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イジメと嫌われとリフレーミング

イジメはいけない


小学校の頃の記憶である。

過疎化地区である僕の小学校では全校生徒が十数人。その中でも僕らの同級生が一番人数が多かったのだがそれでも6人しかいなかった。
そして全員が男子である。
こんな話をすると決まって言われるのが「同級生がその人数しかいなかったらみんな仲良かったんじゃない?」ということだ。

確かに幼稚園から高校まで同じだったやつもいるし、しばらく会えていないけれどなんというか絆というもので繋がっているような感覚になるやつもいる。
しかし、それは一部の人間であって全員がそうというわけじゃない。

小学生の頃、休み時間となると決まってみんなで体育館で野球やバスケやドッジボールをしていた。
そしてある休み時間の時、みんなで同じようにバスケをしていて休み時間終了のチャイムが鳴った。
このチャイムがなるとみんなダッシュで教室に戻る。
その理由として先生より早く教室に入らなければいけないというのと、もう一つは最後にボールを触っていた人がそのボールを片付けなければならないというルールがあったからだ。

みんなボールを片付けるのが嫌でダッシュで逃げる。
でも最後にボールを触っていたやつも片付けたくないものだからチャイムが鳴った瞬間にそのボールを誰かに投げて、片付けをなすりつけるというのが流行りだした。
そしてそのボールを最後に投げられる対象となるのが田上くんだった。

田上くんは昔から泣き虫なところがあり、いじめの対象になりやすかったのかもしれない。

そんな時に異変に気付いたのが担任の先生だった。

全校生徒も少ない、クラスの人数も少ないとなると先生はその変化に敏感に気づく。
そうなると授業そっちのけで話し合いが始まる。不穏な空気が教室を覆い、反省文を書かされる。
そしてそれ以降ボール遊びに新たなルールが加わり、使ったボールはみんなで片付けるということになった。
こういうのがいくつもあった。
そのいじめの対象が田上くんじゃなくてショウくんの場合もあったし、宮くんが不登校になることもあった。

イジメはいけない。
ある一人を対象にして決定的に攻撃などしてはいけない。そんなことをすれば面倒な話し合いをしなければいけない。そういったまがいながらの教訓ではあるが、いじめはいけないということを学んだ。



嫌いという感情を正義では片付けられない

時が過ぎて中学生になった。

中学の人数も少ない。
当たり前だ。少人数の小学校から寄せ集まっているから自ずと中学の生徒も少なくなる。
クラスは各学年1クラス。僕らの学年は13人だった。

中学一年の時のこと。

ここから何年も経って自分の特性に気づくのだが、僕はある環境に身をおいても慣れるまで半年は時間を要する。
そして半年経った時に周囲に馴染めていないと、そろそろヤバイなと思う。残り半年の間をかけてなんとかしようと自分に課題をするようになった。

中学一年の時。
周りは浮き足立っていた。新しい環境で、先輩となる人もできる。そんなソワソワした空気があった。
僕自身は学校外のクラブチームで野球を始めたということもあって環境に大きな変化があった。
そのクラブチームのチームメイトは一般的な大人数の中学校の生徒で、そこで聞く話と自分たちの中学校の話題に大きな差があると感じていた。

わかりやすく言うならば、自分たちの中学校が田舎であり、そこに引け目を感じていた。
クラブチームでは自分の野球の実力の無さと出身中学からの劣等感があった。そして自分の中学にいるときは自分の優位性を保つために「こんな学校…」と蔑んでいた。

なので学校では同級生とはあまり喋っていなかった。
その代わり休み時間になると隣の一学年上の中二の教室に度々遊びにいっていた。

そんな蔑みが周囲にバレていたからかクラスの中でなんとなく距離を感じるようになった。
話題がうまく噛み合わないと思ったり、ノリについていけなくなった。
だからと言って表立ってイジメられているわけじゃない。それに自分はイジメの対象にはならないと思っていた。
時々嫌味を言ってくるやつもいたがそれはイジリだと言うやつで冗談の範疇だと思っていた。

そんなとき、夏休みに入るのだが課外学習としてキャンプが行われることになった。

飯盒炊爨をしてバーベキュー。夜はテントを張って夜な夜な語り合うというやつだ。

男子は8人いてテントは二つに別れた。
そのテントのメンバーはくじ引きか何かで行われたのだが、主流となるメンバーが片方に偏った。

中学一年生。初めてのキャンプ。そりゃみんなテンションが上がる。
僕らのテントは静かだったのだが、もう一つのテントはやたらと盛り上がっているのがわかった。
そこで僕はもう一つのテントに遊びに行こうとしたのだが入ろうとした瞬間に邪険に扱われた。
それを言ってきたのはクラスの中でも口が悪かったタカくんだった。
タカくんのことだから表現がキツイだけでいつものことだと思っていた。

僕はとりあえず自分のテントに戻ることにしたのだが、自分のテントに戻ってはみたもののやはり気になってもう一度先ほどのテントに行くことにした。

するとまた何やら盛り上がっているのが聞こえた。
僕はテントに入る前に姿が見えない位置で聞き耳を立てた。すると一部の会話が耳に入った。

「あいつ、ホンマウザいよなぁ」

「いっつも中二の教室に行ってるし」

「〇〇もあいつのこと嫌っていたで」

テントの中で盛り上がっていたのは自分への悪口だった。
イジメられているわけじゃない、表立って悪口を言われていないから大丈夫だと思っていたが、それは目に見えるような暴力を受けていないだけであって「嫌われていない」というわけではなかった。

今まで生きてきた中で「イジメはいけない」という教育は受けてきたが「人を嫌ってはいけない」と言うことを教えられてこなかった。
なぜなら大人たちは「人を嫌ってはいけない」ということを教えられない。
学校の先生は先生同士で不仲な人は手に取るように見えたし、祖母が母のいないところで悪口を言っているのも聞いたことがある。
人を嫌うという事実を正義では片付けられないということを知っていた。

僕はテントの側で生まれて初めて自分への本気の悪口を聞いた。
今でもその光景とその時のタカくんとショウくんの声が聞こえる。

しかし、その時の僕の感情としては怒りや悲しみではなかった。


僕は笑っていた。


君野ユウって人間、めっちゃ嫌われてるやん。
クラブチームでも居場所を作れずに学校でも馴染めない。家でも浮いている。

僕はなんだかおかしくなった。
本当ならば悲しんでいいはずなのに笑わざるを得なかった。

君野ユウという人間を自分から切り離して俯瞰することで君野ユウという人間を守ろうとしたのかもしれない。
名前には意味がない。君野ユウという存在は誰よりも劣っている。そこから始めなければならなかった。

翌朝になった。
みんなは普段通りに接してくれる。

自由時間になればキャンプ場近くの海へ誘ってくれたりもした。
みんながその行動をとる理由として「イジメはいけない」「仲間はずれはいけない」という習性が身についていたからだ。
そして僕も同じようにそのルールに則って自分を本気で嫌っているやつと笑顔で接した。


そこから僕は自分の行動を改めるように考えた。
君野ユウという人間をどのように持っていけば周囲とうまくやれるか。
クラスは13人。三年間同じクラス。部活も同じ。地元も同じ。逃げれるコミュニティは他にない。意地でもこことうまくやっていかなければならない。
となると仲良くする方法を考えた時、大前提として一つのことを掲げた。


それは、自分がいくら嫌われても自分を嫌った相手を嫌ったりしないということだった。


どんなに嫌われてもその人にこそ気配りをする。もっと言うなれば君野ユウという人間は人を嫌ったりするなどしてはいけない。それほどの値はないと思うようにした。

そうすればいつか相手が心を開いたときに仲良くなれるスペースがあると思った。こちらもシャットダウンをすると仲良くなれるかもという可能性がゼロになってしまう。
13人のクラスではそちらの方がリスクがあった。

そのためには自分の好きとか嫌いという感情を殺さなければならなかった。そうでもしないと自分を本気で嫌っているやつと会話することなどできないと感じた。

それから半年が経ち、一年も経つ頃にはクラスのみんなと馴染めるようになった。

「嫌われる」という感情は他人の感情であり、それを正義で改善することはできない。
その時に自分の中に非がなかったのかということに目を向けて現状を打破できたことは大きい。

リフレーミングがあだになる


周囲から嫌われて自分の悪口を聞いた時に、君野ユウという人間を切り離した。
その行為は一種のリフレーミングに近い。

リフレーミングとはある枠組みを外し、全体の構造を見るという考え方だ。

自分が嫌われた時に自分中心で考えていたら、悲しいや怒りという感情にとらわれて自分の行動を改めるという考えにはいたらなかった。


しかしこのリフレーミングが最近になってあだになった。

どうしても無理な人がいる。
そんな時に、自分を押し殺して自分一人さえ我慢すればうまく回るという行動を起こしていたら遂にそのリミットを越えてしまった。心がもたなくなったのだ。

相手の年齢や立場を考えたら、相手の感情もわかるという認識をとっていたが自分の心に限界がきた。
怖くなってやる気が起きず、集中ができない。ぼんやりとして夢でうなされる。

ある一人との人間関係のせいでうまく立ち回れなくなった。

これがリフレーミングではなく自分本位で考えていたらもっと早くヘルプが出せていたと思う。


嫌だ。無理だ。


他罰的になることを恐れるあまり、そんな単純な意思を発することが怖くなっていた。
そして誰かを傷つけられないのは自分が傷つきたくないからだけかもしれない。自分の感情のままに行動した結果、あの日のようにまた自分の悪口を聞きたくない。自分を守るために正しいと思って俯瞰した行動だったが、キャパを越えて自分を守れなくなった。

時と場合、立場や環境によってリフレーミングが正しかったり自分本位で考えることが正しかったりする。
結論めいたことは言えない代わりにこのテーマを少し考えて生活をしたいと思う。


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