれでも「女性だから」の採用・登用は続いていく。制度化されているため市場原理が十分に機能せず、かつての男尊女卑よりも尚更タチが悪いのではないか。
◆最後に
このように、「下駄を履かせる」ことには「下駄を履かせなかった方に下駄を履かせる正当性を生む」という側面がある。
リアルタイムに双方の下駄の調整を行うのなら均衡を望めるかもしれないが、時間差で男尊女卑と女尊男卑を繰り返す(酷ければ片方で止まる)くらいなら最初から男女平等にどちらにも下駄を履かせなければよい。それが自分の結論だ。
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