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【歴史について】河越重頼女という人

十代の頃から折にふれて思い出す、いつも気になってしまう歴史上の人物がいます。

本当の名前も伝わっていない、河越重頼女(かわごえしげよりのむすめ)という人です。

伝承では郷御前や、京都に行った女性ということで京姫などと呼ばれていますが、本当の名前は不明で、そして私は個人的な思い入れからこの人を通称で呼ぶことはしたくないのです。

小学生の時に、奥州藤原氏をテーマにした「炎立つ」という大河ドラマがあり、その終盤に源頼朝に追われて奥州に逃れる源義経も登場しました。義経は勿論日本人に広く知られている人物ですし、義経を主役にした時代劇もたくさん放送されていたので、その一生については大まかには知っていました。そして義経自身には、私は特に思い入れを持ってドラマを見たり本を読んだりしたことはありませんでした。

でもそのドラマがみちのくの国に住む蝦夷の人々の苦難、一時の栄華、そして滅びゆく様を描いたもので、自身のルーツの半分は東北にあり、そして出身地栃木もどちらかというと東北に近い県ということで、私は強く心を掴まれていました。

それからしばらくたって中学生の頃、義経の最期の地と言われる衣川の館の跡に実際に行きました。そしてその時に見た解説の看板で、ドラマでは描かれていなかった、義経とともに亡くなった女性がいたことを知りました。

その女性に関する史実はとても少なく本当に奥州に行った女性が何人かいた妻のうち誰だったのかも、100%は定かではないといいます。ほぼ確実であろうとされているのが、義経の正室で現在の埼玉県川越市のあたりの豪族であった河越重頼の娘という人でした。

残っている数少ない記録によれば、河越重頼女は1168年に生まれ、16歳で河越(川越)から京に上って源義経の正室となり、その後義経の都落ちにも従い、1189年の衣川の館での義経の最期に従って21歳前後で亡くなっています。

私は河越重頼女について調べてみた時、まだ10代だったこともあり、わずか20歳を過ぎたばかりの女性が川越から京へ、そして当時はほぼ異国であった奥州へと赴き、そこで死んでしまったという悲しい人生にショックを受けました。

当時の習俗や厳しい環境から、今よりもずっと早く成人となり精神的な成長も早いとして、それでも20歳に10年ほど足して今の30歳くらいの感覚でしょうか。やはり若すぎる。

奥州に行くために修験者に身をやつし、険しい道を通り、あるいは船に乗り、奥州の地までついていく原動力となったものが何だったのか、私は気になって仕方がないのです。

武家の女性としてのたしなみ、正室としての心得、また、河越重頼は義経と頼朝の関係が悪化した折、義経の舅という立場であったために頼朝によって誅殺されており、他に行く場所がなかったのかもしれません。

それでも、そのような事を踏まえてもなお、東国育ちとはいえ当時の奥州まで、しかも落ちのびる義経に従って行けるのだろうかと考えた時、この人が何を考え、何を感じてこのような行動をとったのか強く心を惹かれます。

実際、義経の妻として最も有名な側室の静御前は落ちのびる途中で帰されているので、河越重頼女もどこか身を潜める場所を探して置いて行くという事もできたのではないかと思いますが、彼女は最期まで義経に付き従っています。

現代の私たちとはそもそもの精神構造や道徳観など何もかもが違いますから、今、私たちが愛と呼ぶものと同じ感情を義経に持っていたのかも分かりません。ドラマのように、ひとえに愛のなせる業だとは思いません。もっと複雑で、私には計り知れない心の動きがあったのだろうと思います。

この人の人生は哀しかったのか、自らの意思で強く潔く選んだ結果なのか、辛さに耐えて必死に生きようとしたのか、案外当時の世の常として静かに宿命に従ったのか、衣川でどんな人生を振り返ったのでしょうか。

義経が藤原秀衡を頼って奥州に落ちのびたのが1187年とされているので、1189年6月に亡くなるまでにわずか2年。当時まだ栄華を誇っていた平泉で楽しい時間もあったのでしょうか。

本当に歴史の隅にいる重要と目されることのない人ですが、私は人生の辛さを感じる時、苦しさを噛みしめる時に不思議とこの人を思い出すのです。

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