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仕事について

日本語とは面白い。

仕事について。

この一文だけでも「『仕事』について」と「仕事に就いて」の二つの解釈ができる。
イントネーションの差異はなく、こうして文字に書き起こす場合でない限りは前後の文脈で判断しなければならない。

本題に入る前からこんな面倒臭いことに手間をかけるつもりなど毛頭ないのだが、いかんせんこれを書いている人間が面倒臭い奴なのだからそれはいた仕方がない。
今回は仕事という事柄について。即ち、「『仕事』について」

僕はこの「仕事」という言葉がとても嫌いである。
「仕事」という単語をあまり口にしたくないほどアレルギーがある。

他人に向けて「明日、仕事?」などと問いかける分にはいいのだが、これが自分に向けられるとなんだか心臓をギュッと締め付けられる感覚に陥るのだ。

20代前半の頃、僕はパチンコ店でアルバイトをしながら生計を立てていた時期があった。

バンド活動をしながらメンバーとルームシェア。時給が高いという理由で選んだパチンコ店のアルバイト。
月のバイト代は生活費とバンド活動費にごっそり充てられていた。

バイトはバイト。生きるために必要な収入を得る手段でしかなかった。だから面白くなかろうが業務に疑問を感じようが愚痴などこぼさず時間を消費する。
それ故、大したことをせずとも真面目で素直な奴だと言われることがあった。

しかし、自分の中では本業はバンドであった。家に帰ればギターを手にし曲を作るし、思いついたワードは携帯に打ち込む。
メンバーには喜怒哀楽で接するし、バンドでどうにかしたいと漠然と考えていた。

そんなある日実家に帰ったことがあった。
久しぶりに会った母は会話の途中で僕にこう尋ねた。

「仕事はいつまで休み?」

僕はなんだかとても不快な気分になった。
母が使ったこの「仕事」という言葉は、毎月赤字で一銭も稼げていないバンド活動に向けられた言葉ではなく、僕が感情を押し殺して時間を塗りつぶしているだけのバイトのことを指していたからだ。

所詮はそんなものだった。

正社員を辞めてまで専念していたバンド活動。

それでも母から見れば、世間から見れば僕の仕事はパチンコ店のアルバイトであった。

僕はこの一件から仕事という言葉がとても嫌いになった。

仕事=「収入を得る手段」「面白くないこと」「愚痴などこぼさず時間を消費すること」「感情を押し殺す時間」

僕の中でこんな数式が出来上がった。

僕はその後、より高い時給を求めて工場で派遣社員として働くのだがこの考えを拭うことができなかった。

その職場でも僕は真面目で素直な奴だと思われていたのだが、その評価はなんの励みにもならなかった。
それは裏を返せばマジつまんねぇ奴ということは自分が一番よく分かっていたからだ。

仕事はネガティブなもの。会社を出れば本当の自分になれる。そう感じていた。
そしてこれは僕自身に限ったことではなく、一般的にもそういうものだと思っていた。

しかし、この仕事というものに対して時々、嬉々として話す人がいるのだ。
キャリアアップとしてあの資格をとって、もっとお客さんに行き届く仕事をしたいという人。
「仕事でこんなことがあってさぁ、」と失敗談を話しているかのように見えてもそれはどこか誇らしげな人。

それは僕が思う仕事感とは違うものがあり、疎ましく感じていた。

そもそも「仕事」とはなんなのか。どんな意味があるのか。

これを書くにあたってその問いを突き詰めていった結果、3つの意味合いがあるのではないかという結論に至った。

① 「労働」としての仕事
この作業、この業務を行うことであなたはこれだけの価値を生んだので、あなたにこれだけの報酬を与えようということ。
母が言うそれである。生活するための手段。
しかし、そこで得た給与は言わば耐え忍んだ分のストレス代とも言える。

② 「やりがい」としての仕事
仕事という漢字を読み解くと「仕えること」となる。報酬のためではなく、達成することに喜びを感じる。
どこか、やらせてもらうという謙虚な姿勢がそこにはある。
僕でいうバンド活動はそれであったし、仕事に対して嬉々として話す友人もこれに当てはまる。
ただ両者の違いは生活するための報酬が有るか無いかということ。

③ 「役割」としての仕事
仕事は何も儲けるか儲けないかという言葉だけで使われる言葉では無い。
赤子は泣くのが仕事であるという使われ方をするし、親はその赤子を立派に育てることが仕事であるという使われ方もする。
そこには成果や報酬、損得ではなく、自分の置かれた身における役割がある。

一言に「仕事」と言っても母が言う仕事と僕が考えていた仕事。
同じ言葉でもそこには大きな差が生じていた。

同じ作業をしていても「労働」と感じる人もいれば、「やりがい」と感じる人もいるし、一家を支える大黒柱として働くことが「役割」と感じる人もいる。

① ② の混合として「代価を得たことによって、客観的に自分を評価できる」という考え方もある。
報酬を貰えることがやりがいであり、更なるモチベーションとなる。
これはこれでとても自然なことではないか。

「労働」というものを真っ向から否定するつもりはない。
好きなことをするために苦虫を噛みながら汗を流すこと。
誰かを支えるために自分を押し殺して給与を得ることも充分素晴らしいことではあると思う。

ただ、それだけではやりきれない。

生きるためには最低限の収入が必要である。
その生きるために必要な労働によって心身を疲弊することが良しとする風潮はもう無くなってもいいのではないか。

「労働」としての仕事ではなく、「やりがい」「役割」としての仕事にもっと目を向けてもいいのである。
仕事に就いて、仕事についてこんなことを考えてみた。


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