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性の絆からシスターフッドへ:『52ヘルツのクジラたち』論考

Ⓒ2024 「52ヘルツのクジラたち」製作委員会

監督:成島出
原作:町田そのこ
公開:2024年

① 序論:ファミリイ・アイデンティティについて

本論では「家庭の解体」という社会的な課題を物語化した作品の一例として2024年公開の映画『52ヘルツのクジラたち』を取り上げる。あくまで私の感想であるが、本作は出来の良い映画とは言えないと思う。俳優の顔面ドアップがやたら多い絵作りに適応してか主演俳優は首から上だけで演技を済ませてしまっている(気がする)し、感動的な場面で「感動的な音楽」が大音量で鳴り響き、その「感動的シークエンス」の集大成であるクライマックスは『ジョーズ・イン・ジャパン』(監督:ジョン・ヒジリ)を彷彿とさせるほど不自然である。全体として俳優の演技力(それも首から上だけの演技力)に依存しており、映像作品としてスマートとは言い難い。

 ただし、本作には家庭の解体を描いた作品として注目すべきポイントがいくつか存在する:①「血縁の否定」、②「性の絆の否定」、③「性的役割分担の否定」に見せかけた「男性性そのものの否定」。いずれも近代的な家族制度を女性や子供にとっての抑圧と見なす発想が根本にあり、ファミリイ・アイデンティティの問題がいかにフェミニズムの影響下にあるのか容易に推察できる。

 本論は映画『52ヘルツのクジラたち』が描写する家庭の解体について整理するとともに、従来型の家庭が解体された先をどのように描いているのか検証することを目的とする。なお、私は本作を一度しか鑑賞しておらず、かつ原作小説を読んでいないことを最初に明言しておく。

② 排除される男性たち

『52ヘルツのクジラたち』における家庭の解体は男性の排除と男性性の軽視によって成り立っている。登場する男性は3種類に大別できる:①自立できない身体的弱者、②加害者、③愚か者。まともな成人男性は一人も出てこないとさえ言えるかもしれない。そして、映画を時系列で並べ直すと主人公の三島貴瑚が3種類の男性を順番に切り捨てていく過程が浮き彫りになる。

 三島が切り捨てる第一の男性は「自立できない身体的弱者」である。三島は家庭のケア負担を一身に背負う(恐らくは20歳前後の)女性として登場する。彼女は母親からの暴力に耐えながら一人で寝たきりの義理父を世話しており、上野千鶴子の提唱した「ケアの人権」における「ケアすることを強制されない権利」を完全に侵害されていることが分かる。上野は家族の介護問題をフェミニズムの視点で分析し、クレア・アンガーソンの研究を引用しながら女性が自発的に行う家族介護は実質強制労働である点、介護者が(DVに耐えることも含め)多大な社会的不利益を被っている点を指摘しており⁽¹⁾、三島の状況は上野の想定するケースにぴったり当てはまる。
 そんな三島の状況は友人の牧岡美晴および本作のキーパーソン岡田安吾の介入によって一変する。岡田の積極的な働きかけにより三島の義理父はケアワーカーの手に委ねられることとなり、結果三島は自身に依存していた母親から離れることに成功する。この場面は「母親からの別離」という側面のみが強調されており、義理父に注目が集まることは一切ない。三島にとって義理父は単なる「負担」でしかなく、別離すべき対象ですらないのである。血が繋がってないとはいえ、数年一緒に暮らしてきた男性が異様なほど軽視されていることが指摘できる。

 さて、続いて三島が切り捨てる男性は「加害者」である。加害者男性は岡田安吾と新名主税の二人で、本作はこの二人が三島をめぐって対立するパートに大きな比重が置かれている。岡田は初めは三島の救世主として登場するが、新名との仲を裂こうとすることで加害者へと転落し、三島から拒絶される。新名はもっと直接的で、暴力と不倫によって理想的な交際相手から加害者へと転落する。
 注目すべきは両者の扱いの差で、新名は三島から一方的に拒絶され物語から完全に姿を消すが、実はトランスジェンダーの(生物学的な意味で)女性であった岡田は一度三島から拒絶されるものの再度「大切な人」ポジションに復帰を果たしている。岡田は反則的な密告で新名を破滅させており、客観的に考えれば新名と同等の加害性を発揮している。しかし、三島は新名を拒絶し、岡田を免責する。つまり、三島は「性の絆」を否定し、代わりに「シスターフッド」を肯定する方向へと心情を変化させているのである。
 この「性の絆からシスターフッドへの転換」は本作が辿り着いた一つの回答であると考えられる。家庭という「男性性による抑圧制度」から逃れた孤独な三島の前にシスターフッドを象徴する人物として友人の牧岡美晴が再登場を果たす。彼女は同時に男性性の軽視を体現するキャラクターでもあるのだが、詳細は次章にて論じる。また、牧岡再登場の下準備として性の絆から解放されなかった女性=品城琴美が息子を置いて男と姿を消す形で物語から排斥されている。

 最後に三島は「愚か者」を切り捨てる。厳密には切り捨てるではなく眼中に入れないという言い方が正しい。三島は「加害者」を切り捨てた後転居先で地元の職人である村中真帆に好意を寄せられる。彼は(恐らく下心が混じっているとはいえ)三島のために助言や援助をし、彼女のために涙を流す純朴な好青年として描かれてはいるが、それ以上でも以下でもない都合の良い「愚か者」の役割しか持てていない。三島は最後まで村中の好意に応えることはないが、これはこの時点の三島がすでに「性の絆」を軽視する人物になっていたからと解釈できるだろう。なお、村中の外見や言動は明らかに男性であるが「真帆」という女性的な名前を持っており(原作での性別を確認したいところである)、彼の潜在的な女性性を担保しているように思えてならない。実際彼は職人という男性的な職業でありながら父親ではなく祖母と行動をともにしている。村上は内在する女性性ゆえに三島に完全に排斥されることなくシスターフッドの一構成員という「無害な」ポジションに落ち着いたと考えられる。恐ろしいまでに徹底した男性性排除である。

 本作はシスターフッドを解体された家庭の代替とすることでファミリイ・アイデンティティの再構築を描こうとしていると考えられるが、そのシスターフッドの根底に徹底された男性性の排除があると指摘できるのである。

③ 比較論『52ヘルツのクジラたち』と『ちいさなあおいさかな』

本章では視点を変えて映画『52ヘルツのクジラたち』の物語構造を絵本『ちいさなあおいさかな』(文:松居スーザン、絵:原田ミナミ、福音館書店、2002年)と比較し、その差異から『52ヘルツ~』の特徴を深堀りする。

 『ちいさなあおいさかな』のあらすじは以下の通りである:
・いつも海藻の影に隠れてびくびくしながら暮らしていた小さな青い魚は、ある日「きれいで、りっぱな」大きな緑の魚に声をかけられる。小さな青い魚は大きな緑の魚に連れられはじめて広い海の世界を散歩し、綺麗で魅力的な沢山の場所を教えてもらう。
・以降、小さな青い魚は毎朝大きな緑の魚とともに広い海の散歩に出かけることとなる。
・いつしか、小さな青い魚は怖かったウツボの穴の前を一人で通れるようになる。一方大きな緑の魚は次第に元気をなくしていく。
・やがて大きな緑の魚は死んでしまう。小さな青い魚は光の中を昇っていく大きな緑の魚を目撃し、「さようなら」と別れを噛みしめる。
・しばらくたち、小さな青い魚は海藻の影で怯える小さな小さな銀の魚を見つけ、かつての大きな緑の魚のように声をかける。すでに小さな青い魚は「おおきくてりっぱな」魚になっていたのである。
・そうして二匹(「ふたり」と表記される)は広い海へと出かけていく。

 こうして『ちいさなあおいさかな』のあらすじを纏めると、驚くほど『52ヘルツのクジラたち』と似た物語構造を持っていることに気付くだろう。両作品とも世界の片隅で怯えながら暮らしていた若者(三島貴瑚/小さな青い魚)が抑圧者(両親/ウツボ)から救い出され、やがて救う側に変貌していく姿を描いており、その過程で救済者(岡田安吾/大きな緑の魚)の死を経験している。

 両作品の差異を論じるにあたり、まずはキャラクターを対照させる。
・【主人公】三島貴瑚=小さな青い魚
・【抑圧者】貴瑚の両親=ウツボ
・【救済者】岡田安吾=大きな緑の魚
・【新たな被救済者】少年(以下52)=小さな小さな銀の魚
・【奉仕者】牧岡美晴=なし
すると、大きな差異として『52ヘルツのクジラたち』にのみ登場する「奉仕者」の存在が浮き彫りになる。奉仕者は主人公をただひたすらに肯定し支える役割で、救済者とは違い主人公の人生を変えるほど強引な介入は行わない。牧岡美晴がこれに該当する。
 牧岡は岡田以上に本作を象徴するキャラクターであると私は考えている。前章で述べた通り、彼女は三島が性の絆から逃れた先に姿を現し、シスターフッドによる家庭の代替を強調する役割を果たす。同時に、牧岡は男性性の軽視を露骨に体現するキャラクターでもある。彼女は三島を探し当てた際「仕事を辞めてきた」とあっさり言い放つ。「仕事=男性原理的な行為」という前提は昨今の実情と合わないが、歴史的には長らく強固な社会通念であったことは述べるまでもないだろう。
 仕事の価値を明らかに軽く見ている牧岡のイデオロギーは、自立できない身体的弱者男性を意識の外側に置いていた三島のスタンスに通じるものがある。実際三島も転居先で仕事を得ていないことを村中の祖母から注意されており、52と一緒に暮らす決意を固めた後も最後まで就職した描写がない。牧岡と同様仕事の重要性を明らかに低く見ていることが分かる。

 彼女たちにとって重要なことは仕事に代表される男性性の排除であり、シスターフッドの構築である。そんなシスターフッドの連携の輪に52も取り込まれることとなるのだが、解体された家庭の代替としてシスターフッドを提示することはやや安易なのではないかと私には思える。
 再び『ちいさなあおいさかな』に話を戻すと、大きな緑の魚が小さな青い魚に教えた場所には美味しい苔が生えた「こいしのひろば」が存在する。つまり、自立して食い扶持を確保する方法が伝承されているのである。しかしながら『52ヘルツのクジラたち』では三島も牧岡も食い扶持を確保する行為=仕事を軽視しているため、52が真の意味で自立することは(作中の状況が続くと仮定した場合)困難なのではないだろうか。

 映画『52ヘルツのクジラたち』は家庭の解体の先にシスターフッドを設定し、性の絆からの脱却や仕事への軽視など徹底した男性性の排除こそがファミリイ・アイデンティティの再構築に繋がると主張しているように私には感じられる。しかし、『ちいさなあおいさかな』のように救援の連鎖を正常に機能させるためには男性性の排除ではなく男性性をも包括したファミリイ・アイデンティティを模索する必要がある。本作をただ「良き物語」として受容するだけでなく、本作をきっかけに家庭の解体について今一度慎重に議論することが大切ではないだろうか。

【参考】
(1)上野千鶴子「家族の臨界:ケアの分配公正をめぐって」『家族社会学研究』20巻1号, pp.28-37, 2008.

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