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短編小説集 ノベルメディア『文活』寄稿作品

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このマガジンに収められた作品の幾つかは、ゆるやかにつながっています。よろしければ、ぜひ、物語を楽しみながら、つながりを探してみてください。
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記事一覧

シェアハウス・comma /河野 絵梨花 編

「河野さんは、頼りになるよ」 上司にそう言われて、そこにどの程度の本心がこめられているのか勘繰ってしまった。定時過ぎたばかりのオフィスを出ると、金曜のせいか街はどこか浮き足立っている。 秋の季節にまとわりつく雨の気配が嫌いだ。一年前の雨の日、ちいさな嘘をついたあの日からずっと。 「絵梨花!」 トンと肩をたたく手は、同級生だった。「久しぶりだね。今、帰り?」 「うん。何してるの?」 「みんなでお茶してた」 みんなで、の一言が心をかすかに曇らせる。大学の四年間、お互

「噂通り、一丁目一番地」 最終話

最終話 「WEDDING CAKE」 何もかもが白で統一されたヨーロッパの田舎風の教会で、カルテットの演奏者たちはウェディング・セレモニーを奏でる準備を整えていた。木もれ日の注ぐ前庭にはドレスアップした大人たちが二十人ほど集まり、にこやかな雰囲気で鐘が鳴るのを待っている。 その教会に隣接したホテルの819号室。若いホテル・ボーイがひとり、その窓際にたたずんでいた。 彼は主任からの指示の意味を理解しきれず、困惑したまま窓から教会を見下ろしていた。つい先ほどまで自分を包んで

「噂通り、一丁目一番地」 第三話

第三話 「FLAPJACKS」 こんな暖かい春の放課後、海へまっすぐに伸びる堤防を歩くのが凛は嫌いじゃない。風はやわらかく海をゆらす。潮の匂いを運んでくる。 白い灯台の輝く堤防の先に、同級生たちがじゃれ合っているのが見えた。そのうちの一人、あかるい髪色の男子生徒に、手を振りながら駆け寄る。 「……これ。借りてたお金、返すね」 封筒を差し出すと、一瞬の間があった。 「お、どーも」 磯村優月は周りを気にしながら、それを素早くコートのポケットに押し込んだ。 彼が乗って

「噂通り、一丁目一番地」 第二話

⇨ 第一話はこちら 第二話 「ELEVENSES」 アンティーク店『ザ・ヴィンテージ・スピリット』の店主は、仕立てたスーツに身を包み、撫でつけた白髪頭にツイードのハットを被った。タクシーはじきに着くだろう。とうに暮れた空に、月はあかるかった。 新調した老眼鏡はよく似合っている、と彼は鏡の前でいくらか自信を取り戻し、店内をぐるりと見渡した。 天井からぶら下がったいくつかの明かりの芯に、ほのかな淡いオレンジの灯りがともっていた。整理整頓され、磨き抜かれた品々——アンティー

「噂通り、一丁目一番地」 第一話

この作品は、生活に寄り添った物語をとどける文芸誌『文活』2022年2月号に寄稿されています。定期購読マガジンをご購読いただくと、この作品を含め、文活のすべての小説を全文お読みいただけます。 第一話 CREAM TEAS その老紳士からお金を受け取ったのは、ひどく寒い冬の日だった。喫茶店の窓ぎわの席で、老紳士が品定めをしている間、粉雪がひらひらと海に舞い降りるのを、水咲凛は頬杖をついて見ていた。 しずかな鉛色の海と、角砂糖をこぼしたようなテトラポッ

短編小説 「花束とチョコレート」

それは駅によくある、うす汚れた銀色のゴミ箱に捨てられていた。仕事の行き帰りにいつも通っている駅前広場の一角を、そんなふうに立ち止まって眺めたことはこれまで一度もなかった。 花束だった。バラ、ガーベラ、かすみ草、そのほかにも、名前の知らない鮮やかな花々がそこに入りきらず、あふれるように咲いていた。冬の朝の空気が、そこだけいっそう磨かれたように澄んでいた。 「ねえ、どうしておはな、すててあるの?」 赤いベレー帽を被った少女が通りすがりに言う。信号を渡ってすぐのところに幼稚園

文活11月号の短編小説 「花の名前」についてお知らせ

11月、ノベルメディア文活から、『文と生活』(紙の同人誌)が刊行されました。小説をふたつ収録していただいています。 ■『コインランドリーで朝食を』 ■『花の名前』(書き下ろし。マガジン購読者のためのWeb版は文活アカウントで公開中です) 書き下ろしの『花の名前』は、書き手6名による、オムニバス群像劇の一つです。企画の詳細は、左頬にほくろさんのこちらに記されています。6編の小説の世界観をより楽しく味わっていただけるかなと思います。ぜひ併せてお読みください。 すでにお読みく

短編小説 「楽園の白いトラ」

隣の女性が泣いている。 朝からの雨のせいで、車窓は灰色に濡れそぼり、電車がガタゴト揺れるたびに、湿気のこもった空気が匂い立った。彼女のスカートの膝に、ぽた、と落ちた染みが雨粒でないことに水崎が気づいたのは発車後すぐだった。 会社からのメール通知がひっきりなしに鳴り、そのたびに返信をしなくてはならなかったので、すぐにハンカチを差し出すことが彼にはどうしてもできなかった。 十五分後、ようやく込み入った内容の問い合わせに対応し終え、そっと様子をうかがってみると、彼女はまるで野

短編小説 「波を数える」

 改札をくぐり抜けて歩道橋の上へ出ると、爽やかな水のような風が一瞬、汗ばんだ首すじを撫でていった。  大通りの常緑樹は、長引いた残暑ですっかり色あせている。魚が棲みよい水を嗅ぎ分けるように、横川緑はするすると人波を泳いでいく。  本当に魚みたいだな、と彼は行き交う人々を眺めながら思った。ぴったり前の人の背中の後を、息も乱さず進んでいく。つまらない小魚ばかりだ、どいつもこいつも。彼は目の前の人々を、ただひとまとめにそう考えた。  そういえば、子どもの頃飼っていた金魚を水路に流し

短編小説 「遠い星から来た人」

久しぶりに雨が上がった7月の日曜日、初めて凪沙(なぎさ)に会った。あちこち残った水たまりに、街から漏れた油が小さな虹を作っていた。  母親に連れられたその少女をモノレールの駅で最初に見た時、この子とこれから夜まで一緒に過ごすなんて絶対に無理だ、と佐藤は思った。姪とはいえ、ほとんど会ったこともなく、まして中学生だ。伏目がちの瞼の先でたよりなげに震える彼女のまつげを見ていると、佐藤の心の底に澱んでいた物憂い感情がむっくりと湧き上がって来た。 「あなたって、どんどん殺風景な

短編小説 「パンとマリッジ・ブルー」

 誰かにコップの水をひっかけたことある? 夕食時、姉のリナは静かな声で言った。やっちゃったのよね、私。  まさか、と軽く笑って、でも彼女ならやりかねないな、と妹のすずは思った。スープはすっかり平らげられ、スライスされたバゲットがお皿の上に数枚残っているだけになっていた。 「おねーちゃん、そんなドラマみたいなこと普通はしないよ」 「私もそう思ってたよ。実際に自分がそんなことするまでは」  GWが終わった翌日、母から電話があった。  リナが会社に行ってないみたいなんだけ

短編小説 「現実の街」

「おれ、悪魔をつくる方法なら知ってますよ」 横川はそう言って、デミタスカップからエスプレッソを二滴、木のカウンターに垂らした。濃褐色のしずくが、ぽた、ぽたと不完全な円形に落ちて天井を見上げる。ほら、悪魔の目みたいでしょ。家に誰もいない時、こうやって遊びました。まだ子どもの頃。 4月から新しくアルバイトに入った横川は、大学を辞めてぶらぶらしていたのをマスターに拾われたらしい。 「愛想はいいし、覚えも早いんだけど、ちょっと変わってるかもな」 大学に入ってすぐこの店でバイト

表現の正解を目指さない

私は短編小説が好きだ。短編小説のアンソロジーなど、一冊にさまざまな人生や感情、人間の美しさから濁りまで、名前のつけられない模様がつまっていてとてもおもしろい。 お菓子のアソート・セットのように、好きなフレーバーとそうでないものを選り分けながら楽しめるところも良いと思う。 ◇ このたび、なみきさん、よもぎさんのおふたりにおさそいいただき、人びとの生活に小説を届ける文芸誌『文活』へ短編小説を寄せることになった。 好きなものだけを封じ込めた自作のリトルプレスやZINEとはち

短編小説 「カップの中に注ぐもの」

秋の終わり、一枚のポストカードが届いた。 消印はエアメイルだった。差出人の名前や住所は、インクでべたべた汚れていてよく読めない。ふと海外出張中の夫のことが頭をよぎるが、すぐに違うだろうなと茉莉は思った。朝から晩まで忙しくしている彼は、こんなものをよこすひとではまずない。 じっと目を凝らすと “stay”と書いてあるのがかろうじて読み取れた。stay home? まったく心当たりもないし、考える時間も惜しいので、キッチンテーブルの片隅の書類の山の上にそれを放り投げておいた。