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僕の昭和スケッチ

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「僕の昭和スケッチ」は、昭和レトロを描いたもりおゆうのライフワーク画集。誰の心にもある遠い日の思い出を200枚を超える水彩画で・・・毎週月曜更新予定(祝祭日を除く)。
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2021年10月の記事一覧

「赤い看板」昭和からの絵手紙

 僕の昭和スケッチ番外短編集5 「赤い看板」 (一)銭湯にて その昔、銭湯の湯は今時の湯より格段に深く、子供ならゆうに潜って遊べる程だった。町内の子供らが銭湯で一緒になろうものなら、それはもう大騒ぎとなったものだ。 木の桶を浮き輪代わりにしてばしゃばしゃと泳いぐ、 互いに湯を掛け合う…、その挙げ句大人達に一括されてすごすごと湯から出る…そんな風だった。その大人達というのは、たいていは町内の顔見知りのおじさんたちだったが、時には見知らぬ老人だったりもする。 それが、昭和とい

「みんなで集めたグリコのオマケ」昭和菓子

 「僕の昭和スケッチ」105枚目 キャラメルの箱の上に小さな箱が付いていて、その中にこれ又小さな玩具が入っていたグリコキャラメル、覚えていますか? 歴史をたどると、なんと始まりは古く1927年。驚く事にそこから現在まで100年近く続いているのです。その種類は約3万種と言われていますが、僕にとって懐かしいのは何と言っても昭和40年代のプラスチィック製のオマケです。 上のイラストのように色々なオマケがありました。 入っていたオマケがカナヅチなんかだとちょっと↘︎気分でしたが

「兄と弟」昭和からの絵手紙

僕の昭和スケッチ番外短編集4 「兄と弟」 ある夏の午後、ヒサキと直治という兄弟が家から一里程の所にあるミミズ川という川に魚釣りに出かけた。 弟の直治が小三で、兄のヒサキが二級上の小五。 いつになく大漁で、ハヤやウグイが三十匹程釣れた。 二人を特に喜ばせたのは、その辺りでオババと呼ばれている20センチ程になるオイカワが釣れた事だった。オイカワは大きくなっても通常15センチ程だからこれは滅多に釣れない大物だった。 二人は嬉しくて、魚をバケツに入れて、家路についた。 大

「英子」昭和からの絵手紙

僕の昭和スケッチ番外短編集3 「英子」 二学期の席替えの日の事。 席替えのクジで堀川英子は、ヒデジと隣同士の席になった。 当時の小学校の机は、二つの小机が横並びで一体になった形のものだ。 そのため、隣の席に誰が座るという事は、子供達にとってかなり重要な関心事だった。 おまけに大抵は男女が一組になって座るので、 仲の良い子や、意中の相手がどうにか隣に座ってくれないものか…、と思う事は皆同じだった。 さて、英子の隣に座る事となったヒデジだが、ヒデジの隣に座りたいと思

「村の駄菓子屋」昭和からの絵手紙

僕の昭和スケッチ番外短編集2 「村の駄菓子屋」 岐阜市の北に黒野と言う所があり、揖斐線で市内と結ばれていた。揖斐線は二両編成の列車で、今は廃線になっている。 太一はちっちゃな頃から母親に手を引かれてこの二両編成の電車で黒野を何度か訪れていた。黒野には母親の妹が住んでいたからだ。 ある夏の事、一緒に来た母親は夕方になると先に帰り、太一はそのまま叔母の所に泊まって夏休みを過ごす事になった。 黒野で泊まって夏を過すのは初めての事だった。 黒野の自然は素晴らしいものだった。

「トシの日曜」昭和からの絵手紙  

僕の昭和スケッチ番外短編集1 皆さん、いつも「僕の昭和スケッチ」を見て頂き有り難うございます。 今日は、僕の昭和スケッチを始めるずっと以前に僕が描いた「昭和からの絵手紙」という作品をお届けします。 この「昭和からの絵手紙」は、今の「僕の昭和スケッチ」より文字数が多く、現在のようなエッセイではなく、短編小説の形式をとっています。絵も、文章に付ける挿し絵のような立ち位置となっています。 では、一話目・・・ 「トシの日曜」 トシの家は、野村という所にある大きな百姓屋だっ

「木とペンキの匂いがする昭和の駅」100枚目のスケッチ

 「僕の昭和スケッチ」 昭和の頃、、、小さな駅は、みんな木造だった。 どこかひんやりとした待合室はいつも暗く淋し気。 雨の日等は湿気もあり尚更暗い気分を誘った。 けれど、よく晴れた日には外の明るい陽射しが改札口にはいり、うたた寝を誘われたものだ。 今でも山奥や海辺に行けばそんな駅があり、降り立つと駅はタイムマシンのように人々を遠い昔に運ぶのだ。 <© 2021 もりおゆうのnoteの記事は全て著作権によって守られています> (© 2021 All articles i

「イチジクは秋からの贈り物」昭和の暮し

 「僕の昭和スケッチ」99枚目 イチジクは秋になると甘い実をつけ、戦後の貧しい暮しに一時の潤いを与える大事な果実だった。僕の実家でも裏庭にイチジクがあり、秋になると木に登って実を収穫するのが家族の楽しみだったものだ。 イチジクは熟れてくると本当に甘く、今時のスーパーで売っている固いものとは全く違う。スーパーで完熟した美味しいイチジク売られていないのは、完熟したものは余りにも実が柔らかく出荷に向かない事と、かといって完熟前に収穫したものは追熟しないためだ。 そんな訳で、秋

「石焼き芋がリヤカーで街へやって来た日々」昭和の風物詩

イラストエッセイ「僕の昭和スケッチ」98枚目 昔は、焼き芋屋がリヤカーを引いて町にやって来た。 調べてみると、移動販売の石焼き芋売りが現れたのは戦後の事で、歴史的には意外に新しい。終戦後の1950年にサツマイモが統制の対象外になった事がきっかけだったようだ(Wikipediaによる)。統制なんて言葉を聞くといかにも戦後感がある。 最盛期は昭和30年代から40年代といわれている。 さて、お値段の話しだが、、、 戦後当初は、安くてまさに庶民の友だった石焼き芋。 東京では