頑張っても無駄だよね

とにかく結果にたどり着けない。何かを志しても途中で放棄してしまう。もうすぐの一歩手前で邪魔が入る。時間がかかって積み上げてきたものは、崩れるときは一瞬なことが多い。それに人によって壊されることが大多数。それか環境か。無責任、わがままだと思われるかもしれないが実際はそれが大半なのである。そのまま崩れたものを諦め背をそむけてしまったら自ら壊してしまったと同等になる。

昔からそうだった。特に部活、毎日血反吐吐くような努力も毒親が顔を出せば子供のことなどそっちのけで自分勝手に振舞う。先輩、監督、同期にも迷惑がかかり孤立。努力が一変にパァ。試験もそう、原因不明(当時)の病に倒れ慣れない都会の環境下で地を這いずり回るはめに。仕事だってそう。頑張って働いてお金たまったところで金貸せ亡者が現れむしり取られる。お金持ってるのが怖くなってあまり貯金体質ではなくなってしまった。服装も仕事以外では地味な格好をするようになった。

昔は、努力は必ず報われるって子供ながらに信じていてがんばって結果が出ないなんてありえない。どんな困難でも耐えまくり常に前を向いていれば上に行けると確信していた。この根拠のない純粋さが大人になってからは真逆のベクトルを向きことごとく崩れていったのだ。頑張るだけ無駄。ある意味、潔さや、諦める、ほどほどに頑張る、を身に着けていった。あんなに純粋で単純で、そのマインドってどこから来ていたんだろうね。ストイックさがったのかもね。

今となればね、全ての苦しみの原因は全部自分の性格から来てるなんて言うのはとうに気付けている。0か100か白か黒か陰か陽か。はっきり極端なのが原因だったのだ。基本はそうだろう、この世は二極しかない。しかし何も知らずの二極か経験値ありの中身ありの二極かでは全然違う。結果が全て、の自分から結果はどうでも経験できて良かったんじゃない?の自分にシフトしてる。結果が出ななければ意味がないなんて、そもそもの人生に意味なんてない。理由付けすることはいくらでもできるかもしれないが。

多分、努力の成果を出せれば喜ばしいが私の場合、その成果が必ずしも幸福になるとは限らないというのをどこかで知ってたんだろうと思う。だから今はどんな答えが出ようとも今の自分にはこれがベストなんんだろうって思うようにしている。結果が出て答えが出て=幸せじゃないと。

昔、壊され壊していたから毒親から離れられたし、病もあの時じゃないと乗り切れなかったし(今とか晩年で同じことあったら間違いなく死んでた)人に金貸したってその人のためにならないって気付けたし、何より今は自分を大事に出来ている。今年の夏も瞑想、内観三昧だったけどそこでふと「いろいろあったけど自分は自分で良かったな」って湧き上がる幸福感を感じたのは初めてのことだった。それもこれもその過程を踏んでこなかったら得られなかったと思うし数年たって理解が出来たらそこで初めて意味が生じるものなのかもしれない。

結果というより過程を重視したほうがいいと思う。しかも楽しみながら。お遊び半分では自分も出来ないが得ても得られなくてもどっちでもいいや~の気持ちで。苦しみながらより楽しみながら、の意味もなんとなく分かってきた。読書も勉学も仕事も、いわゆる真理ももう一人の自分が知ってると信じれるから、がんじがらめに結果にこだわらなくても良いかもと思えるようになったのだ。

それが答えは自分の中にあるっていう事なのかもしれない。

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