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続いていく人生

遠く離れた国からの帰国途中。
飛行機の窓の外はまばゆく朝が広がっている。遠くに見える太陽は淡いオレンジで空の色は優しい。見下ろす景色は見たこともない白銀の世界で、死ぬまでに絶対に踏み入れないであろう地だろう。いや、絶対になんて言葉はないけれど。

移動時間は好きだ。仕事もやりようがないし、誰かに連絡も無理にする必要はない。見たいものを見て、聞きたい音楽を聴き、読みたいものを見る。そしてこんな風に、突然に記録したいと思い立ちタイピングをはじめたり。シンプルに自分の欲求に従える。

じっくりと自分に向き合う時間は年々と減っていくように思う。仕事は日々積み重なる。経験値が上がるにつれて、事柄は明確になり、いくらか自分なりの手ごたえを感じるようになっていく。正解はないにしろ、そうか、これでいいんだ、これでやってみようというささいな自信が心の芯としてできるようになった。ただひとつやりたい仕事をする代償としたら、決してその終わりが見えないことかも知れない。永遠に続くと感じる自分のキャリアに対して、時々、このままでいいのか。自分の人生において、立ち止まることも必要なのではと思うようになったことぐらいだろうか。漠然と、大きく立ち止まってみたいと思う反面、このまま突っ走りたいとも思う。

30代前半は振り返るにはまだ早いけれど、とにかく試行錯誤だった。大事な決断をくだすことに躊躇したり、先延ばしにしたり、そして楽観視しすぎた部分が多くあった。どうにかなるだろうで動いていたことは、どうにもならなかった。仕事もプライベートも。だけど理想だけは大きくなり、妥協もできなくなっていく自分自身に窮屈さを覚えた。自分のやりたいようにやれる反面、その代償は果てしなく大きいのではという不安にもかられた。実際にそんな代償があるなんて言いきれない未来にどこか悲観的だった。だけど、今となってはその苦悩の日々が今の自分に糧になった。そして今となっては、その日々も無駄ではなかった、むしろ必要だったと思える。だけど、きっと最善の決断は早ければ早いほどいいのではという気持ちもまだどこかにある。

私は誰かと生きていく人生を望んでいた。人を好きになり、その人を信頼し愛して、自分の家族を作ること。それは自分のやりたいことをするというシンプルな情熱よりもはるかにそびえたつ大きな夢だった。と、今となって言える。だけど周りからすれば、私はそんな風に望んでないように見えいたかもしれない。キャリアを優先し、やりたいことをやり、1人でもたくましく生きていけるような。きっと、それはそうだし、きっとそうなれる。実際にそうなっていく自分も簡単に想像できた。だけど、家族という組織の中で育ち、家族愛の中で育まれた自分という存在を考えた時、私はこれからも1人で生きていくという選択肢は考えられなかった。ただひとつ、それは相手があってこそ叶うもので、決して1人では叶わない夢だということを知っていたし、それが一番大きな課題だった。

結婚ということを強く意識しはじめたのは30代になってからなのは間違いない。20代で結婚はどうしても考えられなかった。私自身、どうも恋愛に関しては疎く、遠回りをする傾向があると自分でも分かっていた。周りのスピード感、彼氏がいるいない、結婚の適齢期に関して、自分でも驚くほど楽観的で、何一つ焦りもせず、他人と比べることもなかった。もちろん、彼氏やパートナーがいることは純粋に良いことで羨ましいと思っていた。だけど、それがない自分に対して悲観的になることはなかった。しかし、それが大きく変わったのがやはり30代が過ぎたあたりだった。漠然とした不安に突如として襲われた。それは本当に試練かというほど、毎晩のようにそのことについて考え眠れない日々も続いた。仕事と恋愛、もしくは仕事と結婚。きっと両立できる。それが私の思い描く理想になっていた。だけど、自分のやりたいことをやるという夢のように簡単ではなく、むしろ不安要素ばかりが大きくなっていった。そして私は対人関係、誰かと深く関わっていくことに向いていないのではと自分自身に対して揺らぎも出た。まさにぐるぐると意味の分からない迷路の中に落とし込まれた30代のはじまりだった。

そんな中、東京でまた自分で生活をはじめたということもあり、とにかく色んなことが試行錯誤だった。恋愛もいくつかしたし、この人だと信じた人にもあっけなく裏切られた結果にもなり、私の仕事と恋愛の両立という夢はあっけなく崩れた。あぁそうか、簡単ではない。人生で生まれて初めて、思い通りにいかないことがあると思い知ったのだ。これは今となってはとても良い人生の教訓になったし学びになった。そう思えるまでに数年を要したけれど。気が付けば30代前半は折り返しを迎えていた。

年齢のターニングポイントって実は大きい。年齢に振り回されたくないと想っていても、現実は振り回されるものだ。開き直れると思っていた、大丈夫だと思っていた30代前半は、世間が決めた適齢期の最終号令のように、私を追い詰めていた。だけど折り返しが見えた30代後半になり、色んな要素も重なったが、驚くほど気持ちは軽くなった。開き直ったとはまた違う。私は私の人生をもう一度、見直すべきで、そしてそれはとても楽しく、素晴らしいもののように感じた。だって、私の命が続く限り、私の時間は私の中で確実に進み、悲しいぐらいに歩みは止められないというシンプルで単純な現実に気づいたからだ。そして新たな出会いの中でまた私の日々は彩られていくのだと感じれるようになったからだ。

不思議と巡り合わせはそんな中でやってきて、つくづく人生は面白いと思った。恋愛は自分自身だけの問題ではなく、間違いなく相手との相性によるものだと今は言える。20代前半、未熟ながらもまっすぐに誰かを好きになり、愛し、そして愛されることを知った。だからこそ、30代前半の恋愛がきつく苦悩のものになった。ただ単純に相手選びを間違えていた。たったそれだけかも知れない。それは相手のせいではなく、自分自身の問題だったことにも気づいた。前の恋愛は訳もなく涙が出て、よく泣いた。時間が経てば経つほど不安にかられ、涙はどこまで出るのだろうと不思議に思う程だった。今の恋愛は涙なんて出ない。時間が経てば経つほど、深まっていく気持ちがある。愛おしく感じる。どうして気づけなかったのか。いや、今だから気づいたのか。

今の彼との出会いは本当に唐突だった。期待も何もなく、何も望んでいない時だった。だけど、それは出会うべくして出会った2人だったのかも知れない。彼はどうだったかは知らないけれど、そんな風に私はゆっくりと感じるようになった。劇的な展開、燃え上がる花火のように恋をしてきた私にとって、彼との関係は今までとはまるで違う。ゆっくりと夜が明ける冬のように、耐えてこそ見える景色を見たいと思う。恋愛における熱情のようなものではなくて、自分も知らない部分から湧き上がる泉のような感情。それはただただ、穏やかで、一切の曇りがない。これが私だけに沸き上がっていたとしても、それはそれで良いのだ。多くは望まない、そんな風に想える。

と言っても、まだ知らないことの方が多い。彼の本当の気持ち、感情、性格も全ては分からない。きっと、分からなくても良いんだろう。向き合ってくれていることは確かで、人を大切にしていることが分るから。そしてまた彼も私と同じように理想を追い求めていたのかもしれない。そう感じることが実際にある。そう、こんな風にきっと誰かを好きになりたかったし、愛したいと思っていた。何かを大切にして何かを守りたいと。その認識はお互いに持っていると感じている。そんな2人が出会い、今あるお互いの気持ちを大事にしたいと想っている。今はただその想いだけを見つめていけたらいいだろう。まだまだこれからな2人だから。

そして「絶対」ということはないという現実を知ってこそ、悲しいけど、バランスを取りながら想いを持っている。自分のことも守りながら、自分を愛しながら、もう1人の誰かと向き合っていきたい。それはきっとどん底まで落ちてしまった私自身が身をもって教えてくれた教訓だ。

年齢の分岐点。この先5年後の自分はどうなっているのだろう。思い描く未来の中に、今大切にしている人たちがいてくれたらいいと願う。老いていく大好きな家族のこと。自分のこと。彼のこと。ありとあらゆることが起こるこの世の中に。情報が溢れすぎて、時々めまいがしそうになる今という時代に。たったひとつ自分が大切にし続けてきたこと、それだけは守り続けたい。時代遅れできれいごとだって笑われてもいい。ゆるぎない物を抱きしめていきたい。

遥か上空での記録。
こんな風にして私の人生はいくつもの空を越えて続いていくのだ。


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