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POP LIVES

 森田芳光監督作品のマイ・フェイヴァリットは『(ハル)』、『の・ようなもの』、『未来の想い出』、そして『キッチン』だ。

 橋爪功演じる絵里子はトランスジェンダーの美的生活者で、好き嫌いの感情がはっきりしている。日常で普段接する人間に対してもジャッジの目はきびしく、ウマが合わないと判断するや、速攻で心にシャッターを下ろす。川原亜矢子演じる主人公・みかげは絵里子のお眼鏡にかなったのだろう。両手いっぱいから溢れるほどのカラフルなドレスをリビングのテーブルに広げ、みかげにプレゼントしようとする。

「自分を殺して、まずは着てみることよ」

 己れの趣味・嗜好を一旦カッコに入れることで拓ける世界。自身のラジオ番組でも明言するとおり、『森田芳光全映画』の共著者である宇多丸の映画鑑賞の作法は、そうした柔軟性に裏打ちされている。

 マニフェストとでも言うべきまえがきにもあるとおり、森田芳光の本質が〈題材の本質に相応しい独自のコンセプトや方法論をまた一から構築して(中略)個々の作品に臨んでゆく〉姿勢にあるのだとすれば、彼のキャリアを丸ごと論ずるのに、宇多丸ほどの適任はいない。

 〈映画史にも自分史にも甘えない〉という森田のチャレンジ精神は、かつての著者をも含むシネフィルの保守性を改めてあぶり出しもするけれど、彼の妻でありプロデューサーでもある三沢和子と宇多丸の対話からは、あくまで故人のチャーミングな人柄がひしひしと感じられ、ページの端々に陽性のヴァイブスが漲っている。「フライシャーならどうする?」というような単一の座標軸なんか捨て置こう。無用なヒエラルキーを生むばかりじゃないか。

〈確とした“自分の方法論”があるとは思っていない。その都度、その素材にあった切り口、料理法を探して呻吟してます。癖のついた包丁を呪いながら〉(『争議あり』より)

 作家主義にアゲインストする荒井晴彦の流儀は極めて真っ当で、本来ならば、王道に位置付けられてしかるべきだ。彼は『未来の想い出』を年間ベストテンに選び、監督としての成熟を褒め称えた。

 また、大谷能生は『ジャズと自由は手をとって(地獄に)行く』のなかでこう書いている。

〈過去を省みず、その時々に自身の音楽にとって必要だと思われる作業を連続させてきた坂本龍一の圧倒的な傍若無人さ〉

 坂本と森田はほとんど同世代だ。近藤等則もそう。彼のラスト・アルバムの『Born of the Blue Planet』は、ジョン・ゾーンが絶賛した『Fukyo』における静謐を更に純化したもので、さながら「水で書かれた物語」だ。音像にインダストリアルな意匠を凝らしたIMAバンドとは、全くもって対照的である。ベクトルこそ違えど、『レヴェナント』や『async』も枯淡の境地に足を踏み入れている。それこそ『未来の想い出』のように、歴史にアナザー・テイクがあるとすれば、街の中の雑物とたわむれ続けた江戸っ子の森田芳光の「いまここ」はどんなだったろう?エンタテインメントに徹したこの作品のウェルメイド性について語る宇多丸のヴォルテージは一際高く、心の師に代わって三〇年越しの捲土重来を果たそうとする様は、セルジオ・レオーネの『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ザ・ウエスト』におけるチャールズ・ブロンソンのようで、弓がしなり切っている。それでいて、いたずらに感情的にはならず、モリタ流娯楽映画の骨格と肉付けを丁寧に解きほぐしてゆき、敢えてのリップシンクのズレをも見逃さない。清水美砂と工藤静香が向かい合って漕ぐボートは、まるで生と死の境を行き来するかのようにして、繰り返し湖面を左右に横切る。二人のアップはアフレコの不自然さを強調し、遊離感を漂わせる。大澤誉志幸の「そして僕は途方に暮れる」が流れるのはその直後。菊地成孔は、自身のラジオ番組で、亡くなった母親にこの曲を捧げた。

〈この曲に出てくる、象徴的な分岐点、一種の関所である「雨のハイウェイ」が何を意味しているかは説明するまでもありません〉

 人生が二度とあれば、三度あれば。それでも満たされないのはどうしてだろう。私たちの望むものは、お金でも名誉でもないみたいだ。

 三沢和子は『キッチン』についてのトークショーのなかでこう述べている。

〈世間で「これ」って決められる人間関係はひとつもないし、ナイーヴであるがために傷ついて孤独を感じている人たちが一瞬でも幸せになったりする。そういう微妙なものをすくいあげている〉

 『の・ようなもの』の前年に刊行された『太陽王と月の王』のなかで、澁澤龍彦は、妻と二人だけの最小単位を「社会」と規定した。『阿佐ヶ谷姉妹ののほほんふたり暮らし』が多大なる好評をもって受け入れられる現状を思うと、森田芳光の不在がより惜しまれる。『ときめきに死す』で描かれた男女のトライアングルは、その一角が身の丈に合わない大義に囚われてしまっていたため、期限付きの儚いものであったのだが、ミニマムな関係が醸し出す不思議な充足感は、ゼロ年代の代表作『間宮兄弟』にも通底する。原作者の江國香織の反対(言うまでもなく、作者の自由なので、それはそれで正しい)によって撮られなかった続編は、現代における他者性を改めて問い直し、個人の幸福を再定義するための貴重な試金石に成り得たのではないだろうか。

 鈴木紗耶香が編集した『雨宮まみさんと、私たち。』の後半部には、全国の雨宮まみの愛読者へのアンケートの回答がまとめられている。そのどれもが、四つの質問をきっかけに、じぶんの感情や人生と改めて真摯に向きあった形跡が見て取れる素晴らしいものであった。なかでも、ReRe8という方のことばが強く印象に残っている。

〈雨宮まみがいない世界を、それでも生きる人が自分以外にもいる、ということが支えになっています。それは小さな星のようで、いずれ見えなくなるのかもしれませんし、そもそも探すこともしなくなるのかもしれません。どういう形であれ、生き抜こうと思います〉

 エリザベスが遠くに見つめる街の灯。「面白い人がいっぱいいるわね」。その誰にも会えなくたってかまわない。『キッチン』の撮影中にパニックを起こした川原亜矢子の手を、何も言わずにそっと握った森田芳光のやさしさは、彼が遺した映画の隅々に息づいており、いつだって私たちをやわらかく暖めてくれるはずだ。暗闇で発光するミキサーのように。

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