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戦没者慰霊と戦争礼賛

はじめに

今回は非常に政治思想が強めの内容になっております。これ以上はきついかもという方ははここで引き返してください。靖国神社が戦争を礼賛している施設とメディアで取り上げられることがしばしばあります。しかし、こういった言説は靖国神社に行ったことがない人か行っていたとしてそういうことを言う前提でいる人のどちらかです。靖国神社へ何回か行ったことがありますが、どう考えても、戦争を礼賛したり、否定したりしている場所とは思えません。非常で厳かで穏やかな場所です。今回は靖国神社のような戦没者を慰霊する施設を通して、日本人が忘れつつある先人への尊敬の念について書いていきたいと思います。

戦没者慰霊は戦争を礼賛している?

戦没者を慰霊することと戦争を礼賛することが同じであるように取り上げられますが、全く別ものです。戦没者を慰霊することは今の日本があることに感謝をすることです。戦争礼賛は戦争が自体を賛美することで、戦われた人への慰霊の気持ちとは関係がありません。戦争こそがすべてを解決し、戦争こそが尊いと考えるようなことが戦争礼賛であり、そこに戦死された方への敬意もありません。むしろ、戦争を礼賛する人は戦没者のことを考えていないと思います。戦没者への慰霊は今の日本があることへの感謝であり、我々が彼らに思いを伝える数少ない方法です。
日本全国にある戦争に関する施設のすべてに行ってはいませんが、靖国神社、知覧特攻平和会館、広島平和記念資料館、真田山陸軍墓地の4か所を行って思ったことはどこも戦争を礼賛している施設ではないということです。特に靖国神社にある遊就館や知覧特攻平和会館は戦争を礼賛しているとなんてもってのほかです。一度行ったことがある人であれば、戦争の悲惨さを語っている施設であると思われるはずです。どこも涙を流さずにいられるません。これらの施設が戦争を礼賛していると言うのであれば、一度そこへ行き、その目で確かめるべきです。どこをどう切り取っても、戦争が素晴らしいと言っているところはありません。
靖国神社は明治時代に明治天皇の命が明治維新の動乱で国に命を捧げた人を祀るための神社の創建を命じましたのが靖国神社の始まりです。当初は招魂社と呼ばれていましたが、「国を靖んずる」という意味を込めて、靖国神社に改称され、現在に至ります。靖国神社では戊辰戦争、西南戦争、日清・日露戦争、第一次、第二次世界大戦で戦われた方が祀られています。靖国神社では軍人さんだけでなく、従軍看護師や軍需工場で働いていた方やシベリア抑留などで亡くなった方も祀られています。国のために命を捧げられた方、全員が靖国神社で祀られています。
よく韓国の人が、先祖が靖国に祀られていてその魂を返してほしいと言うことがあります。日本の文化上、彼らの魂をそこから抜くことはできませんし、何よりそこにお骨が埋まっているわけではありませんので、そういった発言をされるのであれば、もう少し神社への理解を深めるべきです。そうでないと的外れな議論にしかなりません。実はこのことが日本領時代の韓国人が差別されていないことの証明になります。もしその当時の韓国人や台湾人が差別されているのであれば、日本のために命を捧げた人をまつる神社に祀られるわけがありません。神社で祀られるということは神様として崇められており、差別されているような人たちをわざわざ神様として崇めるでしょうか?むしろ、日本人であれ、韓国人であれ、台湾人であれ、分け隔てなく神様として祀られていることから、敬意をもって接すべき相手であることが見て取れます。
靖国神社への参拝で問題になるのは東条英機元首相を含むA級戦犯が合祀されていることで、彼らは東京裁判で戦争責任を取らされ、死刑になっています。彼らは侵略戦争進めた張本人であり、そういった人たちを祀っている靖国神社へ国のトップが参拝すべきでないとよく言われます。確かに松岡洋右が靖国神社で祀られるようになってから、昭和天皇がお参りされなくなりました。昭和天皇は国のために命を捧げた人たちに対して、国を代表する天皇がお参りしないのはおかしいと考えておられ、お参りされていたそうです。しかし、松岡洋右の合祀については疑問を持っておられたようで彼らが合祀されたからは昭和天皇の信念に基づきお参りされなくなったそうです。さらに輪をかけるように、政治家が靖国神社へ参拝することに対して韓国や中国が騒ぐようになりました。その頃から靖国神社は戦争を礼賛していると言われるようになりました。
しかし、それは余計なお世話で国のために命を捧げた先人に敬意を表すために政治家がお参りすることに他国が口出しすべきではありませんし、これは内政干渉と言えるでしょう。国民から選ばれた政治家は日本を守るために存在し、その日本を守るために命を捧げた先人に政治家が敬意を表すために靖国神社へ参拝することが戦争礼賛に繋がるのでしょうか?国民を代表する存在が、彼らへの敬意を表することで、志半ばで人生を終えた彼らの気持ちが報われるはずです。彼らへ敬意を払うことは真っ当な政治家や真っ当な日本人であるならば、必ずすべきことです。彼らのようなごろつきの意見に耳を傾けず、国民の代表として靖国神社へ参拝することは日本人のあるべき姿です。今の暮らしがあるのは彼らが日本のために戦ってくださったおかげです。

先人を敬う気持ちをいつから忘れた

日本は先人への敬意を払う文化を持っている国であり、同様の文化を持っている国と比べても日本はさらに飛びぬけているように思います。欧米でも日本同様、お墓や教会は存在しますが、日本ほど至る所に神社のような宗教施設のある国は珍しいです。日本では大きな寺院や教会は宗教施設と思われることが多いですが、神社や小さなお寺は宗教施設というより町の憩いの場や公民館のよう施設と捉えられることがあります。つまり、日本は常に先人への敬意を忘れることなく生活をしていると言えます。
日本の神社のように人も神様になることができると考える宗教観を持っている国は珍しく、他の宗教では神の下に人間がいて、人間が死んでも神にはなれないと考えられている宗教が圧倒的に多いです。さらに神になるのは人間だけでなく、動物や植物、そして山や島もその崇拝の対象となります。お盆のような先祖を敬う習慣や大嘗祭のように五穀豊穣を願う習慣が物語るように日本人は古来より生きとし生けるものすべてに感謝をし、我々を生かしてくれている自然に感謝をしていました。そして、亡くなった先祖がいるおかげで我々がいるということにも感謝をしていました。日本人からすれば、周りにあるものすべてが敬意を表すべき対象でした。
第二次世界大戦の話になると、一部の人たちは平気で先祖を侮辱するようなことを言います。そして、その後に自分の先祖は違うと言い訳も必ずします。まず、先祖を侮辱するようなことを普通の日本人はしません。普通の日本人は先祖に対して敬意を払います。ましてや、侮辱など禁忌中の禁忌です。
第二次世界大戦で日本が行ったことがすべて悪かと言えば、そうではありませんが、すべてが善というわけでもありません。日本が残虐なことを一切しなかったかと言えばそうではありません。しかし、第二次世界大戦の話と先祖を侮辱するような発言は全く別問題で、そういったことが許さるわけがありません。第二次世界大戦のことを批判するのは自由ですが、日本を守るために戦い、亡くなった方々を侮辱するようなことは言ってはいけません。死人に口なしと言うように亡くなった方はそのことに反論ができません。だからこそ、反論できないからこそ、敬意を表すべきではないのでしょうか。メディアや日本人の皮をかぶった活動家にはそういった気持ちはないでしょうが、善良な日本国民を扇動し、それを忘れさせようとしています。彼らの口車に乗っていいことはありませんので、彼らの言っていることを無視すべきです。


最後に

もし、戦没者慰霊や戦争の英雄を尊敬することが戦争礼賛というのであれば、東郷平八郎や西郷隆盛や高杉晋作を好きな偉人として挙げることも戦争礼賛になります。もっと言えば、戦国武将が好きというのも同じになります。第二次世界大戦が絡まなければ、まともな判断ができるのにも関わらず、第二次世界大戦になるとおかしなことになってしまいます。靖国神社参拝のように戦没者を慰霊することは先祖や英霊への感謝であって、戦争を礼賛しているわけではありません。それを弁えずに同列で扱うからおかしくなるだけです。
彼らへの慰霊は日本人として当然の行いであり、それを戦争礼賛と非難することこそ、日本人としてあるまじき行為です。

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