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彼に選択肢を与えたい

毎朝、車に乗ると決まってナビが僕に話しかけてくれる。


12月24日。今日はクリスマスイブです。


12月31日。今日は大晦日です。


毎日欠かさず車を運転する僕は、ナビとの会話が一日の始まりだったりする。


妻と子どもを起こさないように物音立てずに家を出て車のエンジンをかける。
そうしてやっと音を出せる空間になったときに最初に耳に入る人の声がナビのアナウンスだ。

ナビのアナウンスを人の声と言っていいかは別として、このやりとりがなんとも妙だ。
やり取りも何もあちらからの一方通行で僕は相槌ひとつ打たない。
しかし、なんだか車と僕を繋ぐアイドリングトークのような意味合いがあるような気さえする。

トイレでいつも会うおっさんが毎日天気の話をしているかのような感覚だ。

毎日トイレで天気の話をするおっさんとはさほど話題が広がらないが、今日はなんの日?という話題なら膨らみそうな気がするのでナビはいたって優秀だなと思う。

クリスマスや大晦日と行ったメジャーな記念日から囲碁の日といった一般知識では知らない情報まで教えてくれるから面白い。


今日のは特に最高だった。


1月14日。今日は愛と希望と勇気の日です。

愛と希望と勇気の日ってアンパンマンやん。
僕はハンドルを握りながら心の中でツッコんで、すぐさま訂正した。


いや、アンパンマンより一個多いわ。欲張りすぎやん。


そうなのだ、アンパンマンは愛と勇気だけが友達にも関わらず、1月14日は愛と希望と勇気が友達なのだ。
三つ巴の三角関係、欲張りにもほどがある。


僕はそんな心の中でナビとアイドリングトークをしたのだけれど、この記念日の由来が気になって調べてみることにした。


愛と希望と勇気の日は、別名タロとジロの日と言われているらしい。
どういうことかというと、南極物語で知られる犬のタロとジロが一年後に隊員と再開したのが1月14日ということなのだ。
なるほど、確かに愛と希望と勇気の日に違いない。

そんな美しい背景の中、築かれた記念日とはつゆ知らず小馬鹿にした自分が恥ずかしい。

僕はこの映画を見たことがないけれど、話としては道徳の教科書にも載っていたから知っている。
とても美しい話で素敵な話だ。

でもそんな中でちょっと穿った見方をする自分もいる。


タロとジロは越冬隊に同行した他の犬よりも比較的若く、越冬隊と、同行した樺太犬だけがタロとジロの世界の全てだったのだ。
一年間、必死で生き延びていつ迎えに来てくれるかわからない越冬隊を待つ以外の生きる目的がなかった。

越冬隊のメンバーと無事再会できたことは美談ではあるけれど、タロとジロが知っている世界はあまりにも狭かったということは寂しく思う。


例えば、クサいセリフの代表例である「この世界に僕とあなた二人だけになったとしても、あなたを愛し続けるよ」というのはこの上なく胡散臭く思う。

なぜなら、この世界に二人っきりならあなたを愛す以外の選択肢がないからだ。
この世界に男女二人っきりになったら好みとか関係ない。その瞬間に人は動物的な本能みたいなのがカチっと作動して種の保存へと切り替わるだろう。
それは今のように人間的な理性と本能によって作られた愛の形ではなく、動物的な本能によって愛を育む。


なのであらゆる選択肢がないのにも関わらず、さも始めからそのつもりでしたみたいな顔をされたら困る。


つまり、真実の愛を語るなら「僕はこの世界をたくさん見て来たけれど、それでもその中であなた以外は考えられない」ということこそが本当の愛じゃないかと思う。

若い時の恋愛なんてまさにそうで、「もっといい人いるよ」という失恋時の慰めは反吐が出そうだったけれど実際当時の自分は周りが見えていなかったなと思える。
まるで無人島に二人っきりしかいなくて、別れを告げられて一人ぼっちに感じていたことがあった。

あれは確かに選択肢を自ら切り離すことで愛を深くしていただけに過ぎない。
僕たちは無人島にいるわけではなくて、あらゆる選択肢の中で出会ってそれでもあなたが好きだということを認めなければならない。

別に契約を交わしたわけではない。

相手も嫌なら自分から離れたら良いだけの話だ。
そんなふうに思っていた方がより相手を大切にできると思う。





一歳になる息子がいる。

彼の世界は狭い。パパとママがいて時々おじいちゃんとおばあちゃんがいる。
そんな中で彼が頼れるのは当然僕と妻だけだ。

遊び相手であり、お世話をしてくれる存在であり、叱る人。


叱るにも関わらず、それは時々大人の機嫌で左右されるのにも関わらず5分後にはまた笑顔でやってきたりする。
それは僕たちしか頼る人がいないからだ。そんな状況を時々俯瞰して不憫だなとも思う。


もう少し、大きくなれば遊び相手も増えて、叱る人も増えて、好きな人もできるだろう。

それは親としては嬉しくもあり寂しくも思う。しかし、彼に選択肢を与えなければならない。
選ぶ自由があって、選ぶ権利がある。


選ぶ権利というのは幸せの上に成り立っている権利だと思う。

生きるか死ぬかの瀬戸際では選択肢はなく、余裕の上に成り立つ。
すなわち、生活な幸せがあるからこそ選ぶ権利が備わる。


なので選択肢は作ってあげたい。

その上で色んな人と出会って、パパとママって大した人間じゃないよねって思われるかもしれない。
僕の考えであれば、それは認めなければならないことなのだけれど、それはやはり嫌なので、僕は尊敬されるべくもう少し理想となる人間に近づけたらなと思う。


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