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短編小説 「午前0時の恋人」

「別にやましいことじゃないし、あやしい話でもない。常連さんへの配達と同じように、その子に食事を届けてくれたらそれでいい」

深夜の喫茶店には、マスターと颯太(そうた)の他には誰もいない。橙色の灯りの下、金縁のアンティークの鏡が、ドリップコーヒーの湯気をひとすじ映し出している。

「古い友だちからの頼みでね」

マスターはサンドイッチのミミを丁寧にカットしながら言った。

「すまないな。俺が店をあけるわけにもいかないし」

「もちろん構いませんよ」

つい先ほどまでカウンターに寄りかかり、低い声でマスターと話していた紳士を思い出しながら颯太は答えた。ほとんどが中国訛りの英語で、ときどき片言の日本語が混じっていた。再びドアの外の闇へ消えていくまで5分とかからなかったが、装いや佇まいから裕福な人であることがわかった。

マスターは磨きこまれたグラスにゆっくりとメロンソーダを注ぎ、バニラ・アイスクリームを加えた。

「ひとつお願いがある」

陽気なマスターにしてはめずらしい。どう伝えようかと迷った挙げ句、ひと呼吸置いて話し始めた。

「このことは秘密にしておいてほしいんだ。小説にも書くなよ」

小説家志望の青年にとって、それは無理な注文だった。午前0時、古びた喫茶店をひっそりと訪れた謎の紳士の、謎のデリバリーの依頼。これを書かないと約束できるほど自分は大人ではない。反故にしてしまえばいいさと曖昧に返事をして、颯太はメロンソーダを飲み干した。

マスターの準備した包みの中にはクラブハウス・サンドイッチとコーヒーが入っていた。それから秘密めいた一通のマニラ封筒。それは颯太の給料袋よりずっと厚みがあり、表にこう書かれてあった———

「To my love, from Mr. Lin」
(愛しい人へ、ミスタ・リンより)

「To my loveとは」颯太は思わず口にした。「なんだか訳ありですね」

「まあ、そういうことだよ」

それ以上何も言うなという表情で、マスターはドアを開けてくれた。

「今夜はすこし冷えるから気をつけて。まさか雪は降らないと思うけれど」

風のない夜だ。

まだ肌寒さは残っているけれど、空気の中に春の匂いが混じっていた。自転車にまたがり、街灯の照り返しでつやめく地面を蹴る。

8ホールの革のブーツは、ペダルを踏むにはいくらか重い。でもどこか小気味よいのは、自分の力で前に進んでいる実感があるからかもしれなかった。たとえば物語を綴る時、原稿用紙のマス目をひとつひとつうめていくように。

頭の中でひとつの物語が動き出そうとしていた。登場人物は、謎めいた紳士ミスタ・リンと、その若き愛人———

配達人として夜を漕ぎまわるのは楽しい。きちんと目的地があり、配達すると誰かに喜ばれるのも良い。もしあてどなく夜道をさ迷うだけであれば、こうも爽快な気分にはなれないだろうと颯太は思う。

住宅街の路地へと曲がり込んだ時、何かがふと耳をかすめた。

どこかの窓からこぼれた光の中。ささやくような、歌うような人の声があった。その声はだんだん近くに寄ってきて、ついに目的地へ着いたとき、偶然にも、これから配達する部屋から漏れているのだとわかった。

歌っている人の部屋のインターフォンを鳴らすのは、どこか気まずい。とはいえ行かないわけにはゆかなかった。

「ミスタ・リンからお届けものです」

細く開けられたドアの中へ向かって、マスターに頼まれた内容を手短に伝える。

「……リン?」

人の姿よりも先に、一瞬、息をのむ音が聞こえてきた。それから目の前に現れた人物を見て、颯太は面食らった。

手にしていた包みをあやうく下に落としてしまうところだった。よく知っている顔がそこにあった———いや、巷で知られている顔、と言うべきか。

にわかには信じられなかった。「紺野すみれ」といえば、20代の若者であれば誰でも知っている女優だ。目と鼻の先に立っているのは、まぎれもなくその人だった。

「だったら受け取れない。申し訳ないけど」

と、すみれは言った。

「そういうわけには……」

颯太が当惑するさまを、少しの間彼女は見ていた。そして次の瞬間に、驚くべきことを言った。

「どうぞ、入って。もったいないから、あなたが食べてよ」

人に見られたくないから早く、と急かしながら、彼女は半ば強引にドアを閉めようとした。

配達人がお客の部屋に入らないことは鉄則だ。でも、この状況に巻き込まれてみたいという好奇心が優った。促されるがままに、足を踏み入れる。

「ちょっと、待っててね」

壁によせて置かれたダイニングテーブルに座り、しばしドライヤーの音を聞きながらざっと部屋の中を見回した。ごくありふれた生活風景だ。

テーブルの上は雑多なものであふれていた。あまり整理整頓を心がけるタイプではないらしい。中央にはポストイットだらけの台本が無造作に開かれ、壁側には彼女の名前を記したガラス製のトロフィーが、ブックエンド代わりに載せられていた。

様々なジャンルの本が、雪崩れ落ちる寸前でかろうじてバランスを保っていた。全て英語の本だった。小説らしき本が目を引く。颯太はその日本語タイトルを思い出そうとしてみた。

『ティファニーで朝食を』『プラダを着た悪魔』『うたかたの日々』……よく見るとそれらは映画のファンブックで、他に小説と呼べそうなものはひとつもなかった。

「きみ、本が好きなの? それともゴシップ記者か何か?」

シャンプーの香りをふりまきながら、すみれが戻って来た。虹色、としか形容できない色に染められた髪が魔法のように輝いていた。

彼女は物をテーブルの端に集め、颯太のためにスペースを作ってくれた。そして適当な本を指差し、

「私、日本語の本って難しくてほとんど読めない。小学校を上がるまでN.Y.に住んでいたから」

と意外なことを明かした。

「さっきまで台本を読んでいたんだけど、実はそれもすごくきつい」

歌を歌っていたんじゃなかったんだ、と颯太は思った。

「ミュージカルか何か?」

彼女は肩をすくめた。それは回答として不十分だったが、話題を終わらせるには十分なジェスチャーだった。

颯太は料理をテーブルに並べた。さあどうぞ早くお召し上がりくださいと言わんばかりに、パンがいい焼き色をしている。

すみれはハサミを使ってマニラ封筒を開け、望遠鏡を覗き込むように片目をつぶって中身を見た。

サンドイッチにかぶりつきながら、颯太は単刀直入に訊いた。

「封筒には何が入っているの?」

すみれの大きな目が颯太の顔を見つめた。その視線はたっぷり時間をかけて颯太に注がれ、信用すべき人物かを見定めるため、ところどころ印を付けるように留まった。そして、

「タロット・カードよ。私、占いが好きなの」

と、明らかに嘘とわかる嘘をついた。

「私ももらおうかな」

どうぞ、と差し出した紙皿から、すみれは一切れをつまみ上げ、そして言った。

「で、きみは誰なの? 何をしている人?」

「大学生」

颯太は答えた。もちろん嘘ではない。しかし彼女の目は再び審査官のように鋭くなった。

女優と小説家に共通点があるとすれば、人間を深く観察することかもしれない。颯太の様子を、すみれはじっと見ていた。ただ颯太がほとんど表面を掠めとるように見るのとは真逆で、彼女はもっと執拗に、内側までえぐりとるような目線で見ていた。

「きみって、物を書いている人でしょ」

言われて、ほっとしたような、それでいて残念なような気持ちが広がった。見られていたのは指先だったのだ。彼の指には一目でそれとわかるペンだこが出来ていた。

「何を書いているの? きみの書いたものを読んでみたいな」

彼女はそう言って、薄いレモンを浮かべた水をコクンと一口飲んだ。

どのような形であれ、自分の作品が世に出るまで、マスター以外の人に打ち明けるつもりはなかった。しかし書いたものを読んでみたいと言われ、書き手がその誘惑に打ち克つのは簡単なことではない。

小説を書いている、と颯太はつい答えた。

「売れているの?」

「いや」

「全く?」

「というと?」

「誰かがあなたの小説にお金を払ったことがあるか、聞いているの」

颯太はインターネット上の知り合いを思い浮かべた。「個人的に小説を買ってくれた人はいる」

「賞か何かをとったことはある?」

渾身の力を込めて書き上げた小説が選考に残ったためしはない。現実はそう甘くないよと言いかけて、颯太はふと口をつぐんだ。すみれと自分は同年代だが、そこには絶対的な隔たりがあるような気がした。

サンドイッチを咀嚼し、コーヒーで流し込む。

「出版社に持ち込んだことは?」

「あまりそういうのは聞いたことがないな」

「ねえ」彼女は咳払いをして、先を続けた。「小説はいつ書いているの? こんな時間にバイトして、本当にやるべきことを置き去りにしていない?」

颯太は少し間を置いて、答えた。

「みんなやってることだよ」

皮肉を込めたつもりだった。

すみれは彼の言ったことが本気で分からなかったみたいだった。ほとんど睨むように颯太を見つめ、その続きを待っていた。しかしその続きがないのを見限り、

「みんなやってるからって、それに慣れていくなんて、私ならごめんだな」

と言い放って、水を飲み干した。そして喉の冷たさが収まるのを待ってからまた肩をすくめた。

それは結構、と颯太は思い、でも口には出さなかった。苛立ちの波が彼の心を捉えようとしていた。そろそろ潮時だ。食べる速度を上げる。

「……ねえ、告白ってしたことある?」

だしぬけに彼女は言った。

「え?」

「自分の本当の本当の内側を、外側にさらけ出すこと」

すみれはサンドイッチのパンをめくり、中身を晒した。様々な具材が溶けたグリュイエールチーズにひっつき、あまり見られたものではなかった。

「どうかな」颯太は食べ終えた紙くずを一箇所に集めた。どうしてこんなに話題が飛躍したのかよくわからない。「一度くらいはあると思うけど」

「私はまだ売れない女優なんだけどね、」

食べかけのサンドイッチを、彼女は紙皿の上に戻した。

「ぜんぶ告白のつもりでやっているんだ。全身全霊で。出し惜しみしないで。変な仕事もいっぱいあるけど。たとえば全く必然性のないラブシーンとか」

紙くずを掴んだ手が止まる。

「残念ながら世界はそんなに簡単にふりむいてはくれない。ただ、そうしないと自分自身が失望するってだけ」

どこかで救急車のサイレンが駆けていた。痛みを叫ぶように、近くなって、遠くなって、やがて消えた。

「このサンドイッチ、すごく美味しいね」

また話が変わった。

でもサンドイッチについては颯太もよく承知していた。冷めても美味しいようにと、マスターが何ひとつ妥協せず作り上げたものだ。トマトの厚さもミリ単位で決めている。

彼はふと思った。すみれの言葉で言うのなら、このサンドイッチもマスターの渾身の告白といえるのかもしれない。

深夜に独りきりで黙々と木のカウンターを磨き込んでいる男を想うと、それは真実の言葉に思えた。

「きみは『何を』書いているの?」

それはすみれの最後の質問だった。

もう行く準備はできていたが、颯太は少し考えた。

「次に会う時までには答えられるようにしておくよ」

苦しまぎれにそう答えて、ウィンドブレーカーのジップを喉元まで閉めた。

「今度、きみの小説を読ませてもらおうかな。できれば朗読してくれると助かる。読むのは苦手だから」

颯太は頷いた。

「さよなら」

そっとドアを閉めると、爪を切り落としたような月が浮かんでいた。

夜気をいくらか肺に入れる。自転車のハンドルを握り、さて、と夜の中を進もうとして、後ろ髪をひかれるようにあの窓を見上げた、その時。

雪————。

と見えたが、それはすみれがちぎった紙きれだった。

札束ではなく、手紙だった。それはひらひら、ひらひらと柔らかに、しばしふたりの間を漂っていた。最後に彼女は、マニラ封筒もちぎって、風に流した。

颯太が手を振ると、すみれがふりむいた。群青色の夜空に、それは奇跡のような一瞬だった。

もしもミスタ・リンが再び手紙を書き、デリバリーの依頼が入ったら、すぐにでも自転車を走らせるつもりだった。

一週間後にその機会は訪れたのだが、結論から言うと彼女には会えなかった。インターフォンを鳴らしたら、「すみませんが、引っ越してきたばかりなので」と男の人の声が言った。すみれの存在の痕跡は微塵もなかった。

3月の夜。

店の電話が鳴った。ためらうような間を置いて、再び鋭く鳴った。

ちょっとかけてみただけなんだけど、と言いたげで、でも早くしないと私、行ってしまうからねと突き放すような。彼女の声そのものみたいな鳴り方だった。

「タロット・カード占いの結果はどうだった?」

マスターから受話器をもぎ取り、そう言った。

「なんの話?」

相変わらず、小鳥のように気まぐれな調子だ。

「いい物件が空いたから、そっちに住むことにしたの」

「きみの恋人はさぞかし落胆しているだろうな」と颯太は言った。「あんなに長い手紙を書いたっていうのに」

「あの人は父親よ」と、すみれは事もなげに言った。「N.Y.に住んでいるの。もう10年以上も会っていないけれど」

そこまで言って、彼女の息づかいが変わった。

「今日電話したのはね、ミスタ・リンに伝えてもらえたらと思って。心配御無用ですって。私もう子どもじゃないのよね」

電話を切った後、何か大切なことを話し忘れたことに気づいた。それが何だったのか思い出すのに時間がかかった。そうだ。次に会ったら、小説を披露するつもりだったのだ。

でも颯太が感じていたのは彼女の髪の香りだった。あのうんざりするほど甘ったるいシャンプーの香りに、ただできるだけ長い間浸っていたかった。

マスターがグラスにメロンソーダを注いでいた。氷の音が、カランと響く。

「すまないが、バニラ・アイスクリームを切らしているんだ」

「別にいいです」

「ま、あれは魔法みたいなものだから」

わかるようなわからないような表現に、颯太はふっと笑った。

「マスターはどうして喫茶店をやってるんですか?」

「それはほら、俺は愛を伝えたいからさ」

「愛って言葉、曖昧すぎますよね」

「愛としかいえないもんが、世の中にはあるんだよ」

ミスタ・リンのマニラ封筒がカウンターに載せられていた。マスターは平然とそれを引っ込め、壁時計を見た。「もう、上がっていいぞ」

0時を回っていた。

深夜の喫茶店の、いちばん奥の小さなテーブルに広げられた原稿用紙。そこへ雪のように、ひっそりと積もり重なっていく言葉があった。

一生彼のことなど眼中にない女優との出来事は、次々と生まれてくる言葉に覆われ、やがて見えなくなった。

目的地を見失い、行きづまると、本当の本当の内側に耳を澄ませ、書いた文章を朗読した。次の一文が出てくるまで、夢中で繰り返した。

朗読の声は店内をぐるりと一巡りして、歌のように響いた。夜の片隅へこぼれ出した光の中に、ひそやかに流れつづけた。





<おわり>

この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』3月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「うたう」。登場人物が歌にのせた思いが文章からも響いて伝わってくるような、6作品が集まっています。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。

『文活』へ寄稿した作品の幾つかは、ゆるやかにつながっています。関連した作品の一つはこちら。もしよければ、他の作品も併せてお楽しみください。



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