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白は正しさと雨の色(短編小説)

 私は春城裕樹先輩に恋をしている。

 ファーストコンタクトは今年の冬、泣いている私にハンカチを差し出してくれた雪の降る午後。
 その日は高校の入試試験の当日で、回答欄を埋められはしたけれどもどうにも自信が持てなくて、マイナス方向にガンガン傾いてしまったメンタルに生理前のアンバランスがかけ合わさって、私はついに泣き出してしまった。昇降口と校門の間、校舎からは外、知らない人がいっぱい見ているなかで。すぐに泣いてしまっていることが恥ずかしくなって、逃げるように校舎裏へ駆け込んだ。すっころんだ。その勢いで帰りゆく人たちにとっての死角まで滑り込むことができた。私ペンギンみたいだな、ダサすぎる、死にたい。惨めでしょうがなくなって、また泣いていると背後から声をかけられた。
「おつかれさま」
 振り向くと、恋川高校の制服を着た男の人が立っていて、ハンカチを掲げていた。
「ハンカチ、使いなよ」
「ほっといてください。いいです。大丈夫です。平気です」
「大丈夫かどうかも、平気かどうかも関係ないよ」男の人は言った。「ただ、冬だし、濡れたままだと風邪引いちゃうから、涙とか雪とかついてたらすぐに拭うべきだし、それに助力する僕のほうが、助力しない僕より正しいと思ってるんだ」
「何、言ってるの……?」
「僕は正しいほうを選びたい。だから、君にハンカチを渡したい」
 穏やかな相貌をした男の人は、真面目な声で、にっこりと笑って、私の手にハンカチを握らせた。
 それでもう私は抵抗する気がなくなって、とりあえず頭や制服やマフラーについた雪をはらい、涙と、少しためらったけれど鼻水もふきとった。
「ありがとうございます。あの、これ、ハンカチ……えっと」
「借りるかもらうか選んでいいよ? どっちも正しい」
 と男の人は言うけれど、私からすると、もらうというのは正しいことに思えない――少し触っているうちに、安物ではなさそうなことを察してしまったし。
「借ります。洗って返します」
「わかった。じゃあ、また春に返してね。覚えてるから」
「はい。……あ、でも、……そうだ、どうしよう」
「どうしたの?」
「あの、私、もし今回落ちちゃったら、遠くの親戚の家に住むことに、なってて。だから、どうすれば」
「君は受かるよ。だってほら、さっき」
「さっき?」
「滑り込めたでしょ。セーフセーフ」
 あれ、もしかして結構テキトーな人なのか? と思って内心イラつくけど表情には出さない。中学三年生にもなれば愛想笑いくらいできる。
 で、私は本当に合格する。セーフセーフ。
 春になって、入学後の一週間をかけて先輩を見つける。二年四組。放課後。
 ハンカチを返す。
 名前を訊く。
「春城裕樹。春の城に余裕な樹。君は?」
「宇野黄色です。宇宙で、野原で……イエローです」
「そのまま黄色ってこと?」
「はい」
「なら、あったかい色だね。素敵な名前だ」
 そんなことを言われたのは初めてだった。黄色について茶化すか、そうなんだで済ませてくれるかで、素敵だと肯定してくれたのは春城先輩だけだ。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして、でいいのかな。学校には慣れた?」
「いやあ、まだまだよくわからないですね。でも、校舎の雰囲気、なんだか落ち着いて好きです」
「ああ、わかる? 僕も好きだよ、校舎」
 先輩はそう言って、嬉しそうに笑った。私よりもずっと愛着があるんだろう。この人はこの学校でどんな風に過ごしているのだろうか。しばらくはこの人に付いていったら楽しいだろうか。
「春城先輩。あの、部活って……何かされてますか」
「ううん、帰宅部。委員会は未定」
「そうなんですか。アルバイトは」
「子芥駅前のコンビニで、放課後や土曜日に。今日は休みだけどね」
「子芥駅……恋川駅じゃないんですね。なるほど」
「宇野さん」春城先輩は言う。「僕に合わせたいとか、考えてる?」
「え」なんでバレたんだろう? ひとまず否定だ。「いやいや、そんなことは別に」
「ならいいけど。誰かがいるから、って理由じゃなくて自分に合ってるかどうかでバイトとかは決めたほうがいいと思うよ。いなくなっちゃうことだってあるんだから。部活だって気になるのがあるなら誰がいるとか気にせず入るのが正しいよ」
「……そうですか」
「……そんな寂しそうな顔をしないでよ」
「え、してます?」びっくりだ。
「してるしてる。別に僕と遊んでくれるなら、それはそれで歓迎するから、あんまり気にしないで」
 それから流れで連絡先を交換する。嬉しい。遊びに誘ってもいい男子ができたのは生まれて初めてだ。
 その日の放課後、一緒に帰る。私が各科目の先生の名前を憶えている限り挙げると、授業中の態度に厳しい先生かどうか、どういう話題を振ると仲よくなれる先生か、と教えてくれる。
 駅に着く。先輩はバスで帰る。私は電車で帰る。バスを待つ間に先輩が言った、
「高校一年生が一番自由だから、大事にしてね」
 という言葉が、そこはかとなく重く聞こえた。
 それから私と春城先輩は何度も一緒に帰る。そうするとそれが当たり前になってきて、先輩にシフトが入っている曜日の放課後がつまらなく感じる。それに加えて先輩から、もっと交友関係を拡げたほうがいいと言われたので、ゆるめの文化部に入る。
 ひと月かけてなじむ。
 五月末、二年四組の生徒だという釧路部長とふたりきりのとき、春城先輩の話題を振ってみた。
「春城くん? いつも静かに授業聞いてるよ。消しゴム拾ってくれたことあるし、いい人なんじゃないかな」
「へえ、そうなんですね」
「うん。全然話したことないけど、去年も同じクラスだったから知らなくはないよ。たしかサッカー部だっけ」
「え。帰宅部って本人から聞いたんですけど」
「ああー、じゃあ辞めたのかもね。よく知らない。この部活、秋くらいから忙しくなるからクラスメイトの様子はよく覚えてないなあ」
 どうして退部したのだろう? 考えたところで本人に訊かない限りはわからないけれども。私は春城先輩がサッカーをしているところを想像してみる。なんかゴールキーパーとかやってそうだ……ボールを取るためにがっついているところを想像できない。走っているところを見たことがない。バイト中を見たことがあるけれど、おしとやかめな店員という印象だった。
「春城先輩って、お友達はいるんですか?」
「たぶん……? お弁当はだいたいひとりで食べてるけど、去年は寺濱くんと一緒に楽しそうにしてるところ見た気がする」
「寺濱、先輩?」
「うん、サッカー部。元気な子で、サッカー部のマネージャーと付き合ってるんだって。いまは二年一組にいるんじゃないかな」
「そうなんですか」
 そういうタイプの男子と春城先輩が仲好いなんて、失礼かもしれないが、意外だ。でもまあ、それは色んな組み合わせがあるということだろう。案外、第一印象と運がよければどんな人相手でも仲よくできたりするもの……なんだと思う。
「まあとにかく、春城くんはいい人だと思うよ。可愛がってもらってんの?」
「可愛がられてるというか……入学前からお世話になっていて、たまに遊んでもらっています」
「ほうほう」
 と釧路部長がにやにや顔になって、ああまずいと思ったけれど後の祭りで、根掘り葉掘り訊かれてしまう。いつの間にか最終下校時刻になり、満足げな釧路部長と一緒に下校する。駅のホームで、部長はひとりの男子生徒を目にとめる。
「黄色ちゃん。あの人だよ、寺濱くん」
 なんというか、運動部の元気な男子っぽいオーラが何もしてなくても滲んでいる人だった。本当に春城先輩と友達なんだろうか?
 釧路部長が寺濱先輩の肩を叩く。「久しぶり。覚えてる? 釧路だよ」
「あ、久しぶりー。釧路さんショートにしたんだね」
「うん。部長になったし気合い入れなきゃって」
「へえーいいね。似合ってるよ」
「ありがと」
「四組どう? 担任って鹿島だっけ」
「そうそう。もー厳しくてやんなるよー」
「だよなー、一組の英語も鹿島だけど超うぜーもん」
「だろうねー。担任は? 寺濱くんの、一組の」
「芝江」
「芝江ちゃんかあ。優しそうだよね」
「それが全然。遅刻とか見逃してくれねえの。うちの顧問くらいユルかったら最高なんだけどな」
「サッカー部の顧問、屯先生でしょ? あの人は三年生担当じゃなかったっけ」
「そうなんだよなあ」寺濱先輩は肩を竦めて、それから私に視線を投げる。「釧路さん、隣の子は後輩? 一年でしょ? 名前は?」
「あ……宇野です。一年二組です」
「二組。梶ヶ谷ってのいるでしょ、どうなのあいつ」
「かじ……ああ、結構その、授業中とかうるさいなーって」
「あはは正直だね宇野ちゃん。あいつ落ち着きねえよな」
「寺濱くーん。この子、春城くんと仲好いんだって」
 釧路部長がそう言うと、寺濱先輩は一瞬だけ真顔になって、それからフレンドリーな表情になる。
「えーマジ? 好きなの宇野ちゃん、あいつ」
「いや、そういうわけじゃなくて、お世話になってるだけです」
「ふぅん、そう? あいつ付き合い悪いからやめといたほうがいいと思うよ」
 やめといたほうがいいって、別にだから付き合いたいわけではないのだけれど……。と思いつつ、あれ、と同時に違和感。普通、友達のことをそんな風に、友達の知り合いに言うか?
 釧路部長も同じように思ったのか、「友達のことそんな風に言うのやめなよー」と笑う。
 すると寺濱先輩は、
「別に、いまはそんな感じじゃないからいいんだよ」
 と言う。
 ちょっと空気が冷える。
 何か当たり障りのない話題に転換する。電車が来たので乗る。寺濱先輩は座席でイヤホンをつけて問題集のようなものを読み始める。少し遠くで私と釧路部長はつり革を握る。
 部長は小さな声で言う。「黄色ちゃん、ごめんね。なんか、ふたり喧嘩とかしてるのかな」
「そんな、気にしないでください。知らなかっただけのことを責めるのは正しくないです」
「えー優しい……本当にごめん、噂とか聞き流しがちなんだ私」
 それから、寺濱先輩、釧路部長の順番で下車して、私も電車を降りて歩いて帰る。家で晩ごはんを食べていると、向かいで同じものを食べているお父さんに言われる。
「黄色。友達はできたかな」
「うん。同じクラスに話が合う子はいるし、部活の先輩もいい人だよ」
「そっか。よかったな。……もうすぐ六月で、梅雨だから、風邪を引かないようにな」
「そうだね。お父さんもね」
「まあな。勉強はどうだ。お前、受験のとき大変そうだったろ」
「いまのところは大丈夫。遅刻もしてないし」
「そっか。まあ、就活のとき印象よくするためと思って、三年間頑張るんだぞ」
「うん。頑張る」
 寝る前に春城先輩とメッセージのやりとりをする。次の日曜日に一緒に映画『こんなひだまりはいらない。』を観る約束をしてあったから、当日の具体的な待ち合わせ時間などについて話し合う。
 九時になったのでおやすみなさいを送って、返ってきたのを確認して眠る。
 日曜日にはもう六月になっていて、梅雨でございとばかりに雨が降っていた。橋端駅の改札前で待っていると、待ち合わせ時間の十分前に春城先輩はやってきた。
「こんにちは」
「こんにちは。早いね」
「先輩も。まだ十分前ですよ」
「それもそうかな。楽しみだね、映画」
「いい実写化だといいですね」
 映画館まで、映画の原作漫画について話しながら歩いた。話のなかで、先輩も私と同じように誌面で追っていた読者だったと伝えられてびっくりした。そんなにメジャーじゃない漫画雑誌に載っていた漫画だったから、人気が出てからコミックスを買って追っていた人としかいままで出会えなかったから。
「あれ、新連載で出てきたときからすごく好みで、長く続いてほしいとは思ってたけど、最終話のあと実写化が発表されたときはとても驚いたよ」
「あ、私もです! 最終話読んで、すごくよかったなーでも終わっちゃったの寂しいなって思ってたので嬉しかったです」
「最終話と言えばさ、最終巻のあとがきすごく好きなんだよね。『誰かから嫌われるとわかっていても、誰かより幸せになれないかもしれないと知っていても、それでもこの未来がほしいって選んで掴みとろうとしがみつく。そんな日香里たちのことが、わたしは大好きです』って。すごくいいなって思ったんだ」
「あとがき、素敵ですよね……それにしても、春城先輩、そらでバッチリ引用できちゃうんですね」
「だって、あとがき含めていっぱい読み返したから」
 ふむ。どうやら、私より春城先輩のほうが『こんなひだまりはいらない。』に対して熱い思いがあるらしい――自分の好きな作品を、自分より熱く語れる人間が近くにいるって、少し緊張するけれど、とても嬉しい。
「宇野さんは、佐奈が日香里に救われるところが一番好きなんだよね」
「そうですね。前も言いましたけれど、そもそも誰かが誰かに心から救われるシーンがとても好きで、佐奈の回は特にリアリティがすごくて最高だと思います」
「佐奈のそれからの未来もすごくいいよね。作品のテーマを補強してる感じで」
 少しするとショッピングモール内の映画館に到着した。一時間半あとの回のチケットを買って、上映時間まで他のお店を見て回ることにした。百貨店や書店を一緒に巡っていると、春城先輩の意外な好みやこだわり、エピソードをたくさん聞くことができて楽しかった。
「実はね、受験のとき、僕は五角形の鉛筆を使っていたんだ」
「え、どうしてですか」
「塾の先生がね、五角形は合格に通じるからって。信じて頑張ったし、たぶんそのおかげで合格した面もあるんだと思う」
「ゲン担ぎが本物だったんですか?」
「ある意味ではね。不安になったとき、払拭する根拠は少しでも多いほうが頑張れるものでしょ?」
「……ああ、たしかに。わかります」
「宇野さんもゲン担ぎを?」
「いえ、ごめんなさいそういうのは信じてないんですが」と頭を下げてから、「その、入試が終わって不安なとき、先輩が、受かるよ、滑り込めるよって言ってくれたから、……なんだテキトーなこと言ってるなって正直思ったんですけど、ただ受かるよとしか言われなかったよりはきっと、安心できてたはずです。その、結果、出るまで」
「……よかった。実はあのあと、もっと上手く言えたんじゃないか、僕の言葉の説得力が足りなくて不安なままにさせてるんじゃないかって、思ってたから」
 春城先輩は安堵するように目を細めた。少しだけ、どきりとした。初対面だった私のことを、そんなにも気にかけて、考えていてくれたのだ――この人は。
 テキトーな人なんかじゃなくて、ただ、よりよいことをしようと必死な人……なのだろうか。
「いやあ本当、僕のナイスな言葉遊びで泣いてた宇野さんが大笑いしてハッピーハッピー! ってなると思ったのに反応微妙だったから、あのときはハラハラしたよー! あはは」
 ……やっぱりそれはそれとしてテキトーな面もある人みたいだ。よくわからないなあ。
 午後三時になっても上映時間まで余裕があったので、おやつにすることになった。フードコートのスイーツは列が長かったのでやめて、私たちは駄菓子屋さんに入った。実はいわゆる駄菓子を食べたことがない、と打ち明けると春城先輩はすごくびっくりした様子で、
「え、じゃあこれを機にいっぱい食べよう! 入門にはそうだね、やっぱりすり身とか……ああでも食べたいものから手を出したほうがいいかな」
 と、なんだか慌てていた。興奮している状態の先輩が珍しくて、思わず笑ってしまった。なんだかんだで自分で選ぶことになったから、カラフルながらパステルカラーで可愛らしい、金平糖というものにした。蓋のあるビンにぎっしりと収まっているから、ゆっくり食べ進められそうだ。
「金平糖にするんだ。いいね、甘くて美味しいよ。じゃあ買ってくるね」
「え」
 呼び止める暇もなく先輩は私の駄菓子をレジに通してしまった。自分の食べたいものと一緒に会計をしたようで、手に提げたビニール袋には他のお菓子の影もあった。
「ありがとうございます、えっと、おいくらでしたっけ」
「いいよいいよ。もらって」春城先輩はそう言って瓶を渡してくれた。「宇野さんの駄菓子デビューに立ち会えるんだから安いものだよ」
「……先輩、駄菓子、好きなんですね」
「うん。大好き」
 屈託のない少年のような笑顔。これもまた、初めて見た。
 映画館のソファーで金平糖を食べる。美味しい。上品でどこかささやかな甘さがあって、硬いようで儚くて、少し不思議なお菓子だと思う。それを伝えると、先輩は嬉しそうに共感の意を示してくれる。
 先輩はしょっぱそうなスナックをさくさくと食べていた。味を変えたいなと思ったとき、私の心を見透かしたように、
「ごめん宇野さん、ちょっとだけ金平糖くれないかな? 甘いのも食べたくなっちゃって」
 と申し出てくれた。交換条件として私もスナックを少しいただくことにした。しょうゆの味がした。
 金平糖の瓶を締めてバッグに仕舞い、パンフレットを眺めていると、アナウンスが開場を伝えてくれた。飲み物だけ買ってからスクリーンに向かう。映画を観るときの、半券がもがれてから消灯するまでの時間が私は好きだ。通路を歩いていると胸があたたかくなる。席に座るまで、本当に自分の席があるかなとほんのり不安になってしまうのは、頭が既にエンターテイメントを求めているからだろうか?
 映画館が暗くなる。プロモーションや上映前の諸注意を挟んで、モノローグから本編が始まる。どのキャストも素敵だし、音楽も綺麗だ。わくわくとした気持ちで、私は背もたれに身を任せた。
 そして数十分くらいだろうか、すっかりスクリーンに引き込まれていた私は――ぞわりとした寒気で、現実に引き戻される。太ももに、誰かから触れられている感覚。はっきりさせるのも怖いくらい怯えた心で、恐る恐る目をやると――ごつごつとした大きな手が、私の肌の上を這っていた。
 明らかに、わざとだ。変質者。
 隣の席は、どんな人だったっけ。確認のために目を合わせたりしたら、どんな目に遭うんだろう。私はゆっくり顔を上げて、スクリーンを見つめる。気づかないふりをする。気づいたと気づかれたら、何をされるかわからない。
 目の前で女優さんたちが何かを話している。内容が耳に入ってこない。あんなに楽しみだったのに。
 これはどれくらい続くのだろうか? 別の嫌なことをされる可能性はあるだろうか? そもそもどうして私なんだろうか? たまたま隣に座ったから? 学生っぽくて弱そうだからか? じゃあ私がもっと強そうだったら、こんなことに、
「宇野さん。席、交換しよう、僕と」
 と。
 変質者とは反対の隣に座っている春城先輩が、持ち掛けてくれた。気づいてくれたのだ。
 私は荷物を持って、後ろの席の人の視界を遮らないように身をかがめて席を立った。そのとき、また寒気がした。視界の端で、変質者の顔が見えたから――だけじゃなくて、変質者はじっと、スクリーンには目もくれず、ただ私のほうに堂々と顔を向けていたらしいことを、知ったからだ。春城先輩が察することができたのも、その異様さゆえだろう。
 ねめつけるような視線に震えながら、私は先輩の座っていた席に腰を下ろした。
 先輩と隣席になった変質者は、悔しさからだろうか、
「ちぇっ。ブスが」
 小さくも私に届くくらいの声量で、そう言った。
 ブスなんて言われたの中学二年生以来な気がする。気分が悪い。でも、まあ、ああしてずっと触られるくらいならブス扱いしてくれたほうがマシ、だろう。
 私はそう思ったけど、先輩はそうは思わなかったようで、
「あんた失礼なこと言うなよ。ブスじゃねえよ。謝れよ」
 そんな怒気を滲ませた言葉を、変質者に投げかけた。
 すると。
 変質者は――大きな声で。
 喉を振り絞るような、スクリーンの音声よりもずっと大きな、部屋じゅうに響かせようとしてるみたいな声で、叫んだ。
「うるさいなあ! ふざけんな! ふざけんなよふざけんなよふざけんなよふざけんなよふざけんなよふざけんなよふざけんなよ! ああああああー!」
 劇場内の空気が裂かれ、緊迫したものになった。あーあーと喚く変質者の口を塞ごうとした春城先輩は、すぐに悲鳴を上げた。ばっと上げた手のひらと変質者の口の間に唾液がきらめいていた――噛まれたのだろうか?
「先輩、大丈夫ですか!」
 私はそう口にした瞬間、それがそこそこの声量のものであることに気がついて、ぞっとした――ひとつの言葉が、頭をよぎった。
 映画館では静かに。
 劇場内の、私たち以外の全ての観客から、そう言われているような気がした。
 いま、みんなに迷惑をかけている。私個人の事情で。私が不快に思ったというだけのことで、みんなの観賞を邪魔している。
 帰らなきゃ。私はここにいちゃいけない。この映画は、少なくともここまで観た限りでは素敵だし、『こんなはひだまりはいらない。』はすごくいい作品だ。それにいま初めて触れている人がいるかもしれない。
「先輩。出ましょう。もういいです」
「宇野さん」
「もう、出ましょう」
 叫び疲れたのか肩で息をしている変質者から、そして観客とスクリーンから逃げるように、私は映画館を出る。先輩の手を引いて。宇野さん、待って、と何度も言われるけれど映画館の外まで無視をする。先輩の声を聞かないふりするなんてひどい後輩だ。私はとてもどうしようもない。
「……宇野さん」
「ごめんなさい。先輩」私は頭を深く下げる。「こんなことになって」
「そんな、謝らないで。宇野さんはなんにも悪くないじゃないか。あの変な人が悪いんだよ」
「でも、先輩、先輩もすごく楽しみにしていた映画なのに。先輩、きっと私よりもずっと深く愛しているのに」
「宇野さん。君のせいじゃない。被害者なのに、自分を責めるのは正しくないよ」
「でも、先輩がひとりで観ていたらちゃんと楽しめたかも。私が一緒に観ようなんて誘ったから、私と一緒に来たから、こんなことになって」
「宇野さん。そんな悲しいことを言わないで。落ち着いて」
「でも、……私なんかのために先輩は、変な人に噛まれたりして、そうだ、消毒しないと、先輩が変な病気になったら、そしたら、どうしよう、私が」
「宇野さん。聞いて」
 と。
 初めて、春城先輩が私の顔に触れる。顎に手を添えられる――上を向かせられる。先輩と目が合う。真っ直ぐ見つめられている。逸らしたい。逸らせない。
「僕は宇野さんと一緒に、お店を見たり、駄菓子を食べたりするのすごく楽しかったよ。それだけで、ひとりでチケットを買って時間を潰して映画を観るよりもずっとずっと楽しい一日を過ごせたと思ってる。だから、君がいないほうが幸せだったなんて全然思っていないし、そう言われると、寂しい」
「……ごめんなさい」
「それから、僕が変な人に怒ったのは、たしかに君のためだ。君の心を、尊厳を傷つけられたのに、触らぬ神に祟りなしで済ませるなんて正しくないと思ったからだ。だって、自分が貶されているのに言い返せなくて、誰も言い返してくれないなんて、とても寂しいしずっと忘れられなくなるかもしれないから」
「そう、ですよね。私のために」
「だけど、それだけじゃない」
「え」
「僕は許せなかったんだ。君を侮辱したあいつに何も言わないなんてできなかったんだ。正しいかどうかなんて関係なく、ただ腹が立ったし、心から嫌な気持ちになったんだ。だから、僕の気持ちのためでもある。だから、ある意味、僕は僕がやりたいことをやっただけなんだ」
 先輩が、正しさとか無関係に、一緒に嫌な気持ちになってくれて、代わりに怒ってくれた。
 偽りのない瞳でそのことを教えてくれた――私の気持ちを晴らすために。
「映画は来週も再来週もやっている。だから、またチケットを買い直して、今度は誰にも触られないような席を指定して、ゆっくり観ればいい」
「……でも、きっと、あれで、他のお客さんの邪魔もしちゃったと思って、それで、……わかんないです、全然わからないんです、私、ごめんなさい、混乱してるんです、とても、それで」
 それで、先輩がここまで送ってくれた言葉がとても嬉しくて、胸があたたまっていて、だけど色んなことが気にかかって、そもそも痴漢に遭ったのすら初めてで、もうどうしようもないくらいぐちゃぐちゃになってしまっている。どこで納得して終わらせればいいかもよくわからない。私は先輩にどうしてほしくて言葉を発しているんだろう、と考えようとしてすぐ、迷惑な後輩だ、と自分を責めてしまう。
 先輩はそんな私の両肩に手を置く。大丈夫だよ、と言う。
「何も気に病むことはないんだよ。わからないなら教えるね。君は純粋に、あの変な人に対して、堂々と、怒ればいいんだ」
 僕と一緒に。
 双肩に置かれた手はあたたかくて、頼もしかった。仲間だと伝えようとしているみたいな感じがした。
 ひとりじゃない。私はひとりじゃなくていい。先輩に付き添ってもらったっていい。そう思うと、すっと、胸がすくような、救われるような気持ちになった。
 ああそうだ、結局のところ私は誰かに迷惑をかけるのが怖かったのだ。そしてそれが怖いということは、裏を返せば、私が私の事情で振り回したりしても迷惑じゃないと言ってくれる人を求めているということなのかもしれない。
 春城裕樹先輩。
 私が求めていた優しさを持っている人。
「被害者が自分を責めてしまったって、誰も幸せにしない。きちんと怒ることが大事なんだよ。そうすることが、誰かを助けたり背中を押したりすることもあるんだよ」
「そう……ですか? 本当ですか」
「うん。『こんなひだまりはいらない。』の作者も『生徒会長になれました!』って読切で同じこと書いてたから間違いない」
「……え? なんですかそれ」
「誌面デビュー作だよ? コミックスにはなってないけど切り抜いて保存してあるから明日貸そうか?」
 いや、それはありがたいけれども、『なんで急に漫画の話になったんですか』という意味もあったのに……と困惑しながら、しかしそのおかげで少し心のなかが静かになったことに私は気づく。
「……あはは」
「あ、笑った。落ち着いた?」
「なんでしょ、先輩が急に根拠として漫画を出すから、じわじわきちゃって」
 本当に、この人は――正しくて、優しくて、どこかテキトーで。
 この人を誘ってよかった。
 この人と一緒に映画を観ていてよかった。
 心から、そう思う。
「じゃあ、映画館の警備の人に伝えに行こうか。変質者が出たってこと。ちゃんと怒るって、そういうことだから」
「はい。あの、春城先輩」
「なあに?」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
 ちなみに、と春城先輩はまたひとつ、私の間違いを訂正してくれた。いわく、変質者は先輩の手に噛みついたというわけではないらしい――ただ、べろんと、思いっきり舐め回されてびっくりした、というだけらしい。
 そのほうが意味不明でキモいわ。

 家に帰った私はお風呂に入って夕ご飯を食べて宿題をして眠る……はずだったんだけれど、お風呂でシャワーを浴びていたらそれだけで一時間経ってしまって予定が狂う。お父さんに声をかけられて初めて、そんなに時間が経っていたことに気がつく。
 今日一日あったこと、先輩がくれた言葉、先輩の手の温度、先輩の色んな一面、横顔、正面から見た顔、毅然と警備員さんに説明している先輩の声、また学校でねって明るく言ってくれた先輩の笑顔のことを考えていただけなのに。
 それから夕ご飯を食べるのにも一時間かけてしまい、宿題はすぐに今日のことを思い出してしまってはかどらず――先輩からメッセージが来るまでずっとそんなぼうっとした状態だった。
 翌朝、登校すると廊下で先輩と出会って、おはようを交わして、そのおはようの声と表情を何度も思い出しながら過ごしていたら授業が終わっていき、いつしか部活の時間になっている。
「そんな感じで春城先輩と映画を観に行って以来、なんだか寝ても覚めても春城先輩のことばかり考えてしまうんですけれど、これってなんなんでしょうね? あと、春城先輩と顔を合わせると自然とにやけちゃうし、春城先輩が私を見ながらニコってするといつも胸が苦しくなっちゃうんです。なんなんでしょうねマジで。全然わからないので教えてください」
「恋」
「なるほど」
 水曜日の帰り道、釧路部長と歩きながらそんな会話をした。まあなんというか、自分でも普通にそう思っていたから驚きはしないけれど、あまりにもそれっぽすぎると怪しく思えてしまうひねくれた気質と、セカンドオピニオンを欲しがる臆病さから、誰かに意見を求めてしまったのだ。
 告白するのかと言われて、まだ早い気がすると答える。すると、じゃあ距離を縮めることに専念してみたらと提案される。
 たとえば、名前で呼んでみるとか。
「あの、春城先輩」
「どうしたの、宇野さん」
「……えーっと、映画、楽しみですね」
「そう? よかった」
 一週間後の日曜日、私は早速尻込みをしてしまう。いや、だって、どう切り出せば不自然にならないのか全然わからないのだ。先輩と後輩という関係で、苗字呼びではいけない理由が見つからない。距離が遠い気がしたから? 縮めないといけない、論理的な理由がどこにあるというのだろう。完全に私の気持ちの問題じゃないか。どんな気持ちの問題か、というところまで見透かされたら怖いし、見透かすことくらいできそうなのだ、この先輩は。
「それにしても、先輩、どうもありがとうございます。わざわざ席の予約までしていただいて」
「どういたしまして。当日購入で、いざ来てみたらどの席も不都合な可能性がある、なんて困るからね」
「これ、私のぶんのチケット代です」
「別にいいって言ったのに。でもあんまり奢りすぎるのも正しくないか。もらっといておくね」
 春城先輩の言葉はその通りで、実際、最初に先輩の奢りという方向で話が進もうとしたとき、感謝より申し訳なさのほうがずっと強かった。私は後輩だから、先輩はバイトをしているから……という理由でなんでも呑み込めるほど大雑把な人間ではない。
「あ、ありがとうと言えば。お借りしていた『生徒会長になれました!』を読ませていただきました。面白かったです。ありがとうございました。道歩ちゃんも雄峯くんもひたむきで芯があって、『こんなひだまりはいらない。』の作者らしいなあと思いました」
「そうだよね、そういうところが作家性なのかなって思う」
 私が差し出したクリアファイルを受け取って、春城先輩は微笑んだ。胸も頬も熱くなって、咄嗟に下を向く。
「どうしたの? 宇野さん」
「えーっと……先輩、靴、新しいですか?」
「ああ、気づいてくれた? おろしたてなんだよ」
「お似合いですよ」
「ありがとう。宇野さんも、その服、似合ってるよ」
 せっかく誤魔化せたと思ったのにまた照れてしまって顔を上げられない。面を上げよと言われたらどうしよう……先輩はそんなこと言わないだろうけれど。
 そんなこんなで。
 今回は時間に合わせて待ち合わせをしたため、映画館に着いたらすぐ上映時間になった。飲み物を買う。スクリーンを前に、自分の席を確認する。後方かつ端っこの席で、隣には春城先輩しかいない。
 上映が始まる。しばらくは観たことのあるシーンが続くからつまらないかと思っていたけれど、新鮮な情報でないからこそ、細部まで観察することができて楽しかった。なるほど、この監督か俳優さんはこのキャラをこう解釈しているからこういう仕草をしているんだろうな、わかるわかる。あ、黒板に『生徒会長になれました!』の授業シーンのやつ書いてあるんだ、細かーい、といった具合に。
 で、それから少しして私は気持ち悪くなる。変質者に触られ始めたときに流れていたセリフとBGM。無意識のうちに結びつけられてしまったのだろうか。触られていないのに、ぞあぞあとした感覚がする。変質者の目を思い出す。私を暗闇で蛙のように見つめていたあの悍ましさを思い出す。男性にしてはやけに高かった、耳に刺さる叫びを思い出す。罪悪感を、息苦しさを思い出す。私は悪くない私は悪くない私は悪くない、と意識して唱えないと、泣いてしまいそうになる。私は悪くない。私は悪くない。私は悪くない。
 私は。
「宇野さん」春城先輩が囁く。「もう、終わったことだよ」
「先輩。先輩」小声で返す。震えてしまう。聞き取ってくれるだろうか。「私は悪くないんですよね」
「うん。君は悪くない」
「そうですよね。それが正しいんですよね」
「それでも気持ち悪い?」
「……はい。ごめんなさい」
「映画館、出る?」
「いえ。観たいです」
「じゃあ、どうすればいいかな……」
 先輩が考え込む。そうしている間にも映画は進む。駄目だ。これ以上はきっと、話がわからなくなる。たぶんいいシーンだ。
 でも私がまだ気持ち悪いと思っていて、震えてしまっているのは事実だ。どうして気持ち悪いのだろう? あのときのことを考えてしまうからだ。どうして震えてしまっているのだろう? それも怖いからだ。
 あのときのことを考えないでいられるような案。怖くなくなるような。
「先輩。すみません、いいですか」
「うん。なんでも言って」
「手を繋いでください。怖いので」
「……それでいいなら」
 先輩は、おずおずと私の手を取って、握る。
 私の息が止まる。頬に熱が集まる。口角が上がってしまうので必死に引き締める。
 嫌いな人のことを考える隙間もなく、好きな人のことで頭がいっぱいになってしまう。それで結局は映画に集中できないのだけれど、先輩は真剣にスクリーンを見つめていて、でもときたまこちらの様子をうかがってくれるので、安心させるために集中しているフリをしておく。
 本当は先輩の横顔に集中したいけれど、「手を繋いでるせいで気が散っている」と察されてしまったら中止になるかもしれない。
 我慢してこそ得られる幸せってこういうものなのかなあ、とふと思う。
 スタッフロールが終わって、先輩が言う。「宇野さん、ちゃんとスタッフロールを見るタイプなんだね」
「あ、はい。エンディング聴きたいですし、いっぱいの人がこの作品を頑張って作ってるんだなあって考えるの好きなので」
「そっか。僕もだよ。そういうところの気が合うなら、僕たちは一緒に色んな映画を楽しめるね。楽しみ」
 手を繋いだまま、にっこりと笑ってそんなことを言ってくる先輩に、私はそっけない返事しかできない。
「……あ、ごめんごめん」
 先輩はそう言って手を離してしまう。それより離せよ、と思われてるとでも思われただろうか? 否定しておきたい気持ちはあるが、否定するとなると気がありそうな感じの言いかたしか思いつかなくて困る。もっと言い回しを強化したいなあ。
 駅までの道程で映画の感想の話をする。私は途中からよく覚えていないので、先に言わせて「わかりますー! 私もあそこすごいなあって思いました」と返し続ける作戦に出てみる。どうにかなる。
 ちょっとだけ罪悪感はあるけれどしょうがない。私は悪くない。恋が悪い。あと変質者も悪い。


 それから二週間後。テスト期間は目前。テスト前の勉強はクラスでよく話す猪子ちゃんに付き合ってもらった。ファミリーレストランで向かい合って勉強会。途中で集中力が切れて駄弁り会になる。猪子ちゃんのお姉さんも恋川高校に通っていて、受験生なのに最近彼氏を作ったらしいのだけれど、正直その彼氏を猪子ちゃんはいい人だとは思えなくて……という話になる。
「怖い人ってこと?」
「うん、まあ怖い、かな。あたしが何かされたってわけじゃないんだけど。この前ね、たまたま休みの日に恋川駅でお姉ちゃんと彼氏さんを見かけてね」
「うん」
「で、コンビニで買ったばかりなのかな、タバコの箱を開けながら路地裏に行ってて」
「ああー……それはちょっと、怖いよね。犯罪、だし」
「そう。それ見て、そういう人と付き合って大丈夫かなお姉ちゃん、って思って」
「心配になるね、染まっちゃわないか」
「そうでしょ? それに、近頃は帰りも遅くて、お姉ちゃんときどきお父さんに怒られて、喧嘩したりしてんの」
「え、遊んでるってこと? 受験はしないの?」
「知らない。でもうちの親は大学に入る前提で育ててるからめっちゃ怒ってるよ。門限九時なのに十一時とか零時とかに帰ってくるんだから、受験生じゃなくても怒られてただろうけど」
「え? ああ、そうだね」私の家の門限は午後六時だし九時には寝るように育てられているけれど。「心配だね、本当に」
「本当に心配だし、だんだん呆れてもきてるよ。だってそれでも全然ラブラブなカレカノなんだもん。二年のときサッカー部でフォワードやってて大会も出ててかっこよかった、とか言ってたけど、そんなのが不良を許せる理由になるの意味わかんない」
「恋は盲目って言うんだっけ」
「あー、言うねえ。そうなのかなあ。倦怠期こないかな早く」
 姉の恋路の倦怠期を願う妹というのもなかなかよろしくない気もするけれど、それは言うまい。
「なんか、本当にさあ。せっかくお父さん、娘に彼氏とかできても気にしないタイプなのに。お姉ちゃんが受験失敗して、あたしが彼氏とか連れて来たとき警戒されたらどうしよう。マジめんどくさい全部」
「……娘に彼氏ができたら気にするタイプのお父さんっていうのがいるの?」
「いるでしょ。マナのお父さんとか超めんどいらしいよ。ひらのんのお父さんも作ったらパパ泣いちゃうかも~とかキモいって」
「そうなんだ。私のお父さんはどうなんだろう」
「訊いてみたら。一応、知っておいたほうがいいかも」
 ということで。
 家に帰ってお父さんと夕食を摂っているとき、それとなく訊いてみる。友達がこういう話をしていたんだけれど。
「ああ……考えたことなかったかもな。まあ、いいんじゃないか」
「いいの?」
「ただ、そうだな、勉強や就活を優先しろよ? 資格も取らないといけないんだから、恋愛なんかで疎かになるのなら、駄目だ」
「そっか。そうだね」
「それに、六時までに家に帰さないような男も駄目だ。家まで送るかどうかも関係ない。そんなやつは黄色のことを大事だと思っていないし、思っていても考えが足りない」
「そうなの?」
「そうだよ。高校生ふたりで犯罪者に勝てるわけがない」
「それもそうかな」
「あとは……お前も高校生だし、大人ぶりたい気持ちもあるかもしれないが、妊娠はくれぐれもしないようにな。あれはどうあがいても馬鹿にならないお金が必要だ。うちにそんな余裕はない。自立して、自分でお金を用意できるようになるまで絶対に、そういう可能性のあることはしないように」
「わかった」
「あと、するにしても信頼のおける、収入のある人じゃないといけないからな。どちらにも貯えがないと、産んでからもすごく大変なんだ」
「そうだろうね」
「これくらいだな。すべて当然のことだから、守れないような男と付き合うのならば反対せざるをえないな」
 春城先輩はそういうことを守ってくれるだろうか? まあ守るだろう。正しさをよしとする人だから。……と思い浮かべてすぐ、ナチュラルに先輩といずれ付き合う前提で考えてしまっている自分に気がつく。恥ずかしくなってきて、口のなかにおかずをひたすら投入する。喉に詰まる。お父さんに心配される。ごめんなさい。
 お風呂で私は私の妊娠について考える。馬鹿にならないお金がかかるというのは出産するにしても中絶するにしてもということだろう。私は私の子供がほしいだろうか、とも考えてみるけれど、そもそもまだ私自身が子供だから、よくわからない。
 私は妊娠するような行為をしたいだろうか? と考える。どういうことをするのかはなんとなく知っている。漫画に描いてあったし、友達とそういう話をしたこともある。なんか気持ちいいらしいとか痛いらしいとか。でもそれもよくわからない。しなきゃいけないとは思わないし、できないまま死んでも別にいいかなとすら感じる。
 じゃあもしも春城先輩がそういうことをしたかったら? ……なんか私、気持ち悪いな? 春城先輩が私を恋愛的に好きなのかどうなのか、その余地はあるのかもわからないうちから色んなことを妄想しすぎている気がする。
「……先輩は、どうなのかなあ、色々」
 私のこと、好きかな。異性として。遊び相手としては、嫌われていないと思うけれど。
 誰かと付き合ったこととかあるのかな。私は今年の先輩のことしか知らない。去年までの先輩のことは、ちょっとしか知らない。
 先輩は私にどれくらい教えてくれるだろう? 触れてはいけない過去とか、あるんだろうか?
 湯船のなかじゃわからないに決まっていることばかり考えていたらのぼせそうになる。お風呂を出る。パジャマを着て、牛乳を飲んで、髪を乾かして、机に向かう。スマートフォンの電源を切ってベッドに置き、充電器に繋いでおく。とにかくいまは勉強をしないといけない。学生なんだから。

 テスト最終日の放課後、私は春城先輩……と釧路部長と下校する。三人で帰るというのも新鮮だ。私と部長は部活の買い出しのために一緒に下校しているため、先輩とは駅に着く前に別れることになるが、少し会えるだけでも嬉しい。
「黄色ちゃん、そろそろ夏休みだね」釧路部長が言う。
「そうですね。部活ってないんでしたっけ」
「そうだよ、家で制作やってくれてれば、あとは夏休みの最終日に来てくれればいいから」
「ですよね、わかりました。頑張ります」
 そうだ。テスト期間が終われば、もうすぐ夏休みに入る。すでに蝉が鳴いていて、私たちも半袖なのだ。あんまり意識してこなかったから、いざそうと思うとそわそわしてしまう。高校生としての初めての夏休み。猪子ちゃんは短期バイトをやってみると言っていたけれど、私は文化祭に向けての制作を進める以外に特に予定がない。どうしようかな。
「春城くんは」と部長。「夏休み、何か予定とかあるの?」
「バイトはいつもより入れてるけれど、それ以外は何も考えてないかな」
 そうなんだ、とぼんやり聞き入れていると、部長が私の背中を叩いて耳元に口を寄せ、
「遊びに誘ったら」
 と囁いてくる。あ、この人は私と先輩の関係の進展に一役買いたいのかな、と察知する。でも遊びと言ったってどこに誘えばいいのかわからない。水族館も遊園地も遠い気がする……遠いほうがいいのかな?
 と、具体案が浮かばないでいると、
「そういえば、近所で縁日があるんだよね。結構広い公園でさ。よかったら三人で行かない?」
 と春城先輩から誘ってくれる。
「春城くん、それっていつごろ? 何曜日?」
「え? たしか、八月の第一土曜と日曜くらいだと思う」
「ああ、じゃあ私は無理かな。別の用事があるから。黄色ちゃんとふたりで行ってきなよ」
「そっか。じゃあ宇野さん、ふたりで行こうか」
 釧路部長がナイスすぎて惚れそうです。
「はい。是非行きたいです」
「じゃあ具体的なところは後で決めようか」
「はい。じゃあ、また夜に連絡します」
「春城くんと黄色ちゃん、夜にメッセージやってるんだ。仲好いんだね」
 嬉しそうに言う釧路部長に、そうだね、と春城先輩。
「でも、釧路さんも宇野さんと仲が好いよね。名前で呼んだりして」
「あー。まあそれはフレンドリーな部長なほうがいいかなって思って、最初から名前で呼んでるよ」
「そうなんだ」
「春城くんも名前で呼んでみたら? 黄色ちゃんって」
 という提案に、たぶん一番びっくりしたのは私だ。嬉しいような怖いようなで、ひどく緊張してしまう。バレてないといいけれど。
「名前呼びかあ……宇野さんはどう思う? どっちがいい?」
「え、えーっと、私は、別に。どっちでも、気にしない、です」
「そしたら、黄色さんって呼んでいい?」 
 胸がきゅっとなる。顔が赤くなっている気がする。なんとか、精一杯の力を込めて、私は頷く。
 もういっぱいいっぱいな私に釧路部長は、
「じゃあ黄色ちゃんのほうからも下の名前で呼んでみる?」
 と言ってくる。裕樹さんってこと? なんだか、それは、まるで。
「あの。先輩。は」
「僕は別に下の名前で呼ばれてもいいよ。黄色さんなら」
「……だって、黄色ちゃん。ファイト」
「……裕樹先輩」
 心臓も頭部も燃え落ちそうです。助けてください。
 真っ赤になった私は裕樹先輩に手を振っているときも釧路部長とふたりになったときも赤いままで、いい加減落ち着きなよーと茶化される。
「黄色ちゃん、もしかして初恋?」
「……一応、小学四年生くらいのときもあったんですけれど。そのときは一目惚れでしたし、声もかけられなかったので」
「へえ。じゃあだいぶ進歩したんだね」
「仲好くなってから好きになったので、また色々違う感じはしますけれど……でも、言われてみればそうかもしれませんね。それでも、何をどうすればいいのか全然わかんなくて、ぐるぐるしてばっかりです」
「いっぱいぐるぐるしなよ。自分の気持ちと、春城くんのことをしっかり見つめてね。個人と個人のことなんだし、何をどうするのが正解かなんて第三者にも本にもわかんないものだからさ」
「……先輩のこと」
 裕樹先輩のことをしっかり見つめて、考える。しかし春に再会してから三か月しか関わっていない私は、いったいどれだけ先輩のことを知っているだろう? 優しい人で、楽しいことや美味しいものもすきで、ただ歩いて話しているだけでも退屈そうな素振りはちっとも見せなくて。そして、自分の思う『正しさ』を大事にしている人だ。正しくないと判断したことは、得になるようなことでも絶対にしないし、逆に損をしそうなことも正しいと判断したらする。
 釧路部長が言うには、一年のときは寺濱先輩が目立った友達だけれど、最近はそうではないようだ。それから、サッカー部を辞めた……のだろう。少なくとも参加はしていないようだ。どうして? というところまでは私は知らないし部長も知らない。先輩に訊いてしまってもいいのだろうか? 自分からはちっとも話題に出さないあたり、あんまり話していて面白い理由ではないのかもしれない。そうなると、触れないのが先輩のため? 私としても、別にそこは知らなくたって構わない。
 現在交際中の人は……いないはずだ。いたとしたら、私とふたりきりで何度も遊びに行くなんてしないだろうから。裕樹先輩の『正しさ』の基準がそこだけなんだかユルかったらしょうもなくてショックだ。だからそこは先輩の人格を信じよう。
 先輩は私にどうしてほしいんだろう? どういう風にいてほしいんだろう?
「……黄色ちゃん、考えてとは言ったけど、お店の入り口で立ち止まるのはどうかと」
「あ! ごめんなさい」
 とりあえず一旦保留ということで、部長と買い出しメモのものを探す。おおよそ買える。買えなかったものは部長の最寄り駅で探すらしい。駅から電車に乗って、各々帰る。食事を終えると午後八時になっていて、裕樹先輩と縁日の予定を詰める。開催場所が恋川駅前の公園ということで、私はその公園の行き方を知らないため恋川駅に集合することになる。
「裕樹先輩って恋川が地元なんですね」
 とメッセージを送ると、
『うん。生まれも育ちもね。中学も恋川中学校だったんだ』
 と返ってくる。
 先輩の生まれ育った土地の縁日。なんだか、また知らない一面を見られそうな気がしてどきどきした。

 さて縁日の当日。午後四時から開始ということで、私の門限の事情もあり午後三時四十分には駅に集合という約束になっていた。ただいま午後三時五十五分。連絡はしたが、遅れてしまって本当に申し訳ない。恐る恐る電車を降りて、改札を出る。先輩が私を見つける。手を振ろうとしたようだけれど、何故だかフリーズしてしまう。
「すみません、慣れなくて。お待たせしました」
「……う、うん」
「遅刻しておいて申し訳ないのですが、ゆっくり歩いて向かわせていただけると嬉しいです」
「うん。大丈夫。そう遠くないから」
「……えっと。これ、釧路部長のおさがりで、釧路部長のご友人の、隣駅にお住まいの佐藤さんという方のお宅で着付けをしていただいて。ですから、その、ここまで歩き疲れているとかはありませんので」
「そっか」
 どうしよう? 先輩の返事がいつになくそっけない。もしかして引かれてる?
 普通の子は仲のいい先輩とお祭りに行くくらいで浴衣を着て行ったりしないんだろうか。気合い入りすぎてる後輩になってしまっている? さっき足した釧路部長うんぬんの話題が、そうなると悪手だ。わざわざ貸してもらってきましたって。全力じゃないか。そうなると、途端に恥ずかしくなってくる。
 でも釧路部長も佐藤先輩も言っていたのだ。それくらいでいいんだと。気合いを入れてますってアピールをして、あなたのことを意識していますって匂わせるくらいのことをしたほうが、向こうも意識してくれるのだと。
 私は裕樹先輩とお付き合いをしたい。他の人の彼氏になるなんて寂しくて耐えられない。そういうタイプの恋だという自覚がある。だから、その方向に舵を切らないといけない。
 そう思い直していると、裕樹先輩は――長い長い溜息をついた。
 え? それどういう感情? ポジネガどっち?
「あの。ごめん。ちょっとね、動揺してる」
「動揺……ですか?」
「うん。黄色さんにすごく似合ってて。浴衣の女の人と一緒に縁日に行くの初めてで。だから、緊張してるのかな。さっきからそっけなくなっちゃってごめんなさい。……もうそろそろ落ち着くから」
「え……あ、はい」にやけそうになる口元を手でおおう。「大丈夫です。ゆっくり落ち着いてください」
「……とりあえず、歩こうか」
「はい」
 その日は少し涼しかった。浴衣は暑いと聞いていたから、快晴でなくてよかったと思う。草履を履いて歩くのは小学生以来で、普段ヒールのある靴も履かないので新鮮味がある。不安定だし、素足に履いているので怖さもある。けれど、絆創膏は荷物に入っているし、先輩は歩幅を合わせてくれるので、まあどうにかなるだろう。
 道中、数回ほど浴衣の女の人とすれ違う。裕樹先輩はとくに興味を示していなかったから、浴衣そのものにエモいものを感じているわけではないのだろう。よかった。
「黄色さん」先輩が言う。いつもの調子を取り戻しつつ、それでも少し声音に緊張の影響がある。「着いたら、何から見る?」
「そうですね。私、かき氷が好きなんです。ブルーハワイのが。だからかき氷から食べたいです」
「そっか。始まったばかりならまだ並ばないだろうし、すぐありつけるよ」
 駅前公園に着く。午後四時八分。まだ人が疎らで、列が短い。かき氷の列に並んでいると、私たちの後ろで兄弟と思しき子供たちが楽しそうに話していた。どうやらふたりともかき氷が大好きなようだ。縁日で嫌いな食べ物のために並ぶ人はいないだろうから、この列に並んでいる人はみんな私と同じようにかき氷が好きなのだ。おつかいだったとしても、その人はかき氷が好きな人と繋がっているのだ。そう考えると嬉しい気持ちになる。
 裕樹先輩も後ろの兄弟を少しばかり観察して、それから私に訊く。
「黄色さんって、きょうだいはいる? そういえば訊いたことがなかったけれど」
「いいえ、ひとりっ子です」
「へえ。僕もそうだよ」
「そうなんですか。てっきり、弟さんや妹さんがいるのかと」
「どうして?」
「面倒見がいいところあるじゃないですか。私のことすごく助けてくれますし」
「それは……なんだろうね? 小学六年生の頃の少年サッカーで年下の子の扱いに慣れていたからかな」
「先輩、そういうの、入っていたんですね」
「うん。友達に誘われてね。楽しかったなあ、あの頃は」
 懐かしむように目を細める先輩を見て、本当に楽しかったんだろうな、と思った。もしかしたら、私が想像しているよりもずっとセンスがあったのかもしれない。フォワードとかやりそうなガツガツした雰囲気はないが、別にそれはないといけないものじゃない。
 どんなサッカー少年だったんだろうか。そしてそれは、深く訊いてもいいことだろうか。
 そんな風に、私も先輩もお互いのほうを向きながら考えごとをしていると、いつの間にか私たちが最前列になっていた。慌てて店主の前に行くと、にこにこ……というよりはにやにやに近い笑顔で接客されてしまった。付き合っていると勘違いされているのかもしれない、と勝手に想像して照れている私は、かき氷を受け取るまで私のぶんまで先輩が払ったことに気がつかなかった。
 列から外れてから、ごめんなさい払いますと頭を下げた。でも、いいよいいよと微笑まれる。
「浴衣でここまで来て大変だったろうし、ねぎらいということで受け取って」
 そう爽やかに返されると断れない……!
 大人しくかき氷をスプーンで掬って食べる。美味しい。先輩のほうを見ると、メロンのかき氷を手に持ったまま、食べようとしない。訊くと、どうやら落ち着けるところで食べたいらしい。こぼすかもしれないからとのことだったが、それ以前に立ち食いってあんまりマナーのいい行為でもないよな、と思って私も手を止める。
 そこでかき氷がこぼれる――兄弟の。
 あっ、と裕樹先輩が言う。見ると、さっきの兄弟の片方が先輩の脚にぶつかってしまったようだった――そして、そのはずみに買ったかき氷を落としてしまった。かき氷の中身はほとんど、公園の砂だらけの地面に散ってしみ込んでしまっていた。綺麗なエメラルドグリーンに砂が混ざった。
 泣きそうな男の子と、その隣でおろおろしているもうひとりの男の子。どっちも幼い。
 大丈夫、と私が声をかけるより前に、先輩はしゃがんだ。かき氷を落とした男の子に目線を合わせて、笑いかける。
「君。怪我、ない?」
 頭のなかがいっぱいいっぱいなのだろうか、返事がない。見る限り擦り剥いたりはしていないようだ。
「メロン、好きなんだね。これあげる」
 先輩は笑顔のまま、男の子に自分のかき氷を差し出した。おずおずと受け取るところを見て、今度は落とさないよう気をつけてね、と頭を少し撫でた。そしてゆっくり立ち上がり、
「行こうか、黄色さん」
 と屈託のない笑顔をこちらに向けてきた。公園の隅のベンチに座ってから、よかったんですか、と私は訊いた。
「裕樹先輩のかき氷、新しく買わなくてよかったんですか?」
「そんなことしたら、自分のせいで並び直しになったって罪悪感を抱いちゃうかもしれないから」
「なるほど」納得しつつ、でも先輩もかき氷を食べたかっただろうな、と思う。だから提案する。「じゃあ、私の食べてください」
「え?」
「ブルーハワイ、気分じゃなかったですか?」
「いや、そんなことはないけれど。……いいの、それ?」
「だって裕樹先輩のお金で買ったものですし、そもそも。裕樹先輩が食べられないのに自分だけ食べるなんて、正しくない気がします」
「……それも、そうなのかな? じゃあ、少しいただくね」
 先輩はそう言って私からかき氷を受け取る。そしてスプーンで掬って、口に入れる――あ。
 なんだっけこれ。あれだ。間接キス。
 ……え、どうしよう? 意識してしまうとすごく照れるし、裕樹先輩も心なしか気まずそうに私から目を逸らしている気がする。照れてる? それとも、間接キス方向に巧みに誘導してくる変な子だと思われている? どうする? ってどうもできない。やっぱりやめてくださいと言うのも不自然だし、気づかないフリをしていたほうがいい? もしもそのせいで、逆に私が先輩のことを異性として意識していない風にとられたらどうしよう。どんどん不安になる。やばい。緊張と不安と照れ臭さが一気に襲ってくる。恋ってなんなんだろう、本当に。恋は幸せなことだとか不幸なことだとか言われているけれど、実のところは幸せにも不幸せにも転ぶし、転びそうな気がするんじゃないだろうか? 細い平均台に乗って歩いているみたいに右へ左へとメンタルがグラグラして、胸が熱くなったかと思えば肝が冷えて、そういう不安定さに思考がぐちゃぐちゃになってしまう現象そのものが恋の本質だったりしないだろうか? ってなんで私は恋について考察しているんだろう? 現実逃避?
 私も先輩も無言のまま、ブルーハワイのかき氷は先輩の喉に消える。美味しかった、と先輩は笑って、容器を捨てに行く。
「ゴミ箱の傍にお手洗いあるんだけど、黄色さん行く?」
「あ、大丈夫です」
「そっか。じゃあ、混んできたしゴミ箱まで遠いし、座って待ってて」
 小さくなっていく先輩の背中をぼうっと見つめる。やがて人ごみに遮蔽されてしまった。まだ少し胸がどきどきとしていて、スマホとかいじっても集中できない。ため息をついてスマホを仕舞ったとき、男の人に声をかけられる。聞き覚えのある声。
「ねえねえ、暇でしょ。俺と屋台見に行こ」
 同い年くらいに見える。というか学校で見覚えがある。誰だっけ。ああ。「えっと、梶ヶ谷?」
「え、知り合い?」
「同じクラス」
「……宇野黄色? 浴衣とか着るんだ、お前!」
 うるさいなあ。「悪い?」
「別に全然いいけど。あ、じゃなくてさ! 一緒に遊ぼー!」
「ごめん、暇じゃないから」
「そんなつれないこと言うなよー!」とへらへら笑いながら梶ヶ谷が顔を近づけて、申し訳程度に声量を落として言う。「な、頼むよ。ナンパしてこいって先輩に言われてんの」
 頬に冷たい感覚。雨が降ってきた?
「知らないよそんなこと」
「なー! いいからさあ!」
 と、梶ヶ谷が私の腕を掴んで引っ張ってくる――「痛い! やめてよ!」
「ちょっと」
 と、裕樹先輩の声。私の腕を掴む梶ヶ谷の手首を握っている。
「あ? 誰だし」
「こっちのセリフ。僕の連れなんで、手、出させないよ」
 映画館のときのような、怒気をはらんだ低い声。私を守ろうとしてくれている。
「痛……。ちぇっ。デート中かよ。さーせん」
 梶ヶ谷は吐き捨てるようにそう言って、すたすたと離れて行った。先輩は深呼吸をして、いつもの穏やかな顔で、お待たせ、と言う。
「怖かったよね。遅くなってごめん」
「いえ、……怖かったですけど、その。助けてくれてありがとうございます」
「どういたしまして。行こうか。気分転換に美味しいものを食べよう」
「じゃあ、焼きそば食べたいです」
「わかった」
 立ち上がり、焼きそばの屋台を探そうとふたりできょろきょろしていると、
「なあ、あれ春城じゃねえ?」
 と、どこかから聞こえた。先輩の顔を見ると、血の気が引いていた――どうしたんだろう?
「あいつでも彼女とかできるんだな。空気読めねえのに」
 声のほうを向くと、公園の大きな木の下に数人の男の人が集まっていた。そのなかに梶ヶ谷と――たぶん、寺濱先輩が混ざっていた。あ、ということは。
 サッカー部。
「春城ー!」名前の分からない誰かが叫んだ。「結婚おめでとー!」何?
 裕樹先輩は何も返さない。私は先輩の脚が震えていることに気がつく。息が荒い。すごく焦っているような、怖がっているような。
 雨足が強まる。私は言う。「裕樹先輩。雨降っちゃいましたね。帰りましょう」
 先輩は、はっとした顔で私を見て、聞き取れないけれど何かを言って、それから歩き出す。公園の外へ。私は何も言わずついていく。歩幅にまで気が回らないのか、だんだんと距離が空いてしまう。どんどんと離れていく先輩の肩を、私は走って掴む。
 先輩は私のほうを見ない。寂しいとは思わない。冷たいとも思わない。先輩がただならない気分になっていることが理解できる。何かが先輩の脳内のなかにぶちまけられていていっぱいいっぱいになっているのだ。そしてそれはサッカー部の人たちと関係がある。サッカーが好きだった先輩。
 私は彼を放っておくのか? そっとしておこう、深入りしないほうがいいだろうって判断して、黙って駅前まで歩いて、挨拶をして帰るのか?
 そんなわけがない。なんとしてでも救わないといけない。何度も救われたのだ。
「先輩! 裕樹先輩!」
 雨足がさらに激しくなる。もうずぶ濡れだ。走って帰る誰かに押されてよろけた私は、裕樹先輩の目の前に躍り出ることになる。それでいい。ありがたい。
「先輩」
「ごめんね」裕樹先輩は言う。「傘、忘れた」
「私も忘れました。どうでもいいですそんなこと。ふたりで風邪を引きましょう」
「ごめんね。変な人に茶化されたのに、否定できなくて」
「気にしてないですし、先輩は悪くないです」
「ごめんね。僕のせいなんだ。僕がいなかったら、僕が君を誘わなければ、雨に濡れないし、君は変なことを知らない人に言われなかった。僕が黄色さんといたせいで」
「裕樹先輩。私、先輩に浴衣似合ってるって言われてとても嬉しかったです。先輩の地元の公園に来れて、昔の話も聞けて楽しかったですし、かき氷も美味しかったです。だから誘わなければよかったなんて言わないでください。寂しいです」
 裕樹先輩は何も言わない。でも内心では色んなことを考えてそうな顔だ。私はその心を知りたいし、知らないといけない気がする。
「先輩。私、先輩の真似して正しいとか正しくないとか言いますけれど、先輩みたいに、何が正しいのかなんてわかりません。だから行動として間違っていたらごめんなさい。……サッカー部、どうして辞めたのか、教えてください」
「……そんなこと、言ったっけ」
「釧路部長から、一年のときはサッカー部にいたこと教えてもらいました。サッカー部の寺濱先輩と仲が好かったことだって」
「そっか。……どこか、落ち着けるところに行きたい。どこでもいい。屋根があるところに」
 駅前まで行って、カラオケボックスに入る。びしょびしょの私たちが店内に入ると、店員さんが親切にもタオルを持ってきてくれる。ありがたい。とりあえず、一時間コースで部屋を借りる。
 暗い部屋のなかで髪の毛や身体を拭く。佐藤先輩の家でメイクをされそうになったとき断っておいてよかったな、と思う。ただやったことがなくて怖かっただけだけれど。濡れ髪の先輩はどことなく色気があってどきりとするけれど、いまはそんなことで緊張している場合じゃない。
 私は先輩の話を聞きたい。そして話をしたい。
「……さっき、さ」タオルを畳んでテーブルの上に置いて、先輩は言う。「黄色さんは何が正しいかなんて僕のようにはわからないと言ったけれど」
「はい」
「僕も、わからないんだ。何が正しいのか、何が正しかったのか。どうしたらよかったのか全然わからないし、正しいっていったいなんなんだろうってずっと思っているんだ」
「裕樹先輩……」
「ねえ。正しいと思ったことをして、そのせいでたくさんの人に嫌われて、ひどく苦しい目に遭ってしまって、家族に心配をかけたり親友を失ってしまったりしたら、それは本当に正しいことをしたって言えるのかな」

 裕樹先輩と寺濱先輩は小学生のときからの親友だった。ずっと一緒にサッカーをしていた。だから同じ高校に入って、同じサッカー部に入った。ドリブルが得意な新入生とシュートが得意な新入生の仲が好い、ということで二年生や三年生に期待のコンビだとか言われたらしい。
 夏には二泊三日の合宿があった。一日目の夜、裕樹先輩はひどく狼狽した。『サッカー部の通過儀礼』だとか『本当の絆の盃』だとか『勇気の証』だとかで、喫煙を強要されたのだ。二年生も三年生もみんな未成年のはずなのに、楽しそうに煙草をふかしていた。先輩を含む一年生全員の手に一本の煙草が配布されて、吸ったら真のメンバーとして認めてやる、と部長に言われた。
 一年生のひとりが、火を点けられた煙草に恐る恐る口をつけようとしたとき、裕樹先輩は、そんなの間違っている、と反抗した。未成年喫煙はいけないことで、正しくないことだから、やるべきじゃない、やらされるべきじゃないと叫んだ。
 二年生で一番身体の大きい男子に胸ぐらを掴まれて、生意気を言うなと睨まれた。けれど裕樹先輩は、顧問に言いつける、と腹の底から声を出した。ちょうどそのとき、騒ぎを聞きつけた顧問の屯先生が部屋にやってきた。裕樹先輩はそのとき、二年生も三年生も煙草を吸っている最中なのだから先生がきっと叱ってくれる、胸ぐらを掴まれている自分のことも助けてくれると希望を持った。
 けれど、先生は喫煙者に何も言わなかった。おいおい何やってるんだよ、と胸ぐらを掴む生徒に声をかけ、こいつが煙草なんて駄目とか空気読めねえから、という返答を聞いて、
 おいおい春城、空気読むって大事だぞ? いいじゃねえか煙草くらい、青春だよ。
 と、むしろ裕樹先輩のほうを注意した。
 そうだぞ、と部長が言った。寺濱を見ろ、大人しく吸ってるじゃないか。
 裕樹先輩は、つまらなそうに喫煙をする親友を見て、突き放されたような気持ちになったという。他の一年生も『空気を読んで』煙草に口をつけ始めて、やがてその場で煙草を吸っていないのは裕樹先輩だけになった。
 それでも裕樹先輩は抵抗した。部屋の角に追い詰められて顔に煙草を近づけさせられても、必死で口を結んで息を止めた。隙を見て部屋の中央まで逃れることができたときに、
 先生が駄目なら警察に言います!
 と叫んだことが理由で、四方八方から蹴られた。三年生も、二年生も、一年生も、裕樹先輩を痛めつけた。サッカー部員たちから、サッカーボールみたいに容赦なく蹴り上げられた。
 全身が熱くなって涙も鼻血も出て息が上手くできなくなった裕樹先輩に、部長が言った。
 お前さあ、別に未成年喫煙なんて檻にも入れられねえんだからさ。それで停学だの退学だのになったあと。俺たちがお前に何もできないってわけじゃないからな? 家なら寺濱に訊けば一発なんだぞ。
 裕樹先輩は合宿が終わると同時に退部した。その年の夏休みはどこにも行かなかった。


「休み明けに登校したらさ、突然背中を押されたり肩をぶつけられたり、物を隠されたりしたんだ。根も葉もない下品な噂を立てられることもあったから、新しい友達も作れなかった。釧路さんのように、他人の噂に興味がない人がいるなんて知らなかったし。体操着を隠されて体育の授業を受けられなかったこともあったよ。見つかったと思ったらひどく汚されてて、着れたものじゃなかった。新しいものを買ったって、同じことが起こった。結局、運動が得意なのに体育の成績はよくなかったよ」
 滔々と語り続ける裕樹先輩の瞳は、いつになく濁っていた。暗い思い出に前が見えなくなっているような眼。
「僕は恋川高校の校舎が好きだったけど、一年生の頃は、最小限の移動しかできなかった。だって、無駄に動いてサッカー部員と遭遇したらどんなことになるかわからない。トイレだってなるべく我慢したんだ。とにかく怯え切って、なるべく出会わないように努めた。バイト先だって、急行電車で降りない、大した特徴もない駅のコンビニを選んだ。それでも、それだからこそかな、文化祭の頃には休みがちになっていって、一月からは全然行かなくなった。親に協力してもらって、インフルエンザが長引いていることにして。仮病なんて正しくないかもしれないけれど、これ以上無理に学校に行って精神を壊すのも正しいことではないって思って」
「それは、そうだと思います。嘘をついてでも自分を守るべきです」
「ありがとう。……それでも、本当に恋川高校の校舎が好きで、また行きたい、校舎の周りを散歩したりしたい、って思ってさ。入試で在校生が入れない日、いもしない弟を迎えにきたみたいな素振りで校門をくぐった。雪がいっぱいだったけれど、それでも大好きな校舎や中庭を前にして、晴れやかな気持ちになった」
「……そういうこと、だったんですか」
「うん。そのおかげで黄色さんに会えた。……本当に、何がどうなるのか、全然わからないね。僕は、だから、何が正しいかなんて全然わからなくて、それでも正しいほうを選べるよう頑張っているだけで、でも色んなことが手遅れだから、間違いだらけなんだ」
 悲しそうな顔でそう言い切る裕樹先輩に、私はなんて言うべきだろうか。何を言うべきだろうか。何を言いたいだろうか。わからない。わからないから考える。考えて、考えて、正しい言葉を選んで紡ぐ。正しさとはなんだろう? どうして正しさは大事なんだろう? どうして正しくても不幸になってしまうことがあるんだろう? どうして間違えたほうが幸せになることがあるんだろう?
 私は思い至る。世界が間違っているからなのだと。だからときどき、正誤と得失があべこべになってしまうのだと。そしてそれはどうすることもできないリアルなのだと。
 だとしたら私が裕樹先輩にできることはなんだ?
「裕樹先輩。お話、聞かせていただきありがとうございました」私は言う。「私はあなたの判断を支持します」
「……黄色さん?」
「未成年喫煙はいけないことです。裕樹先輩はそれを拒んで、そうするべきではないと言いました。それは、正しいことです。私は心からそう思います。そして裕樹先輩は理不尽な虐めの被害者です。私が映画館で理不尽な痴漢の被害者となったように、それは先輩のせいではない、先輩に落ち度のない不幸です」
 私は先輩に近づいて、その手を取る。体温で少しでも落ち着けるように。
「先輩。裕樹先輩。私は、あなたが正しいことをしたと思います。あなたに嫌なことをしたすべての人を、間違っていると考えます。……私なんて未熟者ですから、もしかしたらそれは間違った判断なのかもしれません。でも、そんなことはどうでもいいです。……先輩。先輩は、私のこと、どう思っていますか」
「え」そんなことを訊かれるとは思わなかったんだろう、先輩は言葉に詰まる。
「いい子だと思いますか、悪い子だと思いますか」
「それは……いい子だと思う。さっき、かき氷をくれたし、いまだって話を聞いてくれた」
「ありがとうございます。じゃあ、先輩が自分の行いが正しかったか不安になるとき、私の意見を、私の支持を根拠に、正しいと判断してください。根拠として弱くならないように、私も極力、いい子のままでいるので」
「……黄色さん」
「そうだ先輩、知っていますか? うのきいろって五文字じゃないですか。五って『正』の字の画数なんですよ。つまり私は正しさの象徴なので根拠としても強いですよ」
「いや、それは無理があると思う」
 裕樹先輩はそう突っ込みを入れてから、でもそっか、と、笑う。
「そっか。うん、そうなんだね。僕が正しかった可能性を信じたいのは僕だけじゃないんだ」
 きっと裕樹先輩は、そうした具体的な経緯の話をご両親にはしなかったのだと思う。真っ当な親だったらしかるべき立場の人間か警察に相談してしまうだろうから。だから、経緯を知った上で肯定する存在がどこにもいなかった。
 正しいと思った言動がひどい挙げ句に繋がり、自分は勘違いをしていたんじゃないかって思ってしまって、勘違いじゃないよと言ってくれる人はどこにもいない。そんなの、しんどいに決まっている。
 だから私は、そのしんどさを取り除きたいのだ。辛い記憶は消せないし、サッカー部の人たちに復讐をしたって状況が悪化する公算は高い。少しでも気を楽にするくらいしかできないけれど、それは大事なことだ。
「ありがとう。黄色さん。ありがとう」
 先輩の声がだんだん震えてくる。目に涙をためている。抱きしめたほうがいいかな、と思う。そうしないと崩れて消えちゃいそうだから。胸中でみっつ数えて、勇気を出してハグ。すると私の顔より後ろですすり泣きが聞こえる。
 いっぱい泣いてください、と小さく呟いておく。聞こえたかどうかはわからないけれど、言うべきことではあるだろう。


 先輩が落ち着いてきた頃にはもう四十分くらい経っていて、私の門限の問題もあり店を出ることにする。にわか雨だったのだろうか、外はもう静かなものだった。
 駅の改札で先輩に訊かれる。
「今日、ありがとう。すごく気持ちが軽くなった。ねえ黄色さん、どうして僕にそんなに優しくしてくれるの? 抱きしめてくれたりして。僕が先輩だから?」
「え」
 さてここで私は好きだからと言うべきだろうか? わからない。いいタイミングかもしれない。でも、言ってしまったら、なんだかこう、逆に私が先輩を支持する理由の部分が薄っぺらくなってしまわないだろうか? 好きだから肯定してるだけなんだ、みたいな。いやそういう面もあるにはあるけれど。ん、いや、でも、そういう答えを聞きたくないのならそもそもそんな質問をしないかもしれない。それとも、そういう答えでありませんようにという気持ちで訊いていたりして? うぅん? 全然わからない。
 どの回答が満点なんだろう? シンキングタイムがほしいけれど、十分後にホームに来る電車に乗れなかったら門限に間に合えない可能性があることを思うと時間が足りない。早く答えないと。早く選ばないと。より正しいほうを。より伝えるべきことを。
 決めた。私が先輩にいっぱい救われてきたからですよ。偽りなき事実だ。よーし。
「それは、私が先輩をすっごい好きだからですよ」
「えっ」
「あっ」
 やっば、間違えた。






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