夜風喫茶店 #1
夜はこんな音を立てるって、もう、ずっと忘れていた。
春の夜風は思いのほか獰猛で、ガタゴト窓枠を揺すっている。すこし耳を澄ませると、その奥から救急車のサイレン。近づいて、遠ざかって、消えていくのを聞いていた。トン・トン・トンと上の階の住人が不規則なリズムの足音を刻む。
気づけばもう四月が終わろうとしていて、始まったばかりと思っていた一年の1/4が過ぎ去ったことに気づく。私はノートを開いて、約三年半書き溜めてきた文字を眺める。細いミミズ文字がいくすじも流れている。暗号もあるし、固有名詞もある。わずかだけれど、美しい響きの英単語もある。
夜風喫茶店。誰かのアパートの部屋みたいな、さびれた古本屋みたいな、はぐれ者の猫たちの溜まり場みたいな、ここはそんな店。今宵は私の他にお客は誰もいない。だから好きなだけ長居できる。
ティーカップにぬるい紅茶がまどろんでいる。ちびちびと飲みながら、私は「あの人」を待っている。もう随分会っていないし約束もしていないけれど、このノートをやっと披露できる夜なのだから姿を見せてくれなくちゃ困る。久しぶりでも天候は悪ければ悪いほどいいし、言葉は多ければ多いほどいい。そして孤独は、深ければ深いほど。
木のカウンターの向こうで店主の女性はキャサリン・マンスフィールドの短編集を読んでいる。私と同じくらいの年齢か、あるいはもっと上。ここの本棚に収められた本は、きっと彼女の趣味なのだろうと思う。私の好きな本もあるし、そうじゃないのも、全然知らない本もある。
彼女はときどき窓の外に向かって、手をあげて何かの合図をする。群青の風に流され、折りたたんだ紙のようなものがひらりと散っていく。
ちゃぷん、と紅茶のはねる音がする。カップの中をのぞき込むと、落ちてきた紙の船がクルクルと回っていた。船長はもう逃げたあとで、その船は水に溶ける。
「誰を待っているの?」
話しかけられて顔を上げると、全身ぬれそぼった若い乗組員が、タオルで顔や髪を拭きながら見下ろしていた。
「もしもあの人を待っているなら、今宵は来ないと思うよ」
「どうして?」
「わざわざ来る理由がある? 会いたいなら、自分で行きなよ」
え、と抗議の目をしてみたけれど、彼はまるで相手にしない。広げたノートも知らんぷりだ。きっと何かを考えたり作ったりすることとは無縁なのだろう。そもそもこんな嵐の夜に、脆い船ひとつで船出するような仕事ぶりなのだから——と見ると、まるで手品師が帽子から鳩を出すような早さで、もう新しい紙船を折りあげている。
バタン、と彼が窓を開けると、船はすべるように出て行ってしまう。店主が窓を閉めようとした一瞬、闇を切り裂く夜風が、ひときわ甲高く鳴る。
私はノートに向き合う。哲学的なアイデアも集めた綺麗なカードもみんなあの人に見せたかった。星と星をつなげて星座を作るように、きっとあの人ならここからおもしろい物語を聞かせてくれると信じていたのだけれど。
仕方ない、と腕時計をはずして、開いたキーボードに指を置いてみたら、傍に新しいティーカップが差し出されていた。もしかしてもしかすると、それは私が淹れたものだったかしら…… 香りのよい紅茶の海は、すでに凪。
私は最初の一行を書く。
「夜はこんな音を立てるって、もう、ずっと忘れていた。」
三年半ぶりの夜風喫茶店だったのに、でも待ちぼうけするよりはいい。手品を練習するより、何か書いていたほうがいい。
ノートのページが一枚やぶりとられていて、たぶんあの若い船乗りが乗って行ったのだ。確か英国詩人の言葉を写したんだった。だから、いい船になったらいいな、と思う。
大丈夫、まだ時間はたっぷりある。好きなだけ長居できる。あしたもあさっても開いている、夜風喫茶店。
<おわり>
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