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表現の正解を目指さない

私は短編小説が好きだ。短編小説のアンソロジーなど、一冊にさまざまな人生や感情、人間の美しさから濁りまで、名前のつけられない模様がつまっていてとてもおもしろい。

お菓子のアソート・セットのように、好きなフレーバーとそうでないものを選り分けながら楽しめるところも良いと思う。


このたび、なみきさんよもぎさんのおふたりにおさそいいただき、人びとの生活に小説を届ける文芸誌『文活』へ短編小説を寄せることになった。

好きなものだけを封じ込めた自作のリトルプレスやZINEとはちがう形のチャレンジ。ためらいや不安はあったけれど、新しい風の中へ身を投じてみたいという誘惑が勝った。

創刊号のテーマ(「あたためる」*下記リンクあり)をどう表現しようかと考えている時、頭に浮かんできたのは私の偏愛する作家、小川洋子さんの言葉だった。

どの本で読んだのかわすれてしまったけれど、書評か、あるいはエッセイの中の言葉だったと思う。

(けれどよくよく考えてみると、「良い作品」ではなく「好きな作品」や「読みたい作品」の話だったかもしれない。うろ覚えでごめんなさい)

小川さんの言葉を思い出した私は、「表現の正解を目指さないようにしたい」と書いた。

でも手垢にまみれたその言葉でピリオドを打つと、やっぱり言い足りない何かが残ってしまったように感じている。

たとえば、ステージの上で懸命にダンスして歌う10代の女の子たちを見た時。彼女たちはいろいろなものを抱えながら、それでもありのまま全力で表現している。炎が風に焚きつけられるように。

どこからきてどこへゆくものなのかわからないその熱に、私の心はどうしようもなくゆさぶられ惹きつけられる。まるで年齢も環境も異なる彼女たちを、ほんのひととき我がことのように感じる。

そして思う。人間って何なんだろう、と。

そんなパフォーマンスを私は文章表現でしたい。『文活』での新しいチャレンジとは、私にとってそういうことになるのだろうと思っている。

一冊の短編集を読み終えた後、物語たちはそれぞれの密度にしたがった順番で、心の奥底にひらひら沈んでいく。

そんな余韻をぼんやりと味わいながら、人間について考えるのは、とても贅沢な時間だと思う。その思考体験はしなやかな強さになり、やがて他者へのやさしさやねぎらいにつながってゆくのかもしれない。あるいは自分というよくわからないものの存在の意味へと、ゆるやかに。

お菓子のアソート・セットはいつも決まったものから食べたくなる。でも時々ちがうものに手を伸ばしてみると、それはそれで思いがけず新鮮な味わいがあるのだ。

明日、12月10日(木)創刊号発刊の『文活』、詳しくはこちらをどうぞ。

私も紹介していただきました。

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<追記>

創刊号に寄せた作品はこちらです。


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