愛の正体 その本質とは
愛が真理とか、宇宙は愛だとか。愛が全てなんだとか、こういう表現や主張はテレビやらドラマやらでやたらと出てくる。
というか、我々はこういった“教え”を物心ついた時からずーっと、ほぼ洗脳に近い感じで刷り込まれているとすら感じる。
「人は愛さなければいけない」
果たしてそれは本当か?
人を愛せ・・・隣人を愛せ・・・
みたいな考え方って西洋寄りの考え方だと思うのだが、極東の日本でもそういう教えがやたらと叫ばれるのは何故なんだ?
そして、「愛」と一言で言っても、その愛にも色々な形がある。
例えば、家族愛
これは比較的新しい愛の形で、基本的には
「性=愛=生殖」との結びつきが強い。
人類愛
全人類に対する愛のこと。血縁関係や民族や人種などで人を差別しないという愛である。
これは最近、LGBTとかで結構話題と言うか、これを叫ぶ勢力が拡大している感じだ。
最後に、自己愛
人間にとって最も根源的な愛であり、自分自身を支える基本的な力となる。
自己愛が強い人は、何故かよく批判の的になるというのが世の常だ。
「出る杭は打たれる」という言葉があるように、自己愛が弱い人からすれば、自己愛が強い人というのは嫉妬の対象になりやすいのかもしれない。
ところで、こうやって見ると色々な愛の定義があるわけだが・・・
この中で俺が一番重きを置いているのは間違いなく、自己愛だろうね。
ていうか、それ以外の愛は俺には色々と重すぎる。
おそらく、俺とその他の人たちでは、愛に対する認識にギャップがある。
俺からすれば愛ってのは、他人にそうやすやすと与えたり受け取ったりするようなもんじゃ無いと思うんだ。
本来、愛ってのは自らの自己愛さえ満たされていれば十分なはずなんだ。他人に何かを求めるというのは即ち、期待してるということだ。そもそも、そういう期待こそが自分自身の心を窮屈にさせる元凶なんだよ。
ここだけの話、俺も一時期はキリスト教に心酔してる時期があった。スピリチュアルにハマりまくって、心の底から綺麗事をほざいてる時期もあった。
だが、今となっては見る影もない。何故、あのとき俺はあんなことを考えていたのだろうかさえ思い出せないのだ。
こういうのも今の俺からすれば以ての外だ。
俺は自分を迫害すような相手を心から愛せるほどお人好しではない。
結局、世の中で声高々に言われるような他人軸の愛はおそらく、真理とは遠いのだろう。
より、真理に近い愛の解釈としては
仏教における愛と慈悲の概念がそれにあたる
愛
tRSNaa (トリシュナー)
俺の考える愛の正体は、この説明にある「水を飲まないではいられないというような衝動」というのにかなり近いが、少し違う。
俺の結論としては、『愛』の正体は“血”だ。
愛とは他のどの感情とも異質で、一言で表すなら・・・「非物質的な血」としか言いようがない。
物質的な血は自分以外の何かを糧にしてはじめて生み出されるものだ。
喜怒哀楽などの感情も対象があってこそ、初めて存在できる。
しかし、非物質的な血。即ち愛は何も無いところから自分ひとりで生み出すことができる。
「自己愛」が欠片もない人間なんていないだろう。どんなに絶望した人間だって、極限状態で他のどんな感情が消え失せたって、自己愛だけはどんなに微量でも最後まで残る。
何故なら、自己愛が一滴も無くなった人間はみんな自ら命を断つからだ。
何故“血”という表現を使ったのかというとそれは、他人の血と他人から得る愛はどちらも猛毒だからだ。
他人の血(愛)を自分に入れるという行為は、それだけで自分自身を蝕む行為。
愛という血液が枯渇すると人は猛烈に乾きを覚える。しかし、それを他人から得ようとした瞬間、愛は猛毒になる。
結局、血液型が一致すれども自分の血液と他人の血液は別物だ。それと同じで、他人から得た愛で補った渇きは、その時、その瞬間は渇きが潤ったように錯覚はすれども、すぐにまた渇く。
そして、他人から愛を吸い取ってばかりでは、いずれ自分で自分の愛を満たす方法すら忘れてしまうだろう。
そうなると、自分だけではもう作り出すことができない。やがて「もっともっと」と依存し中毒になる。
愛ってのは、受け取るべきではない。与えるべきではないのだ・・・きっと。
何にも期待などせず、ただただこの世を個として俯瞰する。これが人間の本質。
寂しい考え方だと思われるかもしれないが
しかし、本当に愛すべき存在はいつだって自分自身だ。
これこそが究極の自己愛である。
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