美術館「見、見られ」のすゝめ
「ここにあるものはそこにあり
そこにあるものはここにある」
というのは、「見、見られ」としてお互い関係している。
そもそも「見、見られ」というのはどういうことなのか。日本哲学の巨塔である西田幾太郎も影響された禅語では、こう述べられている。
「井、驢を覷(み)るが如し」
ある禅僧は修行僧に問いかけた。
「仏様が我々に手を差し伸べるのは何故か」
修行僧はこう答えた。
「それはロバが井戸を見るようなものだ」
禅僧はまだそれでは八割しかあっていないと言って、その後こう答えた。
「井戸がロバを見るようなものだ」
我々はどのようにして「驢、井を覷(み)るが如し。井、驢を覷(み)るが如し」を体験できるのであろうか。つまり、どのようにして「見、見られ」を体験するのであろうか。
私たちが「見、見られ」を体感するのに、いちばん手短な導入口は、美術館である。
作品が「見、見られ」を体感する最終的な着地点だとすれば、作品に導く美術館というのは導入に相応しい形をしている。私たちは、よほど日常から感性が鋭くない限り、「見、見られ」を体感することができない。であるから、導入をしてくれる空間というのは、補佐係として大変重要に働く。
まず、家から出る時は、自分の刺激にならないものを羽織るといい。おしゃれも、気合を入れてしなくていい。ただ、自然体に、空間に溶け込むような体でいたらいい。
美術館が見えてきたら、その道中も、導入の空間だと思って進むのがよい。実際、感性に優れた建築家は、敷地内全てを使って空間を計算している。匠によって計算された空間を、しかと味わうのが、導入の入口である。
美術館に入ったら、その建築が放つ空間、空気の匂い、光の当たり方、色、傾斜、道の流れに身を任せるのがよい。
興味津々な人なら、何故このように傾斜だっているのかと、様々な方向から観察して、クロッキーさえしてみたくなる。だけれども、それは外的である。私が、空間を見ているのである。外的にもあらず、内的にもない、外的と内的が混在した場を得るならば、空間に身を任せなければならない。自分の感の赴くままに、ゆっくり進んでみるのがよい。
作品を目の前にしたら、感じてみるのがいい。そうすると、まず第一に、全く知らない人間の生がそこに見えてくる(時たま、この技法はなんだろうという頭がよぎってくることもある)。一身にその生を受けることは、かなりの疲労感を伴う。
第二に、作品を通して、作家の生が発露されたのち、私の生と混ざり合う。私の生が、作品に反映する。作品を見て、どう感じるか、私の過去の思い出の何を燻ったか、私の心のどこを焦らすのか。作品に私が見えてくる。要するに、作品に私を見ている。
第三に、作家の生と、私の生が混在して、空間を作り上げる。私が作品を見ているとき、作品もまた私を見ている。「見、見られ」がそこに出来る。そして、私は今「見、見られ」をしているなと自覚した時、ハッと周りを見渡す。そうすると、何人もの鑑賞者がもうとっくの向こうに行ってしまって、自分だけが作品の前で長い時間を過ごしていたことに気がつく。
没入するのは、大変疲労感を伴う。一作品を鑑賞するだけで、座って休まなければならないくらいに疲れてしまうことさえある。美術館には休めるソファーがところどころに置いてあるから、いちど頭を空っぽにしてみるのもいい。それほど、誰かの生に向き合って、自分の生に直視する作業というのは、エネルギーのいるものなのである。
(ちなみに、私はマラソンをするより、受験勉強をするより、作品を通して「見、見られ」をする方が疲れてしまう。マラソンは身体的な疲労、受験勉強もまた身体的かつ外的なものに作用した疲労である。それよりも、内的なもの(人の生)に向き合うことのほうが、何倍も疲れてしまう。それほど、人の生は根源的なものである)
tat tvam asi
ピッピちゃん
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