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初めましてのnote


新年。noteを始めます。自己紹介がてら自分が仕事として関心を持ってやっていることの紹介(経緯も含めて)をします。書いてみたら8年分の振り返りになったので長いけれど読んでくれる人がいたら嬉しい。

就職活動(2011年8月〜2012年2月・大学3年生)

大学3年生。私は周りの子達と同様に就職活動をしていた。インターンシップにも参加したし、12月1日に就活サイトが解禁されたら一斉に登録、合同説明会にも何度も足を運んで、(周りより少ないけど)複数の会社に履歴書を送った。やりたいことなんてなかった。北海道が好きだったから、北海道から出るつもりもなかった。北海道に根ざした企業で働ければいいなーと漠然と思ったり、後付けのような理由でコロコロと移り変わる「〜〜に携わりたい」というそれっぽいことをそれっぽく話していた。

教育NPOへの参加(2012年3月〜2012年7月・大学3〜4年生)

そんな中、ある教育NPOのボランティアにひょんなことから参加することになった。それは、高校生に大学生が対話型の授業をしに行くというプログラムだった。何度か参加するうちに、過去の自分と似た境遇の高校生と出会った。私は高校時代に両親が離婚し、いわゆるひとり親家庭となった。元々の性格にそういう家庭環境の変化も相まって、自分の本音は誰にも打ち明けることなく高校生活を送っていた。当時は「こんな境遇に置かれているのは自分だけだ」という狭い視野でしかなかったけれど、いざ実際に大学生の立場で高校現場を覗いてみると、表面上は楽しそうにしている子達の中に過去の私みたいな子がいることがわかった。そういった出会いを経て、「そんな子達のために何かできたら」と考えるようになった。だけど、何をどうすればその道に携われるのかもわからず、自分の”やりたい”という思いに対しても向き合えずにいた。そうやってうだうだと悩んでいるある時、たまたま大学の先輩と話す機会があった。その先輩は真剣に私の話を聞き、「そういう経験をしたお前だからこそできることがあると思うよ」と言ってくれた。先輩が真剣に聞いてくれたことも、先輩から言葉をもらったこともとても嬉しかった。その言葉が今の道に進む大きなきっかけになったことは間違いない。

道が定まる(2012年8月〜9月・大学4年生)

前述したNPOの活動には継続的に参加していた。出前授業の中には対話をするスタッフの他に、自分の過去の経験を高校生に発表するスタッフもいた。数回活動に参加した後、そのスタッフをやることになった。何の話をしようか悩んだけれど、わたしは自分の家族の話をすることにした。高校時代の出来事、そして将来やりたいと思っていること、先輩からかけてもらった言葉。自分の孤独感も、葛藤も、嬉しさも、全部等身大の気持ちを伝えた。初めて高校生に披露した時、たくさんの子が聞いてくれて、学校の先生からも「ドンピシャな子がいましたよ」というフィードバックをもらった。自分の何の価値もないと思っていた経験が誰かのためになるんだということを実感して、この道に進む確信を得た。

進路の葛藤(2012年10月〜2013年3月・大学4年生)

「しんどい家庭環境の子に何かしたい」という気持ちは強くなっていったけど、一体何をすればいいのかはわからなかった。このまま就職するのは不安だったし、わからないことだらけだから勉強がしたいと思ったので、大学卒業後には進学をしようと思った。四年制大学を卒業した後の進学は大学院が妥当だろうとは思ったが、私のしたいことは大学院でできるのかという疑問にぶち当たった。大学院は研究をする場所であり、自分の行くべき場所は大学院ではないような気がしていた。でも体裁を保つため周りにはひとまず「大学院進学を目指す」と話していた。

進路決定(2013年4月〜2014年3月・フリーター)

この頃になってやりたいことは「若者」「教育」「家庭」「福祉」この辺りまで絞れていた。専門書をいろいろ読んでいくうちに辿り着いたのはSSWという仕事だった。これなら私のやりたいことがやれるかもしれない、そう思った。そのために基礎的なことを学びたいという気持ちがますます強くなっていった。それを友人に相談したら「本当にやりたいことへの最短距離を目指しなよ」という言葉をもらった。その言葉で決心がついた。教育のことも福祉のことも学べる地元の教育学部に三年時編入で入学して二年間学ぶ、その後児童福祉の現場で働く、そして経験を積んだ後社会福祉士の資格を取って、SSWを目指す。それが私の定めた最短距離だった。

大学編入(2014年4月〜2016年3月・編入生)

試験は無事に合格することができて、編入生活は本当に楽しかった。自分のしたい勉強ができる幸せ。知的好奇心が満たされていく感じがたまらなく良かった。所属ゼミの先生も厳しいけど愛があって、その先生の元で学べてとても勉強になった。自立援助ホームでボランティアをさせてもらう機会も得たし、他県の児童養護施設でも実習をした。限られた時間だったけど現場で子供と関わることは刺激になった。卒論は自立援助ホームで感じたことを元にインタビュー調査をすることにした。複数の施設長の方々にインタビューをさせてもらう中で現場の思いをひしひしと感じて、最前前にいるその人たちをすごくかっこいいと思ったと同時に、現場の思いを伝えるために卒論を書くのだと身が引き締まる気持ちになった。驕らず等身大の言葉で書くことを大事にしたら「素直に書いている」と先生に評価してもらえてとても嬉しかった。「いい卒論だったから働きながらもまた論文を書きなさい」というありがたい言葉ももらって、いつかできたらなあと今も思っている。卒業後は実習に行った施設にそのまま就職をすることにした。施設といいながら家庭に近い形で子供と関われることができる場所で、それがとても魅力的だった。住み込みなのでハードな勤務形態ではあると思っていたが、その分深く関係を作れると思っていた。

児童養護施設へ入職と転職(2016年4月〜2018年12月・社会人)

児童養護施設で働くことは想像以上にしんどい日々だった。職員同士で連携が取れないという子供と関わる以前の問題、自分がやる意味があるのだろうかという葛藤、信頼できる人がおらず自分ばかりがやっているという孤独感、自分のプライベートを蔑ろにして子供と関わるストレス。何度も辞めたいと思ったし、実際に転職しようとも思った。だけど、三年目の途中から自分がどうありたいかが掴めるようになり、そしたら子供と関わることも自然と楽しめるようになった。職場の研修に参加させてもらえたことも大きな転機で、自分が子供へ働きかけることは無意味なことじゃないと実感できた。また、年数を重ねるごとに子供との関係も深まっていることも実感して、やりがいを感じるようになっていった。それでも、ずっとは続けようとは思えなかった。もともと何年か勤めたら辞めるつもりでいたので、冷たいようだけれど私にとっては養護施設での経験はステップの一つだった。現に施設という狭い空間で限られた子供とだけ関わっていると、もっと広いフィールドに飛び出したい気持ちや、もっとたくさんの人たちと関わりたいという気持ちが日増しに強くなっていった。もちろん、ここまで関わった子達を見捨てるような気持ちにもなり、葛藤もあった。だけど、そんなタイミングで北海道で大きな地震が起きて、またそれと同時期に祖父が倒れるという家族の変化もあった。地元が、北海道が大事だと実感したし、家族のことをもっとちゃんとしなければと思った。仕事を辞めて北海道へ帰ろうという気持ちの後押しになった。

一旦、立ち止まる(2019年1月〜2019年7月・社会人)

このタイミングで自分のことをいろいろと振り返ってみた。児童福祉の道を歩み始めて6年が経っていた。昔先輩に言われた「お前だからできることがある」という言葉をただひたすら信じて突っ走っていたら、あっという間の6年だった。本当に自分にできることはあるのだろうか。現場経験は得たけれどそこからいったい何ができるのだろうか。いろいろ調べてSSWという道は険しいことはすでに知っていた。社会福祉士の資格を取るために通信に通うつもりで昔はいたけど、本当に仕事と両立できるのだろうか。そもそも、私はなぜこの道に進んだのだろう。結局、自分の自己有用感を満たすためなんじゃないのか。そんな不純な気持ちでいいのか。もっと別のことに自分の人生の時間を使うべきじゃないのか。いろんなことがぐるぐると頭に浮かんでいた。

新しい道?(2019年8月〜2020年1月・社会人)

いろいろと考えているタイミングで、大学時代お世話になったNPOの職員の方からある仕事を紹介してもらった。北海道の小さな町で学校教育に携わる仕事だった。ぐるぐると悩んだけれど、学校の仕事に携われることはとても魅力的だった。三年間という任期付きだったし、福祉を離れて別のキャリアを一旦積むこともありなんじゃないかと思い、やりたいと返事をすることにした。そしてトントン拍子でその町の教育長の方と面談をすることになった。当初聞いていた業務内容は「学校にいる困り感を抱える子供のサポート」。大抵こういう困り感というのは障害を指すことが多いので、そういった子のケアなのかなとイメージしていた。しかし、いざ蓋を開けてみると、困り感というのは家庭の不調から来ていて、そういった子供に寄り添って欲しいということだった。また、ひとり親家庭も多い町であるため、町が抱える家庭支援センターにも顔を出してサポートをして欲しいという話ももらった。なんだか結局こういう話が舞い込んでくるし、きっとこのことから抜け出せないのだなあと思った。もうここまで来たらグジグジ言ってないで腹をくくってやろうと思えた。任された仕事は、学校と地域の中に入り込んで子供と家庭のケアをすることで、結局それはSSWに近しいことなのではないか。そう考えたら、当初思っていた最短距離とはちょっと違うけど、描いた道をちゃんと辿っていると思えた。そして、実はこの町というのは、NPOの活動で自分の家族の話を初めて披露した高校がある町だった。学校の先生からもらった「ドンピシャな子がいましたよ」という言葉はずっと自分の中にお守りのようにあったし、自分のきっかけとなった場所だった。ここでこの仕事がやれることは、縁だと思った。

おわりに

子供と家庭のことを考え始めて今年で8年目になる。ここまで継続して何かをしたことって他にはないくらい、気づけばそれだけ時間が経っていた。だけど、それだけ経っても8年前に先輩からもらった言葉の「お前だからできることがある」の「できること」がなんなのかまだ答えは見つかっていないし、見つかるかもわからない。きっと一生探しながらいるんじゃないかってそんな気もしている。だから私は、目の前のことに愚直に、自分に縁のある所で、やれることを精一杯やっていくのみだなって今はそう考えている。4月から新しい生活が待っている。何が起こるのか、楽しみだ。

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