優しいということ

優しいという言葉はふんわりとしていてどこか安心感を覚えます。
しかし、優しさを備えている人は言葉のイメージとは裏腹に厳しい道のりを辿っていると思います。
今日は優しいということについて書いていきます。

私自身が「優しい」とよく言われてきた人間でした。
人に優しいと思われることで、話しかけやすいとか話しやすいと言われて好印象を持ってもらえることもありますが、一方で、同性にも依存されたり、相手の自己肯定感を保つことに利用されたり、何を言っても大丈夫と思われて酷いことやきついことを言われたりすることもよくありました。

私は特別優しくするぞという意識を持って人に優しくしていたわけではなく、自然にやってしまっていたことがほとんどだったと思います。
ただ自分がよく思われたい、という下心もあったと思いますし、私が優しいと言われる所以が本当の優しさなのかと言われたら、違うかもしれません。
優しさにも、言葉のイメージ通りのふんわりと包み込むようなものだったり、反対に厳しい愛情のようなものだったり、いろいろあります。
私はおそらくイメージ通りのほうの優しさというものを性格として持っていたのだと思いますが、そのタイプの優しさは利用されます。つけこまれて、傷付くことが多いです。

私は幼稚園の頃など少しぼーっとしている子だったので、そのせいでなめられていたのもあるかもしれません。
思春期に入ると少しずつ考えることを始めましたが、それでもそんなちっぽけな抵抗のみでは同性からの依存は止みませんでした。
依存の中身は、週何度も会いたがる、自慢話を繰り返し話す(しかしこちらの話は何も聞きたくないという態度)、毎回やんわりと貶してくる、私の友達に会いたがり会っても私とばかり話す、などでした。
その子は周囲でも問題視されていた子だったので、付き合いをやめなよと何度も周囲から警告されたのですが、私もやめたいとは思いながら、しかし彼女の良いところを思い出して「根は悪い子じゃない」と考えてしまい、その子が結婚するまで付き合いを続けてしまいました。今考えると典型的なDVそのもので草。
(ちなみにその子との付き合いを断ったきっかけは、結婚が決まったその子と電話で話している時に「やっぱりかわいい子から売れてくよね」と当時彼氏もいなかった私を売れ残りのブスだと遠回しに罵ったことでした。なんかもういいかな…と肩の力が抜けました。)

幼稚園の頃から同性からは依存、依存ばかりだったのですが、それでも私は学習しないのか、3年前から1年おきに仲良くなった同性に次々に暴言を吐かれて絶縁になりました。
その出来事が続いたおかげで周囲に「優しいから…」と言われることが増えたと感じ、優しさについて考えるようになりました。

私は自分が優しいと言えば傲慢になると思います。私の優しさは確かに相手を受け入れて包み込む類のものもあるとは思いますが、それほど親しくない相手には、前述した通り自分をよく思われたいからとか、自分が悪く言われたくないからといった人への恐怖からくるものもあります。
それでもなぜ周囲は私に「優しい」と言うのか。

私の優しさはわかりやすいのだと思います。どこかふんわりとしていて、受け入れてくれそうで、実際受け入れもする。私自身が否定されることにものすごく敏感に反応してしまうため否定は極力したくないと考えているので、否定もしてこない。相手にとって、安全なのです。そして、柔らかそうなので、ひねり潰せそうでもあるのです。

私は最近、自分が人に優しいと言われると、またなめられてる?とか、優しいから何をしてもいいと思われてるのかな?とか、どこか否定的な言葉のように感じるようになっていました。
優しいよねと言うのもとても簡単だし、それを言っておけば私を満足させられたり納得させられると思われているのかな、と感じるのもいやでした。

ところが、先日会った友人が「あなたの受け入れて理解しようとするところに私は本当に救われてる」と言ってくれました。
だいぶ年上の友人ですが、私を利用したことも下に見たことすら一度もなく、いつも親身に話を聞き続けてきてくれた友人です。私もその友人のことが昔から大好きで尊敬もしていて、大切にしていきたいと思っている人だったので、そう言ってもらえたことと私の優しさのようなものがその友人の役に立っているのだと知ったことでとてもうれしく思いました。

「親切になさい。あなたが出会う人はみな、厳しい戦いをしているのだから。」

この言葉が好きでした。知らない人にも親切にするのは好きでしたし、それでたまに返ってくる人の感謝の気持ちも好きでした。
人間が好きだったし、人と話したり関わったりすることも好きでした。
だけど、私は消耗していきました。
優しさを搾取されているなら、優しさなんて捨ててしまえばいいとも考えました。だけど、優しさを捨てて無になって、無表情に人と関わる自分や人間関係を、私は好きになれないと思いました。

これからは、優しさはちょっと控えめにしよう。大切な人にたっぷり届けばまずはいい。
そういう結論に行き着きました。
だから思うことがあります。優しいがゆえに人に傷付き、それでも優しさを捨てずにいる決断をし続ける人は、とても強い人だということ。
優しいというのは強いということだと。

無条件に人に親切にできる人はそうそういませんが、私の知人にはいます。自分への愛情が足りていて心に余裕があり、自分の芯も強く持っているからこそ、「親切にしたい」という気持ちが湧いてくるのでしょう。

私はただ気が優しい性質に生まれただけです。自分に余裕もないのについ人に優しくしてしまうようです。おまけに少しぼーっとしていて、人を見抜く眼力もないから、利用されてしまうのです。

でも私もいつかは、知人のようになりたい。無条件に人に親切にできる人になりたいです。自分の芯をしっかりと持って、自分の軸からぶれない優しさを与えられる人に、なれたなら。

人生の修行はまだまだ続きます。でも、楽しいです。いろんな発見があって、いろんな人の意見があって、大変ですが楽しいです。
これからもいろんなことについて深く考えていきたいと思います。

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