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短編小説 「現実の街」

「おれ、悪魔をつくる方法なら知ってますよ」

横川はそう言って、デミタスカップからエスプレッソを二滴、木のカウンターに垂らした。濃褐色のしずくが、ぽた、ぽたと不完全な円形に落ちて天井を見上げる。ほら、悪魔の目みたいでしょ。家に誰もいない時、こうやって遊びました。まだ子どもの頃。

4月から新しくアルバイトに入った横川は、大学を辞めてぶらぶらしていたのをマスターに拾われたらしい。

「愛想はいいし、覚えも早いんだけど、ちょっと変わってるかもな」

大学に入ってすぐこの店でバイトを始めた頃を思い返しながら、颯太は細々とした業務を横川に教えた。マスターが言った通り、横川はどこか浮世離れしているところがあった。注文数を間違えて注意されてもけろりとして、余らせてしまったカツサンドを目を細めて美味そうに食べている。好物だ、などと言って。よく平気な顔して食えるよなあ。颯太は胸のうちでつぶやき、ため息を漏らす。

マスターに小説を書いていると打ち明けたのは間違いだった。今回のはまあまあだったとか、人物に感情が入っていないとか、新作をネットに投稿するたびに容赦なく批評してくる。横で聞いていた横川はすぐさま反応した。

「へー。小説を書いている人なんて初めて出会いました。小説家って、嘘書くんでしょう。颯太さん、嘘をつける人には到底見えませんけど」

言い当てられたような気がした。冗談の通じないタイプだと大学の友人からもよく言われる。才能のなさを暗に示されたような気がして、心の中に灰色の雲が湧く。

「横川は、趣味とかあるの?」

話を逸らすために訊いてみると、意外な答えが返ってきた。

「走ること、かな」

「嘘だろ?」

思わず口からそう出たのは、色白で線の細い彼にはあまりにも似合わなかったからだ。でもよく考えてみると、自分のいる場所が世界の中心であるかのようにふるまう彼が、飄々と街を駆けていく姿は想像できなくもない。

「本当ですよ。もしよかったら一緒に走りません? 土曜の朝、だいたい椿町の緑道を走ってます」 

颯太は言葉を濁し、曖昧に頷いた。ジョギングは好きではないし、ましてや苦手な相手となんて、考えただけでもわずらわしい。

ある時、颯太は横川がまかないのカツサンドをこっそり捨てているのを見た。

「ああいう油っぽいものって、たまに食べるからいいんですよね」

颯太は絶句し、ほとんど憤りに近い感情を覚えた。マスターみたいに親切な人が、どうしてこんなやつの面倒を見ているのだろう。

「いらないなら最初にそう言えよ。マスターに悪いだろ。食材に金だってかかってんだし」

「マスターの 『若いやつの面倒をみてやりたい』って気持ちは、ちゃんと受け止めてますよ」

何が可笑しいのか、横川はくすくすと笑っていた。

「愛することは、人間の本能ですしね。颯太さんだっているんでしょう、そういう相手」

急に何の話だよ、と颯太はそれをかわそうとしながら、ふと恐怖にも似た一抹の不安を感じる。彼のような人には今まで出会ったことがない。そして、なぜだか目が離せない。目を合わせると、切れ長の目が、射抜くように颯太を見返していた。

・・

GWは、地元に帰ろうと思うの。短いメッセージが美月から届いた。その前に借りていた本を返すよと返信すると、久しぶりに会うことになった。大学近くのスタバに向かい合ってすわり、お互いに会話の糸口を探す。最初に口を開いたのは美月だった。

「この本、大好きなんだ。登場人物がキラキラしてて、文体が綺麗で、でも人間の深みを描いてるっていうか…… どうだった?」

「おもしろかったよ」

「『現実の街』っていうタイトルで映画化されてて、それもすごく良いの」

「知ってる。今度観てみようと思ってて」

美月との会話はするすると順調に進む。自分の中にこれほど退屈な答えが存在していることに颯太は驚く。

同じ大学の同じ学年。美月の方から告白して、付き合いが始まった。自分のどこをどのように好いてくれたのか、それを問うのがなんとなく怖い。彼女は颯太が小説を書いていることなど知らない。知らないままの方がいいような気がする。

「颯太くんは、どんな本が好き?」

そう聞かれて、ふと考え込んだ。何かを正しく渡してくれる作品より、読み終えた後、あれはどういうことだったんだろうと考えさせてくれるような作品が好きだ。

少し考えた後、彼女の好きな作家が影響を受けたというフランス人作家の作品を口にした。予想通り彼女は「私も好き!」と感嘆の声をあげる。

思いが少しずつ言葉からずれ落ちる。

「じつはその作家の新しい本、いま持ってる。よければ貸すよ」

「そうなんだ」彼女は少し間を置いて、じゃあ、ぜひ、と頷いた。

二人でいる時は甘く温かい気持ちで満たされる。なのに心の距離は、とても遠い。

駅で彼女の背中を見送る。彼女の鞄には颯太の本が入っている。だからまた次も会えるだろう。その安堵を得るまで、いつもすごく疲れる。

・・

GW初日の、午後二時。忙しかったランチタイムが終わり、客が途切れた。マスターは何かあったら呼んで、と颯太に言い残し、奥に引っ込んでいた。

「あの男の人、今夜も来ると思います?」

奥の席で休憩している横川があくびを噛み殺しながら言った。

毎週水曜の夜、女性を連れてくる男がいる。四十代半ばくらいの、小綺麗な身なりのサラリーマンだ。

「余計な詮索はするなよ。一応常連客なんだし」

「でもあの人、浮気してますよね? あ、奥さんいるから不倫か」

「確かなことは分からないよ」
 
都会にはいろいろな人間がいる。ときどき色鮮やかに目を引く、めずらしい光景が目に映る。車窓に流れ過ぎていく街の風景と同じだ。それらは決して自分の人生と交わることはなく、ましてうかつに触ろうとするものではない。

軽くあしらわれた横川の表情はみるみるうちに険しくなり、急に口をつぐんで、不機嫌を示した。

チリン、とドアの鈴が鳴った。いらっしゃいませ、と颯太がカウンターの内側から入口へ振り返ると、貸した本を抱えた美月が立っていた。

「これ、ありがとう。おもしろかった」

美月はカウンターのスツールにすわり、本を颯太に差し出した。

「今日じゃなくてもよかったのに」

スタバで会った日から一週間も経っていなかった。

「うん。でも、今夜からしばらく地元に帰るから、その前にと思って」

次に会うための口実がなくなり、頭の中がすうっと白くなる。グラスに氷を入れ、アイスコーヒーを注いだ。奥の席にすわっている横川の視線が刺さる。嫌な予感がした。

「そういえば」

さっきまでのむくれた表情からは想像もできない声の調子で、横川が割り込んできた。

「颯太さんの書いている小説読みましたよ。本名で書いてるんですね。ネットで検索したら出てきました」

颯太は目を剥いた。体中がカッと熱くなる。おい。待てよ。なんで今わざわざ言うんだよ。横川は紙煙草に火をつけ、煙を細く天井に吐き出した。笑顔のように見えるけれど、決して笑ってはいない目。カツサンドを食べていた時と同じ表情。

「なんていうか、颯太さんも、腹の底で何を考えているかわからないなーって」

羞恥で煮立った泥のようなものを喉に押し戻す。こいつは平気なのだろうか。大切に守っているものを乱暴に人前へさらけ出されたら、踏みにじられたように感じないのだろうか。感じないのだろう、何も。そういうやつなのだ。

「あ、休憩終わりだ。裏、片付けてきます」

涼しい顔でうーんと伸びをする仕草をしてみせ、横川はするりと裏へ消えた。

グラスの氷がカランと鳴る。

「……颯太くん、小説書いてるの?」

「えーと……まあ、うん」

「知らなかった。へえ、書いてるんだあ」

美月は少し沈黙した。そのまま立ち去るのも何だか気まずいと思ったのか、爪でカウンターを軽く掻く。

小説を書く人の頭の中って、どうなってるんだろうね。すごいよね。うん、たしかに。でもちょっと怖いような気がする、違った感覚で世界を見ているんだろうなって思う。そうかな。そうだよ。いつかのそんな会話が、颯太の頭の中をひとめぐりする。

次の客が入ってきたタイミングで美月は席を立った。アイスコーヒーのストローに赤い口紅のあとが付いていた。

・・

ラストオーダーが終了した。颯太が店じまいの段取りを考え始めた頃、奥の席から荒々しい男の声が響いてきた。マスターが駆けつけると、客が横川に絡んでいた。

激高した男は横川の体を強く押し、ふらついた横川はそのまま尻餅をついた。

どうせまた無愛想に対応したか何かなのだろう。颯太はグラスに水を汲み、席へ運んだ。どれだけマスターに注意されても、給仕係という自覚がないのだ。手を貸す気にもなれず、呆れはてて横川を見下ろすと、ただしんとしてそこにいる。

「申し訳ありません。何かございましたか」とマスターが間に入った。

「失礼にも程がある」男の目は血走っていた。彼の向かいに座った女は青ざめた顔色でじっと口をつぐんでいる。

「訴えるぞ、おまえ」男が凄む。

すると横川は女に向かって、ぞっとするほど冷たい声で言った。

「本当のことを言ったんですよ。この人には奥さんとお子さんいますよって。前にランチでいらっしゃってましたよね?」

颯太は言葉を失った。シャツの下に鳥肌が立つ。

ふいに、ぴしゃ、と平たい音が跳ねた。静かだった女が突然グラスをひっくり返し、横川の頭に水をかけた。つめたい飛沫が小さく颯太の腕を掻く。声を絞り出すように女は言った。

「あなたに何がわかるの」

その目が颯太の脳裏に焼きつく。表層の静けさとは裏腹に、その奥には嵐があった。こんなことがなければ決して知ることのなかった、人の内側に吹き荒れる嵐。

信じられない、と目を丸くした横川の前髪や顎先から、ぽた、ぽたと水のしずくが絨毯に垂れ落ちていった。

・・

「あー、あの常連さん、もう来ないだろうなあー」

数組の客が次から次へと腰を浮かせ、あっという間に店じまいになった。マスターはつとめて明るくふるまい、エスプレッソを淹れてくれた。

「どうして横川を雇ったんですか?」

熱いエスプレッソが胃に落ち込んだら、ふと本音が漏れた。マスターが吹き出す。

「行き場がないみたいだったから」

「彼、どうしようもなく屈折してるように見えますけど」

「それはどうかな」とマスターは真面目な顔をする。オレンジ色の灯りがわずかに震えた。

「あいつ、人の忠告をさんざん無視して大学中退してるから。自分に嘘はつけないって証明したようなもんだよ。案外まっすぐなやつさ」

「まさか」

「そうだよ。それより大学もバイトも恋愛も、何でも卒なくこなそうとするおまえみたいなやつの方が、本当の意味でおれは怖いよ」

颯太は黙ってカウンターの木目を見ている。

「まあそういう人間がそのうち、良い小説を書くのかもな」

「そのうちって何ですか」

マスターはにやっと笑い、その話題を終わりにした。

颯太はぼんやり考え事をしながら、人の目のようにも見える木の模様を眺めた。横川はデミタスカップを傾けて悪魔の目をつくった。子どもじみた、くだらない遊びだ。でも木目が今、そっとこちらを覗き返してくるようにも見える。

頭を冷やしてきます、と外へ出て行った横川は戻ってくる気配もない。カウンターにぽつりと残された彼のデミタスカップの湯気はとうに消えた。

・・

「うわー、だっる。本当にきた」

早起きをして椿町の緑道公園で待っていたら、横川にそんなことを言われた。相変わらず憎たらしいが、嘘ではなかったことに颯太は感心した。

木々の香りがみずみずしく、白いウェアとシューズがまぶしかった。

「店、もう来ないの?」

できるだけ何でもないふうに、颯太は言った。

「行けるわけないでしょ」

「ランチタイムが回ってない」

横川は肩をすくめた。

「あのさ」嫌いなやつだ。だからどう思われようが構わないさ、と颯太は自分を奮い立たせた。「昨夜、ネットに投稿した新しい小説。読んだろ。どう思ったか教えてほしいんだ。どこが面白くないかとか」

一瞬、横川の瞳の緊張がほどけて和らいだのを颯太は見た。なんでしょう、ととぼける彼に詰めよってみる。こいつは、不器用なだけかもしれない。小説の中でしか本音を言えない自分と一瞬、重なる。

「で、どこまで走るの?」

横川は10キロほど離れたところにある駅名を口にした。正午までに店へ引っ張ってくるようマスターに言われたが、それでは間に合いそうもない。

「めちゃくちゃ遠いなあ」

何を言ってるの、という顔で横川は答えた。

「距離があるから走るんでしょ?」

ふんと鼻を鳴らして、横川は地面を蹴った。透明な風がぐるりと新緑をゆらし、現実の街をひとしきり震わせる。遠ざかる背中を見送り、ベンチにすわりこんだ。

———伝えたい思いを素直に伝えられない。言いたいことは山ほどあるけど、うまく言えないから小説の中に全部入れる。小説の中でなら本音を言える。だから自分は小説を書かずにはいられないのかもしれない。

でも本当の自分を好きになってもらいたいなあ、と颯太は美月のことを考えながらしみじみ思った。

真っ白な原稿用紙に向かうのが好きで、生意気なバイト仲間に頭を抱えていて、エスプレッソを飲むと必ず胃が痛くなる、飾らない自分を。

きみの好きな本の良さはあまりよくわからないけれど、それでも。

だらだらと考えていても仕方がない。スマートフォンを取り出し、思いと言葉をずらさないよう、丹念にメッセージを打った。

「また話したいです。連休明けに、すぐ」

彼女からの返事は、すぐに返ってきた。







<おわり>

#文活  

この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』5月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「はしる」。読んで外に駆け出したくなるような、疾走感あふれる6作品が集まっています。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。

『文活』へ寄稿した作品の幾つかは、ゆるやかにつながっています。関連した作品の一つはこちら。もしよければ、他の作品も併せてお楽しみください。


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