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夜風喫茶店 #2 「海で」

今宵もお気に入りの夜風よるかぜ喫茶店。

窓の外の景色は、いつも通り降りてきた夜に沈む、いつも通りさえない街並み。でも決してつまらなくないのは、夜しか開いていないお店だから。

紅茶をのみながら、今日の出来事を回想するにはもってこいのお店。

長期休暇は、やたらと登場人物が多くて、街の色も海の色も、磨いたように鮮やかだった。私はふだん着と革のジャズ・シューズで海へ行ってしまって、だから海は私を、正式なお客としては迎えてくれなかった。でも私は街の生活が好きだから、そんな関係はむしろいいなと思う。

水は透明で、波はきらきら泡を立てて輝いていた。波打ち際をのんびり歩いていると、三歳か、四歳くらいの男の子が駆け寄ってきて、言った。

「ここがうみのいりぐちだよ」

見ると、じょわじょわと水に浸された海綿のようなものが心地よさそうに波をたゆたっている。なるほど、これが目印なのか。誰のものでもない海を、自分だけのものにできるのは立派な才能だ。

「ここから海の世界へ入れるの?」

私はおもしろくなって訊ねる。

「ダメだよ」

彼はあっさり首を横に振った。

「じょうしゃけんがないから」

「乗、車、券?」

確認するように私はその言葉を繰り返した。ちいさな口から大人の言葉が発せられたことに驚く。というより、もとより言葉に、「大人のもの」だとか「子どものもの」だとか、そんな区別はないのだ。私は生まれて初めて教えられたような気がした。

「そう、かたみちきっぷ」

「どこで買えるの?」

「あげる」

彼は私の手をとり、指を絡ませた。押し込まれた硬い感触は、淡い桜色に染まった貝がらの乗車券、二枚。

「とくべつに、おうふくきっぷをあげる」

彼の興味はもうすでに別のものに移っていて、矢のように駆け出して行った。あとには海の入り口でたたずむ私だけが、砂に書かれた意味のないラクガキみたいにぽつんと残る。

私は乾いた場所にすわり、どこへ行くにも携えているノートを開いた。いま書いているお話の続きを書かなくては。海の見える喫茶店のお話は、もうすぐ最終話。あれこれ考えず、頭の中のもやもやをジッと見つめることが大事だ。現実の視界に、何が見えるかということよりも。

膝の上でノートを開いたまま待っていると、ゆっくりゆっくり波が寄ってくる。甘く、誘うように。海の入口。現実と物語のあわい。つい私の目は海綿に行く。あまり見入っていると、そっと連れこまれそうで怖くなる。

海が、ほつれる。海綿が波に揺すられ、そこから扉がほんの少し開いて、閉じた。

あまりに風が気持ちいいから、とろとろ夢の底に降りていくみたいな心持ちで、気がついたら、もう帰る時間だった。潮はいくらか引き、海綿はどこかへ流れ去っていた。貝殻の乗車券はどこへ置いたのだろう、見回してもどこにもなかった。

いま、夜風喫茶店で、香りのよいアールグレイをのみながら私に貝がらをくれた彼のことを思うと、その子が三歳か四歳だったと考えるのはやっぱり難しいような気がする。

紅茶をのみほして店を出ようとしたら、老人が入ってきた。ときどきこの店で見かけるその老人は、昔、いくつか映画を撮ったのだそうだ。でも、その人がどんな映画を作ったのか知っている人は誰もいない。ラブ・ストーリーなのか、アクション映画なのか。売れたのか、そうでないのか。

老人はちょうど海べの散歩から帰ってきたところで、海水の匂いがする。ゆうまずめよりあとの海には誰もよりつかないから、もしかしたらすこし変わった人なのかもしれない。

「こんばんは。いい小説は書けたかい」

私のノートを見て、そんなことを聞いてくる。

「大したことは何も」

手短に済ませるべきなのに、興味を持たれているのがうれしくて、言葉を続けてしまった。

「『海で』、というタイトルのお話の冒頭部分を」

彼は真顔だったが、私の言い方がおかしかったのか、すこし笑う。老人は、カウンターに寄りかかり、湿ったツイードのハンチング帽を脱いだ。潮風に長く当たっていたせいか、店主がもてなした熱い紅茶が快さそうだ。

「ちいさな男の子に会って……」

「ああ」

「あなたも会ったの?」

「さてね」

彼は手さぐりでポケットの中をまさぐる。いたずらを仕掛ける少年のような、あるいは撮影にカットをかける一瞬前のような目をして。

「浜で、久しぶりにこんなものを拾ったよ」

「え?」

「……ほら」

(あ!)

なにが飛び出すのだろうと思っていたら、それは桜色の貝がらだった。反射した光の中に、ちいさな虹が見えた。

「子どもの頃は、いくらでも拾えた。でもいまじゃ、見つけても一枚きりだ」

老人は、しわだらけの手で大事そうにそれを握りしめ、咳ばらいした。彼の中に存在する「語るべきもの」を吟味するように、ゆっくり紅茶をのみながら、ひとり深く頷いたりしている。

「映画を一本撮るなら、だいたい十枚くらいは必要だな。まあ、ゆっくり探すさ」

何とはなしに貝がらをいじりながら、彼は言う。

私はしばらくつっ立っていたが、はたと我に返って、伝票を店主に差し出した。

「まいどあり。海の描写が良くなったね。続きをまた読ませて」

夜風喫茶の店主が親しみのこもった声で私に言う。彼女は私の小説を読んでくれている数少ない人のうちの一人だ。

誰もいない夜道にまたたく信号機の交差点を渡る。しばらく行って、また誰もいない交差点。すぅっと流れていく初夏の夜風。その風の中に、うすれた海の匂いが混じる。

貝がらの乗車券はなくしてしまった。でも、鞄の中にはノートと、そこに記したちょっとしたおみやげ話が仕舞ってある。街のどこかに、私は私の乗車券を見つけるだろう。たとえば、この先の角を曲がったら。新しい季節の風に吹かれて、ぷかぷか夜の波をただよう物語の入口がありそうだ、と私は思う。



<おわり>

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