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あるものはある。

私にとって、”成長する”ということは「問題(issue)を一つずつ手放していくこと」で、つまりは「自由を獲得していくこと」だ。私は4年ぐらい前(2016年)にこのように思った。
そして2020年の今、私は成長できたか?問題を手放していくことができたか?自由を獲得してこれたか?と考えかけて、「まだ私には達成できたかどうかを考える癖があるのか!」とうんざりした。

私には「問題に取り組む」という偏屈な癖があった。高校の幾何学の問題等、それを解くことが楽しいものならその問題に取り組むことは建設的だと思うけれど、当時の私が終始大切に抱えていた”問題”は私の手に余るもので、取り組んでもどうしようもないものだった。しかしながら、私は「問題を解決することが私の責任だ」と生真面目にその問題に取り組み続けた。

だけど、そこにあった私の生真面目さは「物心ついてからずっと抱えてきたこの問題を手放す」なんてことをするのが怖くて、怖くて仕方がなくて、にっちもさっちも身動きがとれなくなっていた、ということでもあった。私が幾年もどうしようもない問題を解決できないまま抱えていたところ、"問題”の方が私を解決してくれた。病気と怪我とかいう形で。

そこにまた「いつまでも解決できない問題を終始抱えているからそんなことになる」だとか、「問題を手放さなかった代償がきた」なんてしつこく言ってくる声が私の中に湧いて出てきた。
ああ、もう、そんなの、うんざりだ。こんなのは、そもそも身動きが取れないところへ水攻めにされるような具合で、怖いし、やってられない。何が怖くてやってられないのか、というと、そんな私の世界観が怖くてやっていられないのだ。

そもそもの私の抱えていた問題(issue)とは、「よりよい自分になるためにどうすればいいか」というもので、「そのために全力を尽くす!」という意気込みがあり、「よりよい自分」の具体的定義があって、そこへ到達するまでの細かな目標設定すらあった。しかしながら、その前提は「こんな愚図でのろまな私では(存在していては)いけない」「(こんな)私には存在してよい居場所はない」というもの。
つまり、私は「ありのままのあなたには生きる価値はない。」という世界の中にいて、それって、そのままのチキンではなぜだかダメで、ホルモンを添加され続けて四つ足に改良されて、身動きのできない囲いの中にいさされて、病気になると殺されてしまう、バッテリーファームのチキンと同じだ。

病気になったり、怪我をしたりってのは、体が「こんなのいやだ!」と言っているのであって、要するに「自分を大切にしてください」と言っているのだ。病気や怪我は、私にとって健康の一環だ。私には、病気になる健康さ、怪我をする健康さがある。

私がどんなに「社会に対して忠誠を!」とか「せめて人から認められるような私に!人の役に立つ人間になる!」とかを自ら言い含め続けても、私の肉体は「嫌なものは嫌」「私は私」「好きなものは好き」としか言わない。そして、その声を無視し続けると「ないものはない」「あるものはある」ということを、身体明確に見せてくる。
私の身体は、かように健康なのだった。

「よりよい私」なんて、この世のどこにも存在しない。どんなに追い求めても、そんなものはない。ないものはない。そのままの「ただの私」は、どんなに否定しようが装飾したり武装たりしても、存在し続ける。あるものはある。私は、私として、私を生きる他ない。ないものを追い求めたり、あるものを否定してみたりと、変てこなことに夢中になったり、病気になったり怪我をしたりする。
この世に存在する唯一無二の“私“というバランスを、他の誰でもない自分自身として慈しみ楽しみ、今日も生きる。

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