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純粋経験の心像の具体例

西田幾多郎の『善の研究』の基本的な概念としては純粋経験と主客未分があります。

所が純粋経験も主客未分も具体的な事例に乏しく理論的構造的な枠組みも明確ではありません。

また純粋経験と思惟、意志との関係も良く解らないとか矛盾しているとか疑問に感じているようである。

西田幾多郎の純粋経験は感覚や知覚、表像、心像であっても「色を見、音を聞く刹那」といい意識にあがって明確に認識される以前の感覚をいう。

しかも純粋経験は行為の原因である。

今回は「心像」の具体例を考えてみる。

例えばノックをして部屋に入ってくる訪問客があったとする。

そこでノックの音を聞いて訪問客の存在を知って「どうぞ」と声をかけると考えるだろう。

そうすれば「ノックの音」が「どうぞ」という返事の原因になる。

ところが「ノックの音」を聞いて音の消えるか消えないうちに即座に返事をする者もいる。

その場合の返事の原因とはなにか、行動には原因から多少の遅延が生じることを考えれば不可能である。

この場合返事の原因は廊下を歩く足音の個人の歩く特徴から特定の人物の心像が生じていた考えられるのである。

まだ見ぬ人物の心像をもとに誰かを判断していて部屋に入っても良いと決断をしていたことになる。

足音にはそれぞれ特徴があり、おおよその人物の特定はほぼ確実に推定可能であると経験したおぼえがあるだろう。

それでも目の前にいない人物は見えて居ないから判断した訳ではないから主観と客観が一致したのではない。

だから部屋の主からすれば足音の人物は主客未分の状態であり純粋経験でもある。

しかも部屋の外の人物を意識して考えていたことではないだろう。

何故なら音は無数に存在しており部屋の外にばかり注意をしているわけではなかろう。

しかしその純粋経験は過去の経験の記憶から歩く速さ、体重のかけ方、歩幅などの混沌とした中にも一つの統一として特定の人物を連想していると考えられるのである。

また足音から心像が生じるといっても人間の姿や顔を浮かべて居る訳ではなく漠然としたイメージである。

このような心像が行動の原因であるが意識することはなかろう。

主客未分というような用語を持ち出すと訳が解らなくなるが漠然としたイメージや心像を純粋経験という。

それでも姿かたちのない心像だから人に伝えることはできず、表現出来ないから主客未分という。

図形でも言語でも表現出来ず伝えることがないから意味がないともいう。

意味とは言葉で文節して体系化して初めて意味が生じるからどうしても言語化しなければ成らない。

ところがドアを開け人間が入ってきて心像と現物の人間が比較され名前が確認されれば客観的な意味をもつ。

純粋経験とは意識の影として力として生きる意味を裏方として支えているから純粋経験をおろそかにしてはならないのである。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

青空文庫を参照引用しました


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