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無意識の意識〜『正法眼蔵』摩訶般若波羅蜜②〜

皆さんこんにちは。
本記事は、
ゆるく仏教哲学をご紹介する企画です。
本文を引用するとき以外は、
多くの方にとって読みやすいように
専門用語を使わずに書いてみたいと思います。

今回も『正法眼蔵』摩訶般若波羅蜜の巻です。鎌倉時代に生きた禅僧・道元が著した、
日本最高の宗教書とも呼び声の高い名著です。

この巻は、引用が多くなっていて、
道元による、古来からある仏教の考え方の紹介になります。
なぜこれを引用したのか、というところが重要です。

この記事は、②となっておりますので、
その前の記事も読んで頂けると理解が深まると思います。

特に事前知識は不要です。

では、本文に参りましょう。

観自在菩薩の行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり。五蘊は色受想行識なり、五枚の般若あり、照見これは般若なり、この宗旨(そうし)の開演現成するにいはく、色即是空なり、空即是色なり、色是色なり、空即空なり。百草なり、万象なり。般若波羅蜜十二枚、これ十二入なり。また十八枚の般若あり、眼耳鼻舌身意、色声香味触法、および眼耳鼻舌身意識等なり。また、四枚の般若あり、苦集滅道なら、また六枚の般若あり、布施・浄戒・安忍・精進・静慮・般若なり。また一枚の摩訶般若波羅蜜、爾今現成せり、阿耨多羅三藐三菩提なり。また摩訶般若波羅蜜三枚あり、過去・現在・未来なり。また般若六枚あり、地水火風空識なり。また四枚の般若、よのつねにおこなはる、行・住・坐・臥なり。
『正法眼蔵』摩訶般若波羅蜜

そして、私の超訳を掲載します。

観音さまが、お釈迦さまの気づきをそのまま体得した時とは、現実まるっと照見五蘊皆空であることに気づいた時である。それぞれを説明すると、五蘊(ごうん)というのは、もののあり方(色)・感じること(受)・概念(想)・意欲(行)・認識(識)のことで、この5つがあることを知っていることを智慧と呼ぶ。さらに言えば、これらを体得しようとする時に、私たちが生きている現実に照らし合わせて理解することを智慧と呼ぶ。
この真意が説かれるところによると、
あなたは、もっと自由に人生を描けるし(色即是空)、自由であるのはあなたであり、(空即是色)、自由それ自身もそれは当てはまる(空即空)。全ての植物にも当てはまるし、全てのものに当てはまる道理である。摩訶般若波羅蜜とは12個あり、それは十二処や十八界と呼ばれ、色・声・香・味・触・法・眼・耳・鼻・舌・身・意のことである。
また四諦と呼ばれる教えがある。
この世は苦しい、
だからこそ、
無駄な執われを無くすトレーニングをしながら自由に生きていこう。(苦集滅道)
また六波羅蜜という教えもある。
・人の喜びを自分の喜びとすること(布施)
・守るべきルールに従って生きること(浄戒)
・盛れてない現実を受け入れること(安忍)
・改善し続けること(精進)
・己を見つめて坐禅すること(静慮)
・この世の理を理解すること(般若)
このように様々な教えを紹介してきたが、
これらを全て包含する一つの智慧が、
いまここに現れている。
それは因果という波に乗っている現実世界、
そして、他ならぬ私たちである。
このこと以上の知恵は存在しないのである。
過去・現在・未来という流れは常にあって、
その中で最新を生きているのが、私たちなのである。地も水も火も風も空も同様である。
そして、
・歩くこと(行)
・留まること(住)
・坐禅(坐)
・寝ること(臥)
これらも、丁寧に行わなければならない。

ここで切ります。

ここは、道元の自説を盛り込みながら、
インドから伝わる仏教の紹介をしている場所ですね。

その中で、六波羅蜜という徳目がありました。

・人の喜びを自分の喜びとすること(布施)
・守るべきルールに従って生きること(浄戒)
・盛れてない現実を受け入れること(安忍)
・改善し続けること(精進)
・己を見つめて坐禅すること(静慮)
・この世の理を理解すること(般若)

これは、現在の曹洞宗では、
お彼岸を迎えるにあたって、
少しだけ意識してみよう!と打ち出しています。
中日を抜かした前後三日間で、
一日一善みたいな感じで、より意識して過ごすと、人間関係もよくなりますし、SNSで虚栄心が強くなってしまった人はクールダウンできます。自分自身、そして自分の生活を見直す期間になればいいなと思っています。
またら、
道元は、最後に行住坐臥が大切だ、語っています。日々の暮らしをないがしろにしては、何も成し遂げられません。
古代ギリシャの有名なアフォリズムで、
「健全な魂は、健全な肉体に宿る」がありますが、
道元流に表現するとしたら、
「健全な心は、健全な生活習慣から形成される」になるでしょうか。

自分は今何をすべきか、
それをひたすらに道元は彼自身に、
そして、私たち自身に問い続けています。

他にも、
・五蘊
・色即是空
・四諦
・十二処(十八界)
など、なんとなく聞いたことあるような仏教用語にも、自分なりに解釈を示しておきました。
ぜひご参照頂けると幸いです。

ここからは、道元による引用です。

お釈迦さまが生きている頃、ひとりの弟子が、心の内にこんな気持ちが芽生えた。
「私はお芯を食ったお釈迦さまの教えに敬服するに違いない。世の中には生や滅みたいな決まったものはないと言っても、ルールを守り、坐禅をして、お釈迦さまに教えを乞えば、本来は決まった形がないとしても、私の心の中にはある。また悟りにいたる一つ一つのステップを経てきたこと(預流果・一来果・不還果・阿羅漢果)も達成感としてある。また、仏を信用していない人(独覚菩薩)ですらもそれを感じられて、
仏さま・その教え・それを守る人たち、これら三宝と私たちは共にあることを感じる。
そして、
お釈迦さまに教えを受けて、それを誰かに伝えるとき、自分は人の助けになっているという実感を与えてくれる。」お釈迦さまはこの気持ちを察知して、弟子に言った。
「その通りである。この世の理とは、なんとも筆舌に尽くしがたく素晴らしいもので、一つの物差しでは測れないものなのだ。」
大般若経巻第291「著不著相品」

ここで道元の注釈が入ります。

この「一人の弟子」が「ひそかな思い」のなかで「満ち足りているあり方」に「手を合わせた」ことから考えても、「他人がこう言うからではなく、あなたのちょうどいいを探す」という智慧こそがそれまで誰も考えてこなかった、仏教固有の教えなのである。
切なる気持ちで手を合わせると同時に、
「智慧が心の中に残る」ことで、教えが形を表すのである。
ルールや坐禅、智慧乃至誰かの役に立つという経験などは、形を持たない。形はないけれど、各人の行動や言動などの習慣として、表れている。これが、とても奥が深くて、とても決まった物差しで測ることができない智慧である。

私見を示すと、
道元がこの引用を通じて伝えたいことは、
『正法眼蔵』に書かれている内容が「お釈迦さまから正しく伝えられた教え」であると同時に、心と身体が一つであり、頭脳を含めた身体でもって、教えを吸収していくのだ、という考えが展開されています。
ちなみに、ここはよく誤解をされがちです。
頭を使わなくても、お釈迦さまを敬う気持ちさえあれば、智慧を体得できると説明されることがあります。
私からすれば、それは冒涜にも近い表現です。
仏教とは智慧のことで、頭から足の指先まで行き渡らせることで、それを体得と定義します。
覚えているだけではダメで、
こなしているだけでもダメで、
ここだ!という時に、とっさにその引き出しを開けられるレベルまで自分のものにせよ、と言っているのです。
無は、形としては何もないだけであって、形而上では存在するものである。
例えば、ごめんなさいという謝罪。
妻が大切にしているコップを割ってしまった。
咄嗟に、妻へ「ごめん!割っちゃった」と口走る。
「大丈夫?怪我ない?」
「うん…。本当ごめんね。」
「気にしないで。」

謝罪というのは、影も形もない。
謝った所で、コップが元に戻るわけでもない。
しかし、私たちは衝動的に謝罪に駆り立てられるようなものです。 

このように、無意識レベルまで、
お釈迦さまの教えを吸収するのである。

誰かに優しくすることは、誰かに見られているるからとか、好かれようとして行うものではなく、無意識レベルで駆り立てられるものなのです。これによってこそ、人生に深みを与えるのです。

長くなりましたので、
今回はここまでにさせて頂ければと思います。

次回、摩訶般若波羅蜜の巻、
いよいよ完結です!

何かご質問がありましたら、
ぜひコメント欄にお寄せください。

参考文献
『正法眼蔵』(一) 道元著 水野弥穂子校注 岩波文庫
『古くからの実践行、忍辱波羅蜜の現代的解釈』崔恩英 大正大学研究紀要100号特別号

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