(第2回)西南戦争前後

圧倒的な危機感に背中を押されて産声をあげた明治政府はバリバリに、
国民も「牛鍋じゃー!ザンギリじゃー!」と、
割とノリノリで近代化を進めますが
幕末の志士たちが政府の高官になって、当初の志が失われてきたことに幻滅した、維新の立役者である西郷隆盛は「俺はこんなことのために幕府を瓦解させたわけじゃないですよ」と陸軍大将のまま故郷鹿児島に帰って隠遁生活を送ります。

幕末「人斬り半次郎」と畏れられた桐野利秋など多くの軍人も西郷を追って下野しますが、西郷の弟、従道や従兄弟の大山巌、薩摩藩の盟友である大久保利通、後に日本警察組織の生みの親となる川路利良など、多くの要人も政府に残ります。

下野した西郷隆盛は薩摩の若者を迎えて私学校を作ったりしますが、
政府側からすると、西郷のことが気になって仕方ありません。
西郷が薩摩の旧藩主(の父)である島津公を擁立して挙兵し、政府に矛を向けるようなことがあれば大変ということで、大阪以西に内乱鎮静用の軍事組織として大阪、広島、熊本に鎮台を設置します。
でも実際、政権転覆を図ろうとか、西郷にそんな気はなかったようです。

しかし薩摩の若者達は、不満を蓄積させます。
なぜ維新の立役者である西郷先生の理想に反する政治を行うのかと、
なぜ政府と袂を別けた我々を監視するのかと。
遂に明治10年、薩摩の若者達が暴発。
西郷翁はそういった事態を望まなかったものの、
「わかった。俺の命、おまんらに預けるでごわす」

という決意で挙兵。一路東京へ向かいます。

このとき、薩軍と政府軍、どちらにも理はあったように思います。
しかし政府は公家とのつながりが強く、つまり朝廷、天皇に近い位置にあり、いち早く天皇の御心は我にありということで「正義は政府軍、悪いのは薩軍」というイメージを作り上げてしまいます。今でも「錦の御旗」といえば、「大義は我にあり」という意味で使われます。

まずは熊本城に籠城する官軍(政府の軍です)を討つということで戦が起きますが、当時の兵隊さんは、徴兵制が敷かれたばかりの頃ですから、
「農民が我ら薩摩武士と戦えるとでも思うのか」とかなり舐められていたのですが、これが豈図らんや、熊本鎮台の将、谷千城に率いられた熊本鎮台の官軍が善戦、これを食い止めます。
この時の官軍には乃木希典、児玉源太郎、大山巌や野津道貫や黒木為禎といった、後の日露戦争において日本を率い、多大な功績を残す人たちが多数参加しています。

つまり日本最後の内戦が僕の故郷熊本の城下町を中心に行われたわけです。
地震よって現在は復興の最中である熊本城ですが、
僕が熊本にいた頃の熊本城と言えば、大晦日のカウントダウンイベントとか
恋人同士のデートに活用される県民憩いのスポットであり、
僕はそういう歴史的なことには触れず大人になりました。
自分が生まれ育まれた土地の歴史を知るのは、とても重要なことだと思います。やはり根無し草として生きるのと、縦のつながりを意識できるのとでは、人間の性根に大きな影響を与えると思います。

ちなみにその頃の井上家はと言えば、伊三次さんの長男、夘四郎さんが6歳です。

薩軍は各地で驚異的な強さを発揮しつつも、物量、装備に勝る官軍に追い詰められ、ついに鹿児島への退却を余儀なくされ、城山で最後の戦いを行い、西郷隆盛は自刃、ここに日本最後の内戦、西南戦争は終結します。

そして大久保利道は内務省という超強力な組織を作って、
強力な権力を省庁に集中させ、日本の近代化を強力に推し進めます。
それと比例して旧士族の反感を買う事になり、遂に東京、紀尾井坂において暗殺されます。

ここからは僕の推測ですが、大久保は

「今はこうやってトップダウンで半ば専制政治を敷いてでも、
国をまとめ上げていく必要があるんだ。国の体制が落ち着いて、国力がついた後は、またその時代にフィットした体制をとれば良いんだ」

という強い想いがあったのだと思います。

しかし官僚機構は一度得た既得権益みたいなのを手放すことができず、
国の体制がまとまった後も、権力は中央に集中したままになっちゃって
今に至っているのではないでしょうか。

一言でいえば先達の志を、のちの日本人は受け継げなかった。
まぁ、戦後に関してはアメリカの意向も強く作用していると思うのですが。

ちなみにウチの娘、留希は母方のご先祖から名前をもらったのですが、
ご先祖のルキさんが夫、原口久平(僕の曾祖父の祖父)と結婚したのは明治5年の4月20日。

そして4月20日はどういうわけか娘、留希の誕生日です。

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