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序文

ふと本を書こうと思った。

なぜかは、ちょいとしたためた文を褒められたことがあったのでというそんなノリ。
色々なテーマで少しづつ書こうと思っているが、全くテキトーに読み進んで欲しい。
違うと思えば黒で塗りつぶしたって構わないし、共感できればページを破っていつも財布の中に忍ばせてもらったって勿論構わない。

あまり本は読まないので文学的な事は全くと言って良いほどわからないと自負しているわけだが、伝えたいことや頭にめぐることは人並みにあるようでなんだかペンと紙を持っていたようだ。

恐れ多いがパブロのピカソ先輩と同じ誕生日で彼は1881年10月25日生
そしてボクは奇しくも、そう奇しくも1991年10月25日生
寿限無ほどの長い名前を持つ彼の革新的な物事を、ボクも生み出せるかは抜きにしてなんかしらの因果を感じてはいる。

姉に昔、ボクは何かを生み出し続けなきゃいけない星の元に生まれていると言われたことがあった気がする。何が根拠かは忘れた。が、なんとも納得というか安心したというか
ただ姉は占い師ではないことは確か。

これだけ表現する場が増え、皆が自身をアーティストと名乗る事への抵抗力が少なくなりつつあるだが、発信者と受信者の分母が増え価値観も多様化しているこの時代に、音楽やアートにおいてランキングすることがそこまで重要でなくなっているように思う。
そして相互のクオリティもそこまで問われなくなっているのだろう。

価値観をさらけ出すことが、容易になったということなのか、誰もがみんなの一番になる事をやめたのか。そもそもそれ自体間違っていたのか。

言いたいだけや、やりたいだけであればそれは趣味と言えるし誰かに影響を与えなければアートとはなり得ない。などと思い始めているが

難しい事はわからないし、考えたくもないけど結局は自分が楽しいとか面白いって思う事を深く追求した者勝ちなカンジ


ただ言える事は、曖昧な美的センスを許す事は出来ないという事。
みんなこれが好き、良いと言っているから私も好きと言うよりも、これは上質な作品だから私は好き、良いと言う方が正しいと思うからである。


創り出す事は簡単であって簡単でない。
創り出すことの喜びは、それを創り出した本人にしか分からない。ただ創り出す事自体はまだ過程の段階でそこから起きる影響というものが顔をだしたり、なんらかのチカラの連鎖によって自分の元に創り出したことの喜びの先にある喜びが帰ってくることがある。


ただ自分に返ってくるかもしれない何かのために創り出すことはあまり健康的とは言えない。

アーティストはただ自身が創り出したいことに魂を燃やしさえすれば、孤独という寒さにも打ち勝てるだろう。

そんな考えを持っている僕はまだまだ甘ちゃんなんだろうな。




ずば抜けてマイノリティに、枠から外れていく。

中心、中心へと向かう人ゴミをかき分けていく。

もしくは人ゴミの上をひとっ飛び。

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