人はカップヌードルにアートの夢を見るか

先日の買い物の出来事である。スーパーの即席麺の棚を横切った際「カップ麺の容器ないしプラスチックの容器を展示したらどうなるか」というその場限りの疑問がふと頭をよぎった。

どこにでも売ってるカップヌードルを買い、食べる。その後、容器をよく洗い乾かす。

この食べた後の容器、残骸、資源ゴミをいかにも高級そうな布の上に置き、それを守るかのようにアクリルプレートにて保管する。そして台に置き、無地の台紙を貼り付ける。

これで「いかにも」な舞台は完成である。これをどこか人の目に付く場所でも展示スペースでもいい。ぽつんと置くのだ。素通りする人もいればこれはなんだと興味を唆られ近づく人もいるだろう。中には他角度からまじまじと分析し、バックボーンを考察する人もいるかもしれない。無地の台紙の存在により、定義は鑑賞した人間に委ねられているのだから誰が何を想像するかは自由である。

しかしこれはそんな崇高な物ではない。残骸、資源ゴミである。

別にカップヌードルの容器でなくてもいい。道端に捨てられている煙草の吸い殻、誰がの所有物であったであろう帽子、ネクタイ等々舞台装置はいくらでも存在している。

舞台装置を用意し、スポットライトを浴びせるかの如くそこにあれば人は何かしらの意味を見出そうとするのだ。それはまるで植物の「根」のように一つからいろんな可能性を見出しているようで興味深い。

「後世に残り続ける作品」も、
「現代の人間が今の瞬間に生み出した作品」も、
「誰かが何気なく書いた落書き」も、
「先に挙げた道端のゴミを取り繕っていかにもに見せた物」も、
人の五感や感情に一瞬でも意味を持たせられたのならそれは「アート」と呼んでもいいのではないのだろうか。

物体に取り付けられた空白の台紙の著者は観た人自身の想像によって続きが描かれる。それすらも人が人をアーティストにする装置であるのもかもしれない。

見切り発車の瞬間的な空想、妄想。