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短編小説 「花束とチョコレート」

それは駅によくある、うす汚れた銀色のゴミ箱に捨てられていた。仕事の行き帰りにいつも通っている駅前広場の一角を、そんなふうに立ち止まって眺めたことはこれまで一度もなかった。

花束だった。バラ、ガーベラ、かすみ草、そのほかにも、名前の知らない鮮やかな花々がそこに入りきらず、あふれるように咲いていた。冬の朝の空気が、そこだけいっそう磨かれたように澄んでいた。

「ねえ、どうしておはな、すててあるの?」

赤いベレー帽を被った少女が通りすがりに言う。信号を渡ってすぐのところに幼稚園があった。スーツ姿の母親は出勤前なのだろう、返事もそこそこに先を急ぐ。

「ねえ」

答えをねだる黒い瞳とまっすぐ目が合う。わたしはそれを曖昧な表情で受けた。

(こんなにたくさん、お花が捨てられているなんて、悲しいよね)

わたしは無言の目配せを送った。しかし幼いその瞳はゴミ箱のささやかな憂いなどすでに忘れ去り、もう新しい祝福を捉えていた。広場中央に設置されたクリスマス・ツリーへ向かって、彼女はいちもくさんに駆け出していた

「基本、皆はそのやり方じゃないのよね」

チーフはそう言って、小さくため息をついた。

「まず最初に、手順書は確認した? 何度も言ったと思うけど……」

チーフの絡みつくような喋り方が、その場にいる全員をひどく緊張させていた。入社一年目の荒木あらきさんにに助け舟を出すか知らんふりを貫くか、瞼を閉じて秤にかける。わたしにとって大切なのは、どの憂鬱を選び取るか決めることだ。それは一日を安らかに終えるための儀式のようなもので、本心に従うとろくなことがない。いつからかわたしは、余計なことを考えないことに決めた。

荒木さんは青い顔をして、申し訳なさそうに小さくなっていた。「手順書」と書かれた分厚いファイルを胸に抱える手が震えていた。数種類の色の付箋がびっしり貼りついたそのファイルは、彼女が歴代の前任者たちから受け継いだものだ。黄色の付箋は◯◯さん、青色は△△さん、オレンジ色は…… せいぜい一年前のことなのに名前が思い出せないのは、皆数ヶ月も経たないうちに辞めてしまったからだった。

「わからないことがあったら、すぐその時に聞いてね? 取り返しがつかなくなってからでは遅いの。みんなに迷惑をかけることになるから。今回みたいに」

「……わかりました」

「あなたのためを思って言っているの」

さあ話はこれで終わり、とチーフは、手の仕草で荒木さんを追い払った。荒木さんは床に目を落としたまま「はい」と小さく答えて引き下がった。

タイミングはいくらだってもっと前にあったのに、終わってから指摘するチーフのやり方は大人気のない意地悪そのものだった。前任者から引き継ぎなしで着任した荒木さんは、明らかにこの場で誰よりも一番弱く、無力で、可哀想な存在だった。

一年目は、わたしにも同じようなことがあった。「それ、どういうことかわかってる?」朝からひたすらチーフのご機嫌を伺い、いざ勇気をふりしぼって質問したのに、思いがけず攻撃的に返された時の、あの違和感が忘れられない。どうしてこの作業をするのか、どういう理由でこの手順なのか、その全体像や意義まで理解できていないからだと、執拗に追いつめられた。

瞼の裏側の濁った灰色に、たくさんのそんな場面が次から次へと追いかけてくる。キーボードに指を置いたまま、随分時間が経っていた。

「あー、今日も機嫌悪いねお姉様」

ふと手元のスマートフォンが明るくなり、メッセージの受信を知らせた。わたしは画面に素早く目を走らせ、窓側の営業部の方へそっと顔を上げる。メッセージの送り主である町田くんは、やれやれという表情で一瞬こちらを見、それから何事もなかったかのように仕事に戻った。

同期の町田くんは、入社二年目でチームリーダーに抜擢された。明るく朗らかで人なつこく、それでいて会社の誰ともべったりしない、さっぱりした人だった。

「これ、何?」

「お客さんからのおみやげ。都築つづきさんに、あげる」

わたしは銀紙に包まれたそれを手のひらの中で眺めた。ありふれたスクエア型の、一粒のチョコレートだった。目を凝らして見ると、包装紙のサイズに合う小さな字で、「洋酒入り|お子様は控えてください」と書かれていた。

「余るほどあるから、貰ってくれると助かる。都築さん、こういうの好き?」

「うん。子どもの頃は、憧れの『大人の味』だった」

「よかった。職場ではちょっと配りにくくて」

確かにね、とわたしは頷きながらそれを受け取った。

以前、入社間もない新人がブランデーケーキを配って回った時のことをわたしは思い浮かべた。故郷の銘菓とのことだったが、チーフがそれを見逃さないはずがなかった。誰よりもうれしそうに、上品ぶった仕草でそれを手に取り、業務時間中にお酒なんていったいどういう常識してるのかしら、とつぶやきながら、ゴミ箱へ捨てた。

記憶をかき消そうと深呼吸して、わたしは時計を見た。

いつの間にか、もう20時を回っていた。オフィスに残っているのは数人しかいなかった。今頃どこかの店で行われているはずの営業部の忘年会へ出席せず、のんびりチョコレートをなめている町田くんを上目づかいに見る。

お酒飲めないんですよね、の一言で、上司の誘いを断ることが彼だけゆるされるのはなぜなんだろう。ずっと不公平だと思っていた。わたしには、そんな選択肢はない。でもそれを周囲に納得させてしまう不思議な魅力が彼にはあった。

「都築さん、いつも遅くまで残ってるよね。何か手伝えることあったら、遠慮なく言って」

営業部がプレゼンで使う資料の作成や、顧客データのシステム入力、といったものがわたしの仕事で、社内では営業支援と呼ばれていたが、実際は雑用係みたいなものだった。銀行や郵便局へお使いに行ったり、頼まれた資料を探しているだけであっという間に一日が終わってしまう。

町田くんは今季のベストチームリーダー賞にノミネートされている。勢いづいて新車のローンを組んでしまった、と、さらりと自慢された。着々と大人になっていく彼を横目に、わたしは自分のことで精一杯のお子様だなあ、とつくづく思う。

「ありがとう」

「明日できることは、明日すればいいと思うよ。大丈夫」

すっかり寛いだ様子で彼は言った。それは、今日するべきことが何かをちゃんと心得ている人の言葉だ。わたしとは違う。午前九時から終業まで、わたしは一日に全てを詰め込み、他に上司に言われたことは何もないか、見落としがありはしないかと、ひたすらびくびくしている。知識や能力にこれといった成長は見られず、決して一人前などとは周囲に認めてもらえないまま、気づいたら二年目になっていた。

仕事が終わって駅まで歩いて帰る時、行き交う人々が皆羨ましく見えた。イルミネーションに彩られ、クリスマス・ソングが流れる大通り。都会が初めて自分の居場所になった、と感じていた学生の頃の夜とは何もかもが違って見えた。明るすぎる光の街は冷え冷えとしていて、体にたまった疲労と虚しさを濃くした。

頑張らねばならないという意気込みの他に、皆もっと苦しめばいいのに、という歪んだ感情がひそかに芽生え始めていた。不謹慎な考えだということはわかっていたが、荒木さんの存在に救われていた。もし彼女がいなければ、チーフの標的がわたしになるのではという怯えがどうしても拭えなかった。

(毎日をつづけるって、どうしてこんなに難しいのだろう)

夜空の一番高く、暗いところを見上げながらわたしは思った。

「引き継ぎなしでまた一人辞めるって。都築さんところのチームやばいじゃん」

町田くんからのメッセージを、わたしはお昼休憩に見た。その噂についてはすでに耳にしていたので、さほど驚きはなかった。しわ寄せで業務が増えるのを覚悟するべく、余計なことを考えないよう自分に言い聞かせる。

荒木さんは休憩も取らず、高く積まれた契約書の一枚一枚をめくり、例の付箋だらけの手順書通りに物事を進められているか注意深く確認していた。びっしりと書きこみしたノートを脇に置いて手順書と見比べたり、過去データを検索してミスがないか照合したりしていた。一本分の処理が終わると、深呼吸して、また最初からチェックした。

彼女が辞めてしまった後、もしかしたらこの業務がわたしに命じられるのかも知れない。胃のあたりがぞっとして、身につまされるものがあった。

昼食をたべた後、お化粧直しの鏡の前で、わたしは町田くんにメッセージを送った。

「ちょっと相談したいことがあるんだけど、今日、あいてる?」

すぐに返事があった。

「ごめん、今夜はちょっと用事があって」

わたしは肩を落とした。それから、すがるように次のメッセージを打つ。

「今日じゃなくていいの。また今度」

十三時の始業開始のチャイムが鳴ったので、急いで席に戻った。

その日の終わりにわたしを呼びとめたのは、荒木さんだった。

パソコンの電源を落とし、セキュリティカードをかざして部屋を出てゆこうとした時、つづきさん、と背後から呼ばれた。振り向くと、荒木さんがいつも見せるのと同じ、少し緊張したような表情を浮かべていた。ただ一つ違ったのは、初めて業務時間外に会話したことだった。

「あの、遅くにすみません。ちょっと、いいでしょうか」

ここ合ってますか、と彼女は手順書の一部を指差しながら言った。それは相変わらず、見る人をちょっと心配させるほど大量の付箋に覆われていた。荒木さんが白色の付箋を使っていることを、わたしはこの時初めて知った。

「うん。合ってる」

わたしは出来るだけ自信がある風を装って答えた。荒木さんはよかったあ、と胸を撫で下ろした。

「ちょっとくらいミスしたって、大丈夫だよ」

わたしは励ますつもりで、さりげなく冗談めかして言った。

「注意されてもあんまり気にしちゃだめだよ。チーフはああいう人だから」

すると、彼女は真面目な顔で、意外なことを答えた。

「はい。私は、大丈夫です。出来るだけ、相手を見ないようにしています。白い布をかぶせるみたいに」

「白い布?」

「はい。あの、故人にかぶせるやつです。お葬式とかで」

答えに詰まり、わたしは曖昧に頷いた。行き過ぎた冗談を自覚したのか、すぐに彼女は小さな声で「あ、変なこと言って、すみません」と呟いた。何とも言えない居心地の悪さがわたしを包んだ。

「まあ、お互い頑張ろうね」

一刻も早くこの場を立ち去りたくなり、わたしは言った。それ以外の言葉は思いつかなかった。

「……私は、頑張りたいと思っています。でも……」

その続きは、ちょうど出張から帰社した社員たちの喧騒に紛れて聞こえなかった。

彼女と別れ、外をしばらく歩くうち、これでよかったのだろうか、と心の内にもやが湧くのを感じた。

わたしは面倒見のよい方ではないし、もっと頼りがいのある社員はいくらでもいる。でも荒木さんはもしかしたらわたしに、何か大切なことを打ち明けようとしていたのかも知れない。

大通りの店々の半分ほどは明かりを落とし、人通りは少なくなっていた。そっと忍びこんでくる車のヘッドライトが闇をまばらに照らし、どこか遠くの方でパトカーのサイレンが聞こえた。そういえば今日は金曜日だ。けど、特別心が浮き立つような予定や、あるいは恋人がわたしを待っているわけではなかった。

コンビニが、薄暗がりの中にひときわ明るく浮かび上がっていた。吸い込まれるようにわたしはその中に入った。深刻に何かを考えることなく、夕食用のおにぎりとインスタント・スープを手に取って列にならぶ。支払いをする前の人の背中を、ぼんやりと眺める。

「あ、レシート、いいです」

聞き覚えのある声が降ってきて、わたしは顔を上げた。

彼はわたしには全く気づかず、カサコソ買い物袋の音とともに店を出た。白いシャツの背中が、駐車場に向かって遠ざかっていく。

「お買いものは以上でよろしいですか」

急かすような口調でレジの人に言われ、はっとしてレジに向き直る。会計を終えたわたしは、不要レシート入れの小箱に捨てられた前の人のレシートをほとんど反射的に掴み取った。たったいま自分が見たものを確認したい気持ちが募り、もう一度、車内へ滑り込もうとするその人の横顔を凝視する。

間違いなく、町田くんだった。

「ハイボール」

そう記されたレシートを見た時、気持ちが高揚した。正直なところ、それは期待通りのものを手にした時の喜びに似ていた。町田くんの死角を照らし出し、弱みを握り、優位に立ったような感覚。

お酒を飲めないと周囲に偽るのは、会社の人と一緒に飲みに行きたくないのだろうか、あるいは何かトラブルを起こしかねないほど、酒癖が悪いのだろうか……。

さまざまな憶測が浮かび、探りたい気持ちが芽生えた。しかしスマートフォンを鞄から取り出したところで、とてもメッセージを送る勇気はなかった。町田くんにも何らかの事情があるのだろう、と結論づけることしか出来なかった。やはりわたしは自分のことに精一杯で、他の人たちのことなど、何も見えてないし考えることもできないお子様だった。

昼間のメッセージのやり取りを流し読みして、あることに気づいた。

「ごめん、今夜はちょっと用事があって」

「今日じゃなくていいの。また今度」

続きに、未読のメッセージがあった。

「じゃまた今度。ちなみに、クリスマスイブは空いてる」

荒木さんの退職の挨拶は、ひっそりと厳かに行われた。辞める理由について、あらゆる部署で好き勝手な噂は飛び交っていたが、結局それが彼女の口から語られることはなかった。

白い布を被せて無かったことにするのではなく、自分がいなくなることを彼女は選んだのだ、とわたしは思った。

どんなに終わらせたくても、わたしにはきっと辞める決断は出来ない。日々はどこまでも果てがなく、どこまでもつづく。

チーフが用意していたのは、花束だった。

「彼女の前途ある将来を祝福して」

と勿体ぶり、皆に見せびらかすように荒木さんへ渡した。

生命力に溢れた、摘みたてのようにみずみずしい花々が、エレガントな深紅の不織布に仰々しく包まれた花束だった。それは明らかに場違いな立派さを露呈し、その場にいる全員をまごつかせた。強烈な花の匂いはいつまでも場の空気になじみそうもなく、わたしは思わず顔を背けたくなった。

もしもわたしだったら、立ち直れないくらい傷つくだろうと思った。でも荒木さんは人のいい微笑でそれを受け取った。それから、未熟者ですがたくさんのご指導をいただき、素晴らしい経験を積むことができました、どこへ行ってもこの学びを活かしてゆきたいと思います…… などとお決まりの言葉を並べた。

後任者は決まっていない。明日からあの山積みの書類がどうなるのか、誰も知らなかった。定時に一人また一人とオフィスを引き上げる中、彼女はまるで誰かに謝罪するみたいに、まだ手順書にこまかな書きこみを続けていた。

「明日できることは明日すればいい」と町田くんは言ったけれど、その明日は彼女にとって、もうどこにもなかった。

「荒木さん、もう、いいよ」

床に白い付箋が散らばっているのを拾い集めながら、わたしは言った。

「都築さんは先に上がってください。もうすぐ終わらせますから」

終わらせる、と言った彼女の声には、他人が口出しできない凄みと気高さが宿っていた。わたしは荒木さんに語りかけるのを大人しくあきらめ、ロッカーの小さな鏡に映る自分に問いかけてみた。

明日からも変わらず続きがあるわたしに、今日できることは一体何だろう。どの憂鬱を選べば、たとえわずかでも明日を変えることができるのだろう?
 
やがてわたしは決心し、コートを羽織った。花束は荒木さんのロッカーの中へ無造作に押し込まれていた。半分開いた扉から、悲しげに折れ曲がった花びらや葉先が覗き、小さな赤い実が床に散らばっていた。

わたしは花束を無断で抱えて、ビルを出た。

ゆらゆらイルミネーションの滲んだ街に、人々が解き放たれていた。不思議と寒さは感じなかった。気持ちの高まりからか、むしろ人々の体温をより近くに感じた。

目指す場所に到着するまでずっと、豪華な花束は人の目を引いた。思ったよりもそれは重く、まるで小さな子どもが、抱えられることを拒否しているかのように持ちにくかった。傷ついた花もそうでないものもすべて夜の冷気を吸い込んで湿り気を帯び、街のネオンを照り返してなめらかに光っていた。

駅前広場のクリスマスツリーの横、かつて花束が捨てられていたゴミ箱の前に立つと、無数の人々が捨てていった不要物の堆積の上に、わたしはそれを堂々と置いた。

ほとんどの人はチラッと視線を送るだけだったが、わざわざ立ち止まり、怪訝な表情でしばし眺めていく人もいた。

これでよし、とわたしは思った。

世の中の人々にはそれぞれいろんな事情があることを、わたしはすでに承知していた。うつくしい花束を捨てる人にも、それなりに正当な理由がある。それはわたしが白い布で覆い隠し、見ないままでよしとしていた人の心に、初めてすこしだけ潜り込んだ夜だった。

空になった手をポケットの中に入れると、偶然、指先に何かが触れた。すっかり忘れていたけど、町田くんにもらったスクエア型のチョコレートだった。

おもむろに口に含むと、体温にほどけ、甘くほろ苦いお酒の風味が、くすぐるように香った。

今日選んだ憂鬱が、舌の上で溶けあい、ゆっくりと胃の中へ落ちていく。

この一粒がいずれささやかな血肉になるだろう予感を、わたしは胸に刻んだ。そして荒木さんと町田くんと自分のために、少しだけ祈った。





<おわり>

この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』12月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「つづく」。ずっと続いてきた大切なものや、これから先に続いていく未来に目を向けられるような小説が並んでいます。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。



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