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【今週の読書】批判に向き合うということ

もはや先週ですが、気にせず今週の読書です。
今週は経済学と考古学。特に意図したわけではないのですが、どちらも今の理論や新しい説を批判する本でした。

自分(自分たち)の考えと真逆の内容が出たときにこれらとどう付き合うか

批判したくなる気持ちもわかるけど、対立構造ではなく、一度深呼吸をして、相手の考えを理解しようとする努力はしたい。そして、自分が変わってもいいということも許容したい。

国の施策も柔軟に変えられないのかな。
一貫して勧めていくのが良いのか、柔軟に路線を変更するのがよいのか。
このバランスも難しいな。

では、それぞれの本の感想分です。
(オリジナルはブクログです。感想は本を読んだ当初のものです)


目からウロコが落ちる 奇跡の経済教室【基礎知識編】/ 中野剛志

以前、spotifyにある「a scope 資本主義の未来編」という音声配信で、武井浩三さんが語っていた貨幣の話と似ていたのと、NHK学びのきほんシリーズ「大人のためのお金学」やコテンラジオの構造主義の話など様々なところで、お金は信用が起源と言っていたので、比較的内容は理解できました。それを現代貨幣理論(MMT)と言うことは知らなかったです。

仮に今やってることがうまくいっていなくて、新しい説が出たとして、国全体でその新しい説にトライするのは相当勇気のいる決断になるんだろうなって思いました。ましてや真逆の施策であり、公共事業ガンガンやっていくとなると、少し怖さも感じます。できれば、有益な公共投資だけにしてもらいたい。

個人的に現代貨幣理論を実行する難しさは財源なるものがないと言うことな気がしました。
財源がないなら何を基準に投資をすればいいのか。財源があれば上限があるので、施策の比較をして決めていけるけど、上限がないと本当に必要なのか、という問いを真剣に考えなければ判断できない。いやいや、財源あってもちゃんと考えろよ、って感じですが、表面上はどんな事柄も良くも悪くもできるので、納得できる判断がかなり難しくなるなって気がしました。逆に、本当に必要なのか、を議論していくいい機会になるのかもしれません。そういう練習をしていってもいいかもですね

あと個人的に経済論争のディスり合いはやっぱり好きになれません。真逆のやってはいけない施策を実行して、国が疲弊してると思うと名指しで批判したくなるのかな。もうちょっといい批判の仕方ないのかな。ちゃんとアウフヘーベンする姿勢で臨みたい

ただ、批判の中にあった今の経済学派の人が間違いを認めないのも好きじゃない。
先日テレビで、市の市議会に潜入して、居眠りや趣味の本などを読んでる議員を発見して、その議員に何をしていたのかをインタビューをする番組があり、市議会議員の人が絶対に非を認めず、瞑想だとかやってないとか、そんなルールはないとか言っていたのは、ほんとにアホらしい。
こんな人とアウフヘーベンできるのかが疑問であるけど、人ではなく行為に批判的になり、その人全体がダメなのではなく、その人の良い面に目を向ける努力を個人的にはやりたい。議会がつまらないのが問題なんだと思う。人の力を発揮できる環境を作りたい。だから、ちゃんと僕には難しいんだよ、と正直に言ってもらいたい。こういうのを言えるかどうかも環境なのかな

自分のことを理解できるのは自分だけではできない。他者とその環境が必要だ!

土偶を読むを読む / 望月昭秀

「土偶を読む」を読んで、考古学会批判が結構書かれてて、それはどうなんだろう、と思っていたら、なんと「土偶を読むを読む」という考古学会の視点からどう捉えてるのかを書いた本があると言うことで、これは両者の言い分を聞かないと失礼なので、読みました。

読んで改めて思ったのは、批判本は嫌いだなと。批判するのはいいのだけど、批判の仕方がなんか子どもじみてるというか、相手を馬鹿にしてる感じがして嫌でした。

コトを批判して、人格を否定しない
批判の時に相手をバカにしない

こういうことは注意したい

でも、「土偶を読む」のように、一つのストーリーで土偶を語るのは、ただ我々がスッキリしたいと言うだけで、ある側面でしかないのかもな、と「読むを読む」を読んで思いました。

わからなさと向き合う

結構大事なことだと僕も思っていて、科学の発展でわかることは増えてきてるけど、全てを分かろうとはせず、少しずつ教えてもらえることを喜んでいきたい。

あと専門領域の難しさを感じました。
議論の蓄積があって、やっぱりそれを前提にした議論をしていかないと、過去の研究者たちに失礼だし、だからと言って、膨大な研究領域を調べ切ってからしか研究できないのも違うと思う。この塩梅をどうしたらいいのだろうと思いつつ、お互いが歩み寄るしかないのかな、って気がします。

オレがオレが、みたいにならず、閉鎖的にもならず、閉鎖的になってないつもりが実はなっていることにも自覚的になり、お互いがちゃんとアウフヘーベンできる土台ってできないだろうか。

巨人の肩にどこまで乗って、どこから降りるのか。
哲学では、哲学カフェとか、結構オープンな活動ができてるので、こういうのが参考になるのかな


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