【お話みたいな生活】ストレスの3分の1
2013年 ストレスの3分の1
例えば、ナツには、私のお腹の上に精液を出したあと、ぴったりと抱きついてくる癖があって、いつもそれは二人のお腹にべっとり広がる。ティッシュで拭いて何か言いながら笑っている彼を見て、男の人はこういう時悲しくならないのかなと、横たわったままそんなことをぼんやり考える。自分の、上手くいけば人間になった無数の可能性たちをティッシュに包んで捨てるのは悲しくないのかな。
それが終わると、運が良ければ「一緒に入ろか」と言うし、悪ければそのまま寝てしまう。
この日はいつもの四人でいつものように過ごした。バイト終わりの日付が変わる時間から安い居酒屋でビールを飲み、バーに行ってカクテルを飲み、ナツの家でゾンビが人間に恋をする映画を見ながら缶チューハイを飲んで、結衣と涼太が涼太の家に帰って行く頃には、時計の短いほうの針はもう6時を指していた。
バーを出た私たちは、いろんな話をしてくだらないゲームをして大声で歌を歌ってそれぞれ手を繋ぎ、朝になろうとする神戸を宥めて歩く。ナツの家は、飲み屋の多い駅前から二十分ほど商店街の中を歩いたところにあって、すべての店が閉まったアーケードの中は声が響いて気持ちいい。一人で歩くと寂しさと虚しさで充満するこの道も四人で歩けば貸し切りの銭湯にいるみたいだ。
「ねえ、四人で沖縄に行こう」
少し酔った結衣が寒そうに体を縮めて言う。絶対に行くことはないだろうと気づいていても私たちは大賛成して、どんなホテルに泊まるのか車は誰が運転するのか美ら海水族館には行くのか、そんなことを真剣に議論する。
「あたしそんなの幸せすぎて帰りの飛行機で死ぬかもしれない、幸せ死、するかも」
そう言うと、いつも私に厳しい涼太が
「そんな死に方、世界で一番幸せやな」
と言うので、認められた気分で嬉しい。世界で一番幸せな死に方。
ナツとアニメのキャラクターの真似をする。お互いの声真似に大喜びして歩く、とても上手なナツと全然似ていない私は仲のいい兄弟みたいだ。数歩先では涼太が結衣の首にマフラーを巻いてあげている。本当にちゃんと愛されているんだ。それを見て嬉しくなった私がチョッパーの真似をすると
「かわいいなあ」
ナツがそう言って抱きしめてくる。へらへら笑って、腕から抜け出す。ナツの背中を叩いて走る。ナツが私を追いかけ、つられて涼太と結衣も走る。
「さっむいなあ」
こんな時間が、今の私にとって一番幸せであることを痛感して傷ついている。
「沖縄は、今もあったかいねんで」
どうやら運が良い日だったようで、狭いバスタブに二人で座り、スピーカーにナツの携帯電話を繋いで音楽を聴きながらいろんな話をした。
お腹を引っ込ませることに集中する。化粧を落とした私の顔をじっと見つめるナツの視線が気になって、一生懸命に話す彼の話を一生懸命に聞くフリをしながら頭の中で自分の見た目ばかり気にしている私は、だから人に愛されないのかも。
愛されるためにいろんな努力をしたはずなのに、何にも実を結ばないのは
「あつ!出よか!」
本当の意味で他人を想う気持ちがないから?
自分自身を愛することが出来ないから?いや、むしろ自分を愛しすぎてるから?
お風呂から上がって身体を拭いていると、
「あ、ついにスピーカー壊れた、かも」
ナツが言う。
「え?ほんとに?なんで?」
「お湯入ったかな」
「それお風呂用じゃないの?」
「ちゃうちゃう」
「じゃあお風呂で使ったらだめじゃん」
「いや、これもういらんねん」
布団に寝転がるナツの腕の中に潜り込んで、携帯電話でゲームをする彼に何回も何回もキスをする。
「何してるの」
なんだか私は質問してばかりだ。
「ん?こいつら弱いから経験値に変えてんねん」
「…それってえぐいね」
「そうか?普通やで」
「ねぇ、片手間にチューしてるでしょ」
「カタテマ、難しい言葉知ってるねぇ」
携帯電話を置いてこっちを向いて笑い、舌を入れてキスしてくる。片手間が難しい言葉である事に驚いて、気をつけなければ、と思う。
「あ、もう朝の9時だ」
「わー、俺めっちゃラーメン食いたいわ」
夕方に起きてカップラーメンを食べて、ナツにヘアアイロンで髪を巻いてもらって、ひとりで部屋を出た。あの汚くてタバコの臭いが充満するマンションの一室に行く度に、私は心の底から幸せで、それと同じだけ(本当は少し上回るぐらい)不幸せになる。
それは、床に片方だけ転がったミニーマウスのスリッパや、テレビ台の上に無造作に置かれたお手紙や、写真立ての中のきらきらの笑顔や、洗面台の綺麗なピアス、ナツの一挙手一投足、挙げたらキリがないけれど。
私は、あの日、私と結衣と涼太がアルバイトする居酒屋に新しく赤い髪の男の子が入ってきた日、その子が歓迎会で自己紹介をしたその時から、その子の髪が金髪や紫に変わっても、1年と半年の時間が過ぎても、黒い長髪になった今も、目が離せない。
片思いの自己最長記録を更新し続けながら、このためならどんな事も犠牲にできると思う一瞬を大切に大切にしている。
「幸せになるべきだよ、あんな男とは離れた方がいい」
「浮気なんてしてると、いつか自分自身に返ってくる」
でも、好きなんだよね、
バイト先の厨房でチャーハンを作る腕と、ごつごつした深爪の手と、色白の整った顔を崩してつくる笑顔と、私の話を聞くときの目と、ぜんぶ、ごめんなさい。
ナツは、四月になったら東京へ行く。彼女と同棲して美容師になる。
その事実は、当たり前のこととして存在していて、ナツから直接聞いたのか、バイト仲間の誰かから聞かされたのか今となっては思い出せない。
彼はゴールデンレトリバーにそっくりだ。ふわふわした全身と優しい目で周りの人を安心の笑顔にさせて、私はいつでもその金色の中に顔をうずめて眠ってしまいたかった。
私が悲しい出来事があってその話をした時、疲れた雰囲気を見せた時、ナツは必ずふわっと抱きしめてきた。そのあと、腕に少し力を入れてこう言うのだ。
「人間はなぁ、30秒のハグでストレスの3分の1がなくなるんやで」
ストレスの、に続く部分は4分の1だったり2分の1だったり時によって変わったけれど、その説の根拠もわからなかったけれど、大事なことは本当に悲しい気持ちがなくなることだった。
自分にしか、わからない。
くるんとカールした髪を触って、
赤い髪の歓迎会から今日まで、ナツにもらったものと
いまからナツにもらうものを大事に数えながら、家まで帰ることにする。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?