見出し画像

短編小説 「パンとマリッジ・ブルー」

 誰かにコップの水をひっかけたことある? 夕食時、姉のリナは静かな声で言った。やっちゃったのよね、私。

 まさか、と軽く笑って、でも彼女ならやりかねないな、と妹のすずは思った。スープはすっかり平らげられ、スライスされたバゲットがお皿の上に数枚残っているだけになっていた。

「おねーちゃん、そんなドラマみたいなこと普通はしないよ」

「私もそう思ってたよ。実際に自分がそんなことするまでは」

 GWが終わった翌日、母から電話があった。

 リナが会社に行ってないみたいなんだけど、何か知ってる? そこにいるの? 成瀬さんは迎えに来ないの? 婚約者なのに? 結婚式の招待客リストはいつ取りにくるの? 

 すずは答えようがなかった。直接話しなよ、私だって仕事辞めたばかりで今それどころじゃないんだから。すずがそう言うと、母は電話を切った。それからもう一ヶ月が経とうとしている。

 突然、しばらく泊めてほしいとやってきたのだから、何かあったには違いなかった。でも「何かあったの?」の一言がすずには切り出せなかった。「ねえ、」頬をテーブルに押しつけ、気だるそうにリナが言う。「もし婚約者が、誰か別のひとと二人きりで食事をしたらどう思う?」

 それで、物事の始まりがやっと見えた。頭の中でパズルを始めてみる。姉と成瀬さんとの間に、思いがけない出来事が起こって———例えば成瀬さんがひそかに誰かと会っていたとか———それで姉は家を出てきたのかもしれない。 

 ふと目にした姉のつむじの、黒い地毛に思考が止まる。彼女はもう結婚式を控えたお嬢さんではなく、何か複雑なものを抱えた女に見えた。見てはいけないもの、というよりも見たくないものを見てしまうような気がして、パズルを完成させるのがわずらわしくなる。

「食事くらいはするんじゃないかな。婚約しているといっても、いろんな事情があるだろうし。ほら仕事関係とか」

 言葉を選びながらすずは答えた。

「そっか」

 リナの返事はひっそりとしていた。次は何を言われるのだろう、と思わず身構える。しかし投げられたのは脈絡のない質問だった。

「このバゲット、すずちゃん作ったの?」

「ううん。知ってると思うけど、もうパン屋辞めたの。だからもう作らない。私、才能ないし」

「えー? 職人になる!とか言ってたのに」

 一瞬、ばかにされたのかと思ったが、そうではないみたいだった。リナは皿の上に残っていたバゲットを一口かじると、「これよりすずちゃんのパンの方が美味しくて好きだな」とつぶやいた。

 ———そんなはずはない。クープ(パンの表面に入った切り込み)のエッジが見事に立った、内層も味も申し分のないバゲットだ。

 バターや砂糖が含まれるリッチなパンとは違って、基本材料のみで作られるバゲット生地は扱うのが難しい。でも最高の出来に焼き上がったものは、オーヴンから出した時パリパリと芸術的な音を立てる。毎日そんなパンを厨房で焼き、幾つものコンクールで名を上げた「あの人」のバゲットに、これといった成果もないまま製菓学校を卒業しただけの自分が敵うはずがない。

「また作ってよ。食べたい」

 何の権限があるのか、命令するようにリナは言った。いつもいつも、そんな姉の態度にはうんざりする。

「簡単に言わないでよ」

「わかってるけど。でも焼きたてのパンって良いよね。人を幸せにする最高の魔法だよ」

 バゲットを一つ噛みしめると、甘く幸福に満ちた味がした。ぐ、と呑み込んだら、胸にちくりと小さな痛みが走る。残った分を捨てようとするも、思い直し、結局、ビニール袋に戻した。

 ———「あの人」の作ったパン。青山さん。

 自分がいなくなっても、青山さんのバゲットは変わらず完璧だ。辞めた店にわざわざ出向いて確かめたその事実の捨て場所を、明日こそはゴミ箱に決めなくてはならない。湿った夜風を肌に感じ、ピシャッと音を立ててすずは窓を閉めた。

 人を幸せにする最高の魔法。もしそういうものが存在するとしたら、それは青山さんがつくり出すパンだと思う。
 
 全国展開する大手のベーカリー。販売からスタートして、二年目でやっと厨房に立てることになった。ジャムを煮、カスタードを炊くあの小さな場所が、かけがえのない居場所だった。オーヴンから出したてのパンをショーウインドウに陳列すると、朝の陽の中で、文字通り光って見えた。

 青山さんと何度か一緒に食事をした。明かりを落とした厨房でふたりきりになり、ついに「好きです」と言ってしまった時、彼はちょっと困った目をした。

「僕にとってここは、パンのことだけを考える場所だから」

 そんな言葉のあと、夜を一緒に過ごした。いつも決まって夜明け前に帰宅するのは、恋人に朝食を作るためだと知ったのはそれから数ヶ月後のことだ。

「彼女が来ると、青山さん休憩に行っちゃうよね。あの子の実家、有名な老舗ベーカリーらしいんだけど、青山さんの婚約者なんだって」
 
 知ってた? と、同期の販売の子が、お客として来た女性をこっそり指さして教えてくれた。視線の先で、花瓶に飾ったグラジオラスが揺れる。

「いずれ青山さん、ここ辞めて後を継ぐって話」

 瞼をぎゅっと閉じ、深呼吸して、体をゆるめる。眠らなくては。何も考えないようにしても、さまざまな色の靄が闇の中から迫ってくる。ブランケットをかぶり、小さく丸くなると、しばらくしてやっと眠りが訪れた。

 食料品を買って帰宅した時、アパートの前でスーツ姿の男を目にした。一瞬、成瀬さんかと思ったが、よく見ると知らない顔だった。集合ポストに貼られたすずの苗字を、調べものでもするみたいにじっと見ていた。

 男と目が合った。

「こんばんは」

 と、彼の方から歩み寄ってきた。押し付けるように渡された名刺には、姉の勤めている会社名が記されていた。

 お姉さんにお伝えしていただきたいことがあります、と、どこか怯えたような表情で彼は言った。ずっと会社を休んでいて心配している、とにかくメールの返信を下さい。彼はそして逃げるように去って行った。

 たったそれだけのことを言うために? ———直感の信号を受け、パズルの続きがひとりでに始まる。想像していなかった絵が見えてくる。それを見てしまったら、次にどうするべきかわからなくなるだろうと思った。
 
 リナはキッチンでカップヌードルを食べていた。

「体に悪いってわかってても、時々食べたくなるの」

 すずは無言で食料品を冷蔵庫に仕舞い、買ってきたパンをテーブルに広げた。今日もお店に行ってしまった自分を未練がましく思う。ガラス越しに、いつもと変わらずパンの成形に勤しむ青山さんが見えた。

「あ。下であの人に会った? しつこくメールしてくるんだよねえ」

 リナはそう言って、テレビを見て小さく笑った。

「どういうこと?」その横顔に、腹立たしさが込み上げてくる。

「おねーちゃん、もしかしてあの人と会ってたの?」

「やだなあ、そんな関係じゃないよ。ただの職場の先輩」

 目の前に並ぶパンをぼんやりと眺める。カンパーニュ、クロワッサン、季節のフルーツ・タルト。それらはあまりにも静かな物体として、目に映った。

「……それはやっちゃいけないことだよ」

 リナが不思議そうな目で見返してくる。

「勘違いしないでほしいんだけど。仕事の相談くらいするでしょ? まさか恋愛感情なんてないし」

  嘘だ。思わずかっとなって声を荒げる。

「ふたりきりで会ってて恋愛感情じゃないって、あるわけないじゃんそんなこと!」

「あるよ」

 胸につかえたものが爆発する前兆を感じた。「そういう言い方ってどうなの?」自分の言葉に頭が追いつかず、声が震える。「正直言って、迷惑だよ。姉だっていうだけで人の部屋に押しかけて、何の権利? マリッジブルーか何か知らないけど、鬱陶しいよ。そんなだから、成瀬さんも迎えにきてくれないんだよ。それって、惨めなことだよ!」

 リナの顔から表情が消えた。「あなたに何がわかるの? 職人になるとか言ってたくせに、仕事辞めて、能天気に生きてるだけじゃない」

 何をしたのか、自分でもよくわからなかった。気がつけば椅子が倒れ、テーブルの上のものが散乱していた。宝石のようなタルトも、惨めにつぶれて床にころがっていた。痛む手を押さえると、割れたカップで切った指から流れる血に触れた。

 ふと我に返ると、姉はこれまで見たことがない顔をしていた。
 
 すずはのろのろと部屋を出た。ポケットから取り出したスマートフォンは黒い夜空をひっそりと映し出している。ひやりとしたその画面に触れると、迷惑だろう、とか、嫌われたくない、とか、つまらない事が頭をかすめる。でも、本心に従うことにした。切り傷が痛む指で、送信ボタンを押した。

 クープを成功させるためには、迷いなくナイフを引くんだよ、と青山さんは教えてくれた。充分に休ませた後のふくよかな生地は、まるで生まれたての赤ん坊の肌に見えて、メスを入れるようにナイフを差し込む度に、すずは息の止まるような思いがした。それでも焼き上がった美しいパンに、ため息とともに確信する。青山さんはやっぱり正しい。

 時間きっかりに彼は約束のカフェに現れた。

 最後に向かい合ったのはいつだろう。ふだんから味の濃いものを摂らないようにしている彼が、通りかかった店員に「ぼくにもコーヒーを」と注文した。

 困惑を滲ませた目が、要件を問う。

「青山さん、私、『もう会えない』って言われた理由を、ずっと考えてました」
 
 恋愛感情はなかったですか? と言いたい気持ちを押し殺して、先を続ける。

「……けど、お付き合いしてるひとが、いたんですね」

 彼は真顔でコーヒーを啜り、言葉を探しあぐね、しばらくしてやっと口を開いた。

「本当にクズみたいなこと言うけど」

 すずが何かを答えるより先に、彼は言葉を続けた。

「もしぼくがこのまま婚約者と付き合って、でも本当はすずちゃんのことが好きだから関係を続けていきたいって言ったら、すずちゃんはそれに応えてくれるかな」

 寂しさが、きんと心に刺さった。冷え切った冬の湖面のような目が、まっすぐにすずを見つめていた。

「ぼくには人生を賭けた目標があって、それを達成するためなら、都合の悪いことを全部見ないようにできる。すずちゃんは、そんな人間、受け入れられる?」

 コーヒーが静かに冷えていく。

 美しく、調和のとれた、完璧なパンを作る青山さんの心の芯に、震えるような孤独を感じずにはいられなかった。そして、同時に、わかってしまった。

 青山さんの才能に憧れて、尊敬して、心酔しているつもりになって、人としての彼を、全然見ていなかった。

「すずちゃん」

 彼が呼ぶとすずは顔を上げた。

「すずちゃんの作ったカスタードもジャムも、とても美味しかった。当たり前のことだけど、たとえレシピ通りに作っても同じようには作れない」

 うつむくと涙が落ちそうで、すずはまっすぐ前を向いていた。好きだった人の顔がじわりと滲む。

「またパンの仕事に就いて。辞めたら、もったいない」

 何事もなかったかのように手を振って別れて、雑踏に消えていく背中を見送る。こんなこと、あの人にとっては初めてじゃないのかもしれない。鼻を啜りながら、ひどいなあ、しみじみ思う。それでも、彼がその心の内層の、美しくも正しくもないところをちゃんと見せてくれたことを、愛おしく感じた。

 コンビニに寄って材料を買い込んだ。冷蔵庫の在庫を考えることなく、むしろ多めにカートに入れる。リスドォルの粉やゲランドの塩はないけれど、形にはなるだろう。

 ただいま、と、小さな声でドアを開ける。食材を抱えてキッチンへ急ぐと、がらんとした部屋が目に入った。部屋はすっかりきれいに片付けられ、まるで何事もなかったように見えた。

 うっすらとカップヌードルの匂いが漂う中、棚の奥に仕舞いこんでいたボウルやボードを洗ってきれいにした。レシピを決め、作りたいバゲットのイメージをを強く祈るように心に思い描く。長い夜になる、と思うと、体の回路が熱を帯びた。

 生地をひたすら手順通り捏ね上げ、やっと発酵まで漕ぎ着けた時、時計は四時を回っていた。くたびれた頭と腕を休めるため、ベランダに出て外を眺めていると、点滅する信号機が、誰にも知られない光を散らしていた。

 ふと思い出した。まだ実家にいた頃、泣きたい夜に、よくパンを作った。あの時持て余していたのは、寂しいという気持ちだったのかもしれない。

 ベランダから戻ってくると、リナが白いブランケットを頭からすっぽりかぶって、ソファに横になっていた。
 
「……なんか、ベンチタイムのパン生地みたいよ、おねーちゃん」

 もぞもぞとブランケットが動いた。

「んー、何?」

「ベンチタイム。傷ついた生地を休ませて、回復させること」

 リナは青い顔をしていた。寝室からは長いことヒソヒソ声が漏れていた。もしかして姉は泣いていたのかもしれない、と、ふと思う。

 パン作りがあってよかった、とすずは思う。私には、寂しい夜に時間をかけて無から形をつくり出し、焼き上げ、かぶりつくことを覚えたパンがある。どうしようもなく寂しさがふくらむ夜を、まるで子どもの頃のように泣きたくなる夜を、まだこれから幾つも越えていかなくてはならない。そんな時、寂しさをまろやかにしてくれる何かが、姉にはあるのだろうか。

「部屋を、片付けてくれて、ありがとう」

 そう言った後、すずは、クープナイフを手にした。

「……すずちゃんさー、もう、急にドラマみたいなことするんだからさ」

 リナは言ったが、咎めるような声ではなかった。

「片付けるの、大変だったよ。でも、ひどいこと言って、ごめん。私、甘えてたよ、すずちゃんに。明日、成瀬さんのところに帰る」

 そっか、とすずはコクリと頷いた。再び姉妹に戻れたような気がした。と同時に、二人の心には、夜の片隅でそれぞれ捏ね上げた、もう元の形には戻らないものがあった。

 この間の会話がふと思い出され、コップの水をひっかけた話をまだリナから聞いていないことに気づいた。そういえば、と口にしかけたものの、やっぱり後回しにしよう、と思う。

 生地はひとまわり大きくふくらみ、しっとりと白く、美しかった。火入れはうまくいくだろうか。パン生地は生き物だから、どんなに上手くいくと思っても、焼き上がるまではわからない。途中でこれはだめだと思っても、最高のパンが焼けることもある。

 オーヴンの余熱は最高温度に達している。クープナイフを握り直して、呼吸を止める。初めてのクープは格好悪かった。生地が息苦しいほどつまっていて、生焼けで、ひどいものだった。でも、それは、成功してからわかる。立ち止まって、休んで、やり直して、再び経験してから、わかる。

 ためらわず、思いきりよく、一直線に。大丈夫、今夜やり直すべきことは、もう、ない。

 





<おわり>

#文活

この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』6月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「やすむ」。時間のながれに身を預けて心がやすめられるような、そんな6作品が集まっています。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。

『文活』へ寄稿した作品の幾つかは、ゆるやかにつながっています。このお話と関連した作品は今のところ二つです(12)。もしよければ、つながる部分を探しながら、その他の作品も併せてお楽しみください。


サポート、メッセージ、本当にありがとうございます。いただいたメッセージは、永久保存。