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いえぬ想いは、煙となって漂う。

 空腹な状態で酒を呑んだからだろう。いつもより酔いの周りが早い。このままではダメだ。二日酔いで苦しむ姿が容易に想像できる。
「ちょっとトイレに行ってくる」と嘘をついて、その場を離れた。
 
 思い通りに動かない足を引きずりながら、店の外に出る。傍から見たらゾンビを連想するかもしれない。
 口から新鮮な空気が侵入してきて、少し楽になったような気がした。
 体内のアルコールを少しでも薄めようと自販機を探す。
 ビルの階段を降りたところに自販機があった。130円を投入し、ミネラルウォーターのボタンを押す。 
 その隣りに簡易の喫煙スペースがあり、見覚えのある女性がベンチに座っているのが視界に入った。
 先輩だ。私服姿だが、僕が彼女を見間違えるわけがなかった。

 「あれ?偶然ですね。先輩も呑んでたんですね」
 「あ、佐々木くんじゃん!地元の友達と久しぶりに呑もうってなってね」と言って先輩は手招きをする。
 僕はペットボトルの蓋を空けながら喫煙所へ向かう。
 「てか、先輩ってタバコ吸うんですね。なんか意外です」と言い、先輩の隣りに腰を下ろす。
 「タバコを吸う女は嫌い? 」
 「…そんなことないですよ、ただ」とまで言って僕はミネラルウォーターを一口飲んだ。
 「ただ?」と先輩が言葉の続きを催促してくる。
 「女の人の場合、きっかけが気になりますね。男がタバコを吸い始める理由って、憧れとかモテたいとか単純じゃないですか。先輩の場合はどうなのかなーって気になりますね」
 「そんな期待しても大した理由は出てこないよ」と言って笑う。
 「いいもの持ってるね、一口頂戴!」と言ってペットボトルを指差す。
 間接キスと思ったが口にはしなかった。僕も先輩もいい大人だ。そんな高校生みたいなこと思ったりしない。
 僕は平静を装いつつ、先輩にペットボトルを手渡す。
 先輩は「代わりにこれ吸っていいよ」と言って右手に持っていた吸いかけのタバコを僕に差し出した。
 僕はタバコを吸わない。以前友達のも貰って吸ったことがあったが、むせてキツかったのでそれっきりだった。
 「懐かしい気持ちになれるんだよね、タバコを吸うと。20代の頃に付き合ってた彼氏の影響でさ、吸うとその時の思い出が蘇るんだよね」と言い、先輩がペットボトルに口をつける。
 僕も先輩につられてタバコに口をつける。少しでも先輩の記憶に残りたいと思いながら。
 肺の奥にまで不快な煙が侵入してくる。
 「間接キスだね」と先輩が耳元で囁いてきた。
 「うぇ、ごはぁ」と変な声を出してしまった。涙も出てくる。煙のせいなのか、先輩のせいなのか、むせた。むせ込み過ぎて、アルコールまで逆流しかけた。
「えー、ごめんごめん!大丈夫?」と言って先輩は僕の背中を擦る。
 「せ、先輩がからかってくるから動揺しちゃったじゃないですかー」と冗談っぽく文句を言い、目尻の涙を拭う。 
 「はぁー、タバコってやっぱりむせますね。先輩が美味しそうに吸ってたからいけると思ったんですけどね」
 「佐々木くんってタバコ吸わなかったんだね、ごめん、ごめん。知らなかった」と言ってペットボトルを僕に渡した。
 先輩の左手に着いている指輪が蛍光灯で反射して、やけに輝いているような気がした。

 僕は左手でそれを受け取り、一口飲む。右手にはタバコを持ったまま。
 「めっちゃ大事に持ってるやん」
 「なんかいいなって思っちゃったんですよね」と言って、再度タバコを咥えてみた。
 「いいなって?」
  フゥーっと煙を吐く。胸に溜まっている言葉にできない様々な想いが煙となって出ていったような気がした。
 「タバコを吸って思い出して貰えるのって」
 「あー、別に未練があるってわけじゃないんだよ。旦那とも上手くいってるし、娘もかわいいしね。だけど、朝5時半に起きて旦那の弁当作って、娘を保育園に送って出勤して」と言って、先輩もポケットから新たにタバコを取り出して火をつけた。
 フゥーっと煙を吐いて、「仕事が終わったらスーパーに買い物いって、保育園に迎えに行って、晩御飯作ってって毎日が慌ただしくて自分の時間なんてろくになくてさ…」と愚痴をこぼした。
 「タバコを吸わないとやってらんないんだよね」と言って、またフゥーっと煙を吐いた。
 普段ニコニコと周囲に笑顔を振りまいている先輩とは別人だった。まるで仮面を外したみたいだ。煙で少し汚れたほうが、人間味があって親近感が湧く。
 「みんな色々抱えてるんですね」と相槌を打ち、すっかり短くなったタバコを吸殻入れに捨てた。
 「生きていると色々あるじゃん。人に言えないようなことも。そんなもやもやを体に溜めたら毒じゃん。だから煙として吐き出してるんだよ」と先輩はドヤ顔をしてきた。
 「なんか詩人ですね」と僕もつられて笑った。
 癒えぬ想いは、煙として漂う。ふとそんなフレーズが浮かんだ。
 「佐々木くんのほうが詩人じゃん」と笑われそうで、口には出さなかった。

 「何があったのか聞いてこないんだね」
 「だって、人に言えないから煙として吐き出してるんでしょ? 先輩が話したくなったらでいいですよ。僕も話したくなったら色々愚痴るんで」
 「佐々木くんのくせにカッコつけすぎだよ」と言って、僕の背中をパーンと叩いた。

 ブゥー、ブゥーと突然スマホが鳴る。画面を見るとさっきまで一緒に呑んでいた友人からだった。おそらく、呑みの席に戻ってこいという内容だろう。
 先輩はそれを察したのだろう。「そろそろ戻ろっか。私のとこも友達が待ってるだろうし」と言って、吸い終わったタバコを吸殻入れに捨てた。
 僕も「ですね」と相槌を打ち、腰を上げる。まだまだ先輩と話したかった。そのくらい居心地が良かった。
 そんな僕の気持ちを察したのか、「これから休憩中タバコ付き合ってもらうからね」と言い僕に手を振った。
 「よろしくお願いします」と言って頭を軽く下げ、その場を後にした。

 本当はタバコを吸う女性は苦手だった。コンビニでバイトをしていた時、タイプの女性がタバコを買うと何故か勝手に落ち込んでいたくらいだ。
 無意識のうちに、女性は出産や育児があるからタバコは吸っちゃダメと差別をしていた。
 彼女たちにもそれぞれ抱えている事情があり、やり切れない感情を煙で体内から排出して日々を懸命に生きているという背景まで目を向けられていなかった。
 
 
  「先輩、火もらっていいですか?」
 「あーあ、佐々木くんもすっかりヘビースモーカーになっちゃったね」
 「先輩のせいって思ってないですよ」
 「今喫煙者の扱いはひどいんだよ。まるで犯罪者かってくらい」
 「例え犯罪者扱いされても、先輩がいれば俺はそれで十分ですよ」
 「何カッコつけてんの、あんなにむせてたのに」といって脇腹を突つきながら笑った。
 「それは忘れてくださいよ。格好がつかないじゃないですか」と言って僕もつられて笑った。
 「こないだ1人で吸ってたときに思い出しちゃって、吹き出したんだよ。知らないおじさんがこっちみてきて恥ずかしかったんだから!」と言って、わざと僕を睨んできた。
 「傍から見たらヤバい奴じゃないですか」とからかった。
 先輩の記憶に残っていることが単純に嬉しかった。

 あの日以降僕らはよくコンビニの喫煙スペースで会うようになった。
 僕はタバコの味は好きにはなれなかった。今だに時々むせる。だが、先輩と煙を吐きながら愚痴を言い合う時間は、ストレス社会で生きていくためには必要だった。
 何でも伝えればいいというわけではない。先輩には家庭があるから、想いを打ち明けても迷惑になるだけだ。
 ただ、普段仮面を被っている先輩が僕には遠慮なく愚痴を吐いてくれる関係が心地よかった。
 フゥーと吐いた煙が、僕の視界を灰色に染める。言えぬ想いは、煙となって漂う。 

 

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