見出し画像

【まちづくり】長崎さるく・オランダ坂【観光】

「さるく」とは長崎弁で歩き回るという意味です。

トップ写真は長崎市大浦地区の高さ20㎝くらいの何の変哲もない石碑。

大浦地区の生活道を歩き回ると、このような石碑があちらこちらで見かけます。これは外国人居留地との境を示す立派な歴史遺構なんです。

今から15年前、2006年に長崎市では長崎さるく博という地方博覧会があっていました。

現在も世の中がこのような状況で観光産業が大変厳しいのですが、15年前も観光客が年々減少しその立て直しが議論されていたそうです。

当時長崎市職員だった田上富久市長は、町の人たちと話し合いを重ね、上記のさるく博を企画しました。

経済が厳しい中で、ものをつくらずに人を呼ぶにはどうしたらよいか、その議論の末に生まれたのが長崎さるくなのです。

画像1

写真はみなとメディカルセンター前にある石碑。長崎市には日本初のものがたくさんあり、長崎市を歩けばこのような石碑を頻繁に見かけます。

長崎県民,長崎市民にとっては当たり前すぎて気付かないけれど、歴史的に価値が高いものが、そこら中にあることに目を付けました(石碑はもちろん後から整備して立てていますが)。


大浦海岸通を一本中にはいると、あの有名な坂が見えてきます。

画像3

そう、オランダ坂です。

あまりに普通の石畳の坂なので、ネットではがっかり名所なんて揶揄されていたりしますが、まちに溶け込むその普通さが私は好きです。


オランダ坂と呼ばれるこの坂、別にオランダ人が長崎のために作ったわけでも、オランダから運んだ石で作られているわけでもありません。

江戸時代、全国で唯一外国との窓口であった長崎。そして開国後、外国人居留地が作られた長崎は、日本における西洋との窓口でした。

長崎の町の人々はそのため、西洋人のことをオランダさんと呼んでおり、西洋人が行き交ったこの坂をオランダ坂と呼ぶようになったのです。

オランダ坂を登ると東山手十二番館をはじめ、たくさんの洋館があります。

画像5

画像6

これらの洋館は現在も修復保存されながら、建物として現役で活躍しています。

画像7


オランダ坂がある東山手地区には、活水女子大学や海星学園などミッションスクールがあります。

画像8

移転した学校もありますが、外国人宣教師が起こしたこれらの学校では、現在も多くの子どもたちが学んでいます。

日本に初めてできた私学の学校では、日本人だけでなく様々な国籍の子どもたちが学んでいたそうです。


オランダ坂は東山手から南山手へとつながります。

南山手には世界遺産大浦天主堂があります。

アスファルトやコンクリートの舗装がない時代、日本人も神社やお寺の参道に石段を築いてきたように、教会という神聖な場所へ泥を持ち込まないよう丁寧に石が敷き詰められたのではないでしょうか。


読書記録の記事でも書きましたが、長崎市はまちづくりとして、このような歴史的なものをアイデンティティーとして残しています。

あまりに日常的な風景なのでわかりづらくなっているものもありますが、レンガの壁一つとっても、そこに歴史があります。

まちは生き物なので、新しい何かが生まれるとき残念ながら失われたものもあるでしょう。

子どもたちや未来に町の何を残すのか、最近自分が、受け継ぎつなげる時期にあると感じています。


今年長崎は開港450年を迎えます。

画像2

全国初のキリシタン大名大村純忠が、1571年に港を開いてから450年の節目の年になります。

イベントの開催は不透明なところがありますが、記事を読んで興味をもった方がいらっしゃれば、どうぞ長崎を訪れてください。

長崎の日常の景色の中に、つくり物ではない本物の歴史があります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?