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学校では教えてくれない命の価値について

命の価値に差はあるか?
そもそも命なんてどこにあるというのか?熱をもって動いているのが命か?

ならばそこらへんに生えてる木は?命ではないのか?

そこらへんに転がっている石ころは?

機械は?

「人間や動物は命があるけど機械にはない」
なぜそう言えるのだろうか?
人間は骨や内臓。
機械はパーツや部品で組み立てられ、動いている。

人間で言うところの怪我や病気は機械で言うところの故障。それだけの違いではないか。

命があるものと命がないものの境界線なんて
誰も説明することなどできないのだ。

ならば存在しないものに価値などつけられるのだろうか?

動物は自然に作られ、自然を成り立たせることが存在価値
機械は人間に作られ、人間の役に立つことが存在価値

では、自然を破壊し蝕む人間はいったい何に作られ
何のために存在している?

ニートと高所得者を並べてどちらがより価値のある命か?
と問われれば、高所得者の命の方が価値が高い多くの人は言うだろう
なぜか?と問えばこう言うだろう
「後者のほうが社会に貢献しているから」と。

では、年金暮らしをするあなたの祖父や祖母と高所得の他人
いったいどちらが命の価値が高いか?
これは、よほど祖父や祖母との関係性が悪くなければ前者の方が命の価値が高いと答えるのではないだろうか。

人間と犬ではどちらがより命の価値が高いか?と問われれば
「人間の方が価値が高い」と答えるのが人間として当然だろう。

しかし、見ず知らずの他人である人間と家族として生活を共にするペットの犬では犬の方が価値が高くなる。

このように、命の価値なんてものはそれを判断する個人の主観の中にしかない曖昧な概念なのだ。だから状況や関係性によっていくらでも逆転し得る。

「命」なんてものは本来どこにもなくそれを受け取る側が命だと思ったものが命なのだ。

そう「俺がそう思ったからそうなんだ!」という極めて自己中心的で傲慢な概念なのである。

では何故人間にはこのような自己中心的な概念が必要だったのか?
それは人間を含め全ての存在は取捨選択をしなければならないからである。

しかし、とりわけ人間はその他の存在よりも知能が高く余計なことを考える。そのせいで自分のために何かを捨てることに罪悪感を覚える。

だから自分が切り捨てた存在を自分よりも価値が低いと決めつけることで罪悪感を誤魔化すために「命」という概念が必要だったのだ。

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