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『坊っちゃん』論3:ラカンの想像界、象徴界

漱石にとって「清」がいなかったら作家漱石はうまれなかったと言っても言い過ぎではないでしょう。

漱石はそれほどに「清」に感謝の気持ちこめて書かれているのです。

「清」は仮の名前ですが漱石が「清」をどのように思っていたのか明らかにしてゆきます。

清の存在による性格形成過程とはどのようなものであったか。

清の存在は坊っちゃんにとって状況の特別な変化であった。

坊っちゃんにとって清の登場は天地が逆転した程の変化であった。

おやじからは顔を見ればダメだダメだ言い続けられ、ろくな者にならないと言われており。

両親や町内で無視され邪魔者扱いされて来たのが一転して、ちやほやされ、褒められ可愛がられた。

ところが坊っちゃんにはこのような環境に適応する習慣がなかったから戸惑うのです。

「清の様にちやほやしてくれるのを不審に考え」

「清の云ふ意味が分からなかった。」というのです。

なぜなら「好い気性なら清以外のものも、もうすこし善くしてくれるだろうと思う。」のです。

ここで「意味が分からなかった」と坊っちゃんがいいますが、

それは作家漱石の言葉であって坊っちゃんの無意識だったのです。

これは教師である坊っちゃんの過去の状況であって、自我の確立していない坊っちゃんには意識されてないのです。

漱石によって言語化されてはじめて出てくる意識であり言葉なのです。

無邪気な少年坊っちゃんにとって「正直」などは理解できなかったのです。

だから当時の坊っちゃんにとって「意味が分からなかった」などとの疑問すらでてこないのです。

この心理を理論的に説明しょうとするとラカンの想像界、象徴界を解説しなければなりません。

ただ簡単に言えることは無意識を意識化するには言語化が必要になることです。

その言語化された作品『坊っちゃん』を見てゆきましょう。

坊っちゃんは「母が死んでから清はいよいよおれを可愛がった。時々は小供心になぜあんなに可愛がるのかと不審に思った。つまらない、廃(よ)せばいいのにと思った。気の毒だと思った。」といいます。

これまでの坊っちゃんの性格、習慣、意識の推移から見れば清の対応は受け入れがたいものであった。

それでもやがて坊っちゃんが清の評価する「正直」や「心が奇麗だ」「あなたは真(ま)っ直(すぐ)でよいご気性だ」と言った性格傾向を選択するにはそれなりの原則があった。

考え方によってはこれらの性格傾向は「乱暴」な性格に対立し矛盾する性格傾向であり。

むしろ「心が綺麗」や「眞っ直でよい御気性」などは優しい性格と考えられ、

行動的な性格傾向を持つ坊っちゃんから拒絶され反発されるとも考えられます。

坊っちゃんの自我からから拒絶され無意識の領域に追いやられるのです。

ここで坊っちゃんが「正直」に代表される性格傾向を選択したことは間違いないとして。

坊っちゃんにはこの時点で二つの選択可能な清の態度に出会うのです。

清は坊っちゃんを可愛がるあまり「依怙贔負」はする「胡魔化し」「不公平」もする、坊っちゃんの為に盲目的に献身するのです。

坊っちゃんにとっては居心地の好い生活です。

それでも坊っちゃんは「胡魔化し」「不公平」は選択せず、「正直」を選択をするのです。

何故なら清との出会い以前から坊っちゃんにとって、母の兄に対する「依怙贔負」を嫌っており、兄の「ずるい」性格を善く思っていなかったのです。

このように坊っちゃんの行為は「正直」であるか、ないかと言う基準があり、その基準に従って行為は選択されて行くのです。

客観的に「正直」であるか否かではなく、坊っちゃん自身が、「正直」であるか否かを意識した場合に限られるのです。

それでも坊っちゃんは清の「依怙贔負」と言う愛情、無償の献身、に甘え充実した満足な生活を送っていたのです。

注意深い読者は「依怙贔負」「胡魔化し」「不公平」を本当に嫌っていたなら、断固として拒絶したのではないかと。

あるいは母や父兄に対立したように清の人間性に不信感を抱いていたのではないかと考えるかもしれません。

しかしむしろ清を「立派な人間」と認めているのです。

この矛盾はどのように解釈したらいいものでしょうか。

この矛盾を解く鍵は『坊っちゃん』と言う作品は坊っちゃんが過去を回想している点に目を付けることです。

と言うのは「依怙贔負」「胡魔化し」「不公平」と言った清に対する評価は、成長した坊っちゃんにとってであり、その当時の坊っちゃんの評価、見方は全然逆であった。

松山の中学校の教師として相対的に早い時期のものは次の様に書いています。

「清(きよ)なんてのは見上げたものだ。教育もない身分もない婆(ばあ)さんだが、人間としてはすこぶる尊(たっ)とい。今まではあんなに世話になって別段難有(ありがた)いとも思わなかったが、こうして、一人で遠国へ来てみると、始めてあの親切がわかる。越後(えちご)の笹飴(ささあめ)が食いたければ、わざわざ越後まで買いに行って食わしてやっても、食わせるだけの価値は充分(じゅうぶん)ある。清はおれの事を欲がなくって、真直(まっすぐ)な気性だと云って、ほめるが、ほめられるおれよりも、ほめる本人の方が立派な人間だ。何だか清に逢いたくなった。」

これは清とはなれて生活してみると、清の親切が良く解かると言うもので、全面的肯定評価です。

この時点で清の態度に「依怙贔負」「胡魔化し」「不公平」を感じていないのです。

清に対する坊っちゃんの意識の推移には「正直」以外の外的要素は認識されていないのです。

例え意識の表面に浮かび上がっても、直ぐに忘れて仕舞うのです。

フロイド的に言えば抑圧され無意識の領域に抑え込まれてしまうのです。

もう一つ次の文をみてください。

「どこでどう胡魔化(ごまか)したか札の代りに銀貨を三円持って来た。この三円は何に使ったか忘れてしまった。今に返すよと云ったぎり、返さない。今となっては十倍にして返してやりたくても返せない。」

もうお分かりだと思います「今となっては十倍にして返してやりたくても返せない」この回想は清が亡くなってからのものです。

「返せない」と言うことは遠く離れているから「返せない」のではなく、もう生きてはいないから「返せない」のです。

事実に対して客観的に清を評価しています。

清が坊っちゃんを可愛がる手法として、特別あなたを愛しているのですよと表現しょうとすると、「不公平」「依怙贔負」と言う方法が効果として最善でした。

だから清と生活している期間は清の献身的な愛だと受け取られたのでしょう。次の例も見て下さい。

「清が物をくれる時には必ずおやじも兄も居ない時に限る。おれは何が嫌いだと云って人に隠れて自分だけ得をするほど嫌いな事はない。兄とは無論仲がよくないけれども、兄に隠して清から菓子(かし)や色鉛筆を貰いたくはない。なぜ、おれ一人にくれて、兄さんには遣(や)らないのかと清に聞く事がある。すると清は澄(すま)したものでお兄様(あにいさま)はお父様(とうさま)が買ってお上げなさるから構いませんと云う。これは不公平である。おやじは頑固(がんこ)だけれども、そんな依怙贔負(えこひいき)はせぬ男だ。しかし清の眼から見るとそう見えるのだろう。(中略)今から考えると馬鹿馬鹿(ばかばか)しい。」


 これも「今から考えると馬鹿馬鹿(ばかばか)しい。」とあるように清の生存中の回想では清の「不公平」「依怙贔負」「胡魔化し」さえも清の愛情と感じているのですが、時間が経てば客観的に観察評価しているのです。

 この考え方の変化についても『創作家の態度』で「世界は観ようで色々に見られる」清の態度も見方によっては「胡魔化し」とも、無償の献身とも見られると言うことで、見る立場やみる視点の違いによって、おおいに異なると言う。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


引用参照は青空文庫です。

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