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短編小説 「コインランドリーで朝食を」

冬休みの一日目。リナは早起きをしてさっと身支度をすませると、たまっていた洗濯物をバッグにつめてアパートを出た。

たっぷりのバターで焼くフレンチトーストをあきらめたのは正解だった、と淡いグレーの空の下を急ぎながらリナは思った。通りをすこしはずれたアパートはただでさえ日当たりがよくないし、午後はつめたい雨の見込みとニュースが知らせていた。

駅へ続くなだらかな坂道を下っていくと、ひときわあざやかな赤い花が入口にこぼれ咲く古びたコインランドリーがあった。こんな時間でも先客がいる。店内を見渡すと、空いている洗濯機は2台あった。そのうちの1台にはおもてに大きく貼り紙がされていて、誰かが怒りにまかせて書いたような字で、『このドアは開きません』とある。

洗濯物を洗濯機に入れ、あらかじめ準備してきたコインを投入する。ブーンと低い音がして、ドラムが回転を始めた。

(さて、これでよし)

待合の席で水筒にいれてきた熱いコーヒーを飲みながら、かなり自分は都会に慣れてきたのではないかとリナは思った。大学に入学したときの、ひとり暮らしを始めて間もない頃のように、紙幣の両替にもたついたり、1時間あまりも列に並んだりはしない。ぼんやり近所を散策している間に、順番をとばされてしまうこともない。

いや、そうじゃない、とすぐに彼女は思い直す。ただ他にとりたててやることがなく、行くべき場所もないだけなのだ。

クリスマスが終わり、世間は年末年始の慌ただしい雰囲気がただよう。とくに外出の用事がないからと部屋にこもっているのも、なんだか気持ちが落ち着かなかった。

じっとどこへも動かないでいると、人でごった返す駅のホームみたいに、いつしか隅へ追いやられてしまうような気がする。だから定期的にコインランドリーへ来るのは、まず生活のためであるけれど、この世界の端から落っこちないようにするためでもあった。

水筒のなかに小さなため息をつくと、数滴垂らした洋酒のコアントロの香りがほんわり熱を帯びて跳ね返って来る。手のひらに慣れたその水筒のあたたかさは、リナの体の奥底にたまった寂しさを、ひととき和らげてくれるような気がした。

斜め向かいの席で、縁なしのめがねをかけた青年が文庫本を読んでいた。アパートに洗濯機を持っておらず、冬休みに帰っていくところのない点で、彼とリナは共通していた。ふたりは顔見知りだった。目が合うと、どちらからともなく会釈をした。

『ティファニーで朝食を』。彼の読んでいる本の題名を、リナはちらっと盗み見た。読んだことはないけれど、N.Y.のティファニーで朝食を食べる話ではないことくらいは知っている。

また目が合いそうになったので、リナはあわてて視線を別のところへ向けた。東京を描いた映画は嘘だらけだ。ちょっといいなと思うひとと、自然と仲良くなれるのを期待してはいけない。

ほかの席には、古びたコインランドリーには似つかわしくないような金髪の美人も座っていた。都会にはいろいろな人がいる。このうち自分と同じような寂しさを抱えている人が、果たしてどれぐらいいるのだろうかとリナは思った。

異変はそのすぐ後に起こった。

———ガコン、ピー。

いやな音がして一台の洗濯機が止まった。自分の洗濯機だ。リナにさっと緊張が走った。

都会に来てから、リナはいくつか大切なことを学んだ。不運なことがあっても、人に助けを求めてはいけない。冷静さを装い、物事を前へ進めなくてはならない。コインランドリーのような限られた空間でも、そこは外の世界をそのまま移し替えただけなのだから気をつける。決してオロオロしてはならない。

と、頭ではそう思うものの、実際にそうふるまうのはむずかしかった。

目につくボタンを全て押してみる。ドアを開けようとしてみる。何か引っかかっているのだろうかと、中を覗いてみる。閉じ込められた下着やシャツが泡まじりの水に濡れそぼり、ひとかたまりの混沌になっているのが見えた。なんだか行き場のない自分を見ているようで、ますます悲しさがつのってくる。

「管理会社に電話をかけたらいいと思います」

と、なすすべもなく立ち尽くしているリナに、先ほどの青年が救いの手を差し伸べてくれた。そうだ。動揺のあまり気がつかなかった。安堵のあまりリナは泣き出しそうになった。

修理のお兄さんはすぐに来てくれた。洗濯機下部のカバーを開けて中を点検し、ボタンを押して、フタを閉める。ものの数分で作業は終わった。何ごともなかったように再び洗濯機が回り始める。顔のほてりが徐々にさめていくのを感じながら、リナがお礼を言おうとした、その時。

背後から誰かが勢いよく歩いてきて、目の前で立ち止まった。

「おにーさん」

驚いて声のしたほうを見やると、先ほど見た美人が立っていた。革のジャケットにヒョウ柄のスカート、透き通るような金髪。

「おにーさん、これも直してくれない?」

彼女は『このドアは開きません』と貼り紙されている洗濯機を指さした。

「えっと、お客様のお名前は……」

「紺野すみれ」

彼女は堂々とそう名乗った。お兄さんはタブレットで彼女の名前を検索するが、それらしきものは見当たらない。

「カスタマーセンターにご連絡されました?」

「してない」彼女はぶんぶん首を振る。「今、お願いしてるんだけど」

お兄さんは困っている。

「すみません、本部から指示受けてないので」

言い合っている二人を、通りすがりのお客がちらりと眺めて眉をしかめる。しかし、彼女はそんな雰囲気に敗北するような子ではなかった。

「このひとのだけ直して帰るってこと?」

だしぬけに肩をつかまれ、リナは一瞬で固まった。東京を描いた映画は嘘だらけだが、いつも決まって自分にトラブルが起こることだけは本当だ。

お兄さんは「とにかくすみません、今回は」と、のらりくらり立ち去ってしまった。作業服の後ろ姿が、面倒はごめんだと告げていた。

「ふん」

彼女は口びるをつんととがらせた。そして周囲を見回し、誰も自分を相手にしてくれないのを悟ると、大きなトートバッグをドサッと床に投げ置き、くるっと踵を返して走り去った。

そして戻ってきた時には、どこで調達したのか、ドライバーを手にしていた。

洗濯機はいかにも頑丈そうなステンレス製で、あらためて見ると家庭用のものとは比べ物にならないほどの大きさだった。ドライバーを握ったすみれがそれに立ち向かう姿は、まるでB級映画のワンシーンのように見えなくもなかった。

店内の音楽がクラシックを流したのに合わせて、すみれが洗濯機のドアを力まかせにこじ開けようとした。ガリッという音がコインランドリーに響いた。

「ちょっと待って」

一部始終を見ていた青年が手を伸ばし、すみれを止めた。あんた誰?と不満げなすみれに、青年はタクトと名乗った。

「そんなことしたら、洗濯機が壊れる」

タクトの諭すような口調からは、おせっかいな性格が垣間見えた。

「他に開け方ある?」

「主電源を入れるんだ。いや、そういうことじゃなくて」

会話の噛み合わなさを、タクトはどうとらえていいかわからなかった。

「そもそも君、一体どこからそんな道具を」

「さっきのお兄さんに借りた」

と言った後、すみれは「ていうか、もらった」と曖昧に答える。

「え、」

ふたりのやりとりを見ていたリナの手に力が入った。

ドライバーなんて、中学の頃、退屈な授業でいちどさわったことがある程度で、それ以来、思い出すことさえなかった。でも今、魔法のステッキのごとくドライバーを握りしめたすみれを見ていると、私、こんなところで順番待ちなんかしたくないの。あなたたちはそれでいいの? と言われている気がしたのだ。

リナは、思わずその会話に割って入った。

「私、電源を入れる方法は知ってる。さっきの修理を見ていたから」

思ったとおり、先ほどの修理の要領でうまくいった。カバーのねじを開閉するのにドライバーを使った。ピッと電源が回復し、ドアロックが解除される。

すみれがいち早くドアに手をかけた。そして貼り紙で中が見えないのをいいことに、冗談めかしてこんなことを言った。

「もしかして、死体でも入ってたりして」

リナとタクトは顔を見合わせた。たしかに洗濯機には人がひとり入ることも出来そうで、とすると、もしかしたら、そんな話は古びたコインランドリーにはお似合いかもしれないとふたりは思ったのだ。

「なんてね、冗談冗談」

からからと笑っていたすみれだが、ドアを開けるやいなや真顔になり、ものすごい勢いでドアを閉めた。

それから1、2歩後ずさりして、床にぺたんとしゃがみ込んでしまった。

「———。」

ゆっくりふり向いた表情は、見てはいけないものを見てしまった時のそれで、さっきの様子とは全く違って、ひどく青ざめている。

いつの間にか持っていたドライバーを、リナはお守り代わりにぎゅっと強く握りしめた。手のひらに慣れない、どっしりとした硬い感触だった。

リナはそれから洗濯機に歩み寄り、自分でもなかなか勇敢だと思える大胆さで、おもむろに中を覗き込んだ。

「それで結局、あのあとみんなでリナの部屋に行ったのよね」とすみれ。

「すっかり意気投合しちゃって」

あれから何年が経っただろう。毎年この時期に集まるのは3人の恒例行事になった。

モニターに映ったすみれが笑っている。女優志望だったすみれはこの数年間でいくつか映画に出た。あの時の演技力は本物だったと、3人の思い出話はいつもそんなふうに始まる。

リナとタクトはモニターの同じ窓の中に並んでいた。リナの方から誘って、ふたりが一緒に住み始めたのは1年前。もう何もかも20歳をすぎたばかりのあの頃のようにはいかない。でも20歳の頃のように泣きたくなることはある。例えばあの、コインランドリーで洗濯機が動かなくなった日のように。

あの時、私たちが開けたのは一体何だったんだろう、とリナは時々考える。

なんてことはない。洗濯機の中には、何も入ってなんかいなかった。空っぽだ。私たちは空っぽの洗濯機を開けただけだった。けれど、空っぽという言葉で片付けるには、あまりにも言い足りない何かが残る。

本当はそこには、何が入っていたんだろう?

生涯の友人や恋人との出会い? 
不運を切り抜ける知恵と強さ?
それを笑いとばすユーモア?

いつもうまく言葉にはできない。3人で泣いたり笑ったりした日々の断片が、シャボンの泡のように、ただはずみ出ては消えていく。

あの空っぽの中には、きっとそんな将来のすべてがつまっていたのだ、とリナは思う。

「リナの作ってくれた朝ごはん何だったっけ?」

「フレンチトースト」と、声が揃う。

全員がその光景をはっきりと思い出せる。窓の外には雪まじりの雨がふり始めていた。やわらかく乾いたブランケットは3人の膝に心地よく、テーブルの上には、コアントロの瓶に差した一輪の赤い花があった。

バターの香りただようキッチンで、ふたりはナイフとフォークと指先までべたつかせながら、リナの作るおかわりが焼き上がるのを待っていた。リナはこの時、初めて都会が自分の居場所になっていると感じていた。

ドライバーのグリップの感触がまだリナの手のなかに残っていた。その感触は、世界の縁をたぐり寄せたささやかな実感のしるしとして、長くそこに残った。






<おわり>

この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』1月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「あける」。「何がはいっているの?」のワクワクや、目の前がひらけるような体験が詰まった6作品が集まっています。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひ訪れてみてください。

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